はてなキーワード: 失言とは
http://anond.hatelabo.jp/20090607131442
テレビを賑わす文化人?な人達は、医師とか弁護士とか●●学者とか肩書きがあるから出演できる。
って言う人らは仮に実力がそのタレント化してる業界人よりも上だとして2通りあって、
・自他共にみとめる実力者で、テレビに出てる暇はない。
のどちらか。
俺は後者が多いと思える。
匿名ブログで業界人を批判してる人らもこの層で、テレビカメラの前だと怖くて言えない。
炎上が怖い。コメントはすべて記録され、一言でも失言したら消される。
だからその専門領域のトップクラスでなく、2流と影でコソコソ言われてても、
茂木氏みたく論文書きながら職人とトークしたりバラエティに出たりできるだろうか
大衆が何と言おうとメディアに顔を出してコメントするってのは勇気がいるもんだよ。
まあ、それを頑張ってるんだからあたたかい目でみろってわけじゃないんだけどね。
要するに同じ立ち位置で批判しなきゃ、「根性無し」とか「ニセモノ」とか言っても姑息とかじゃなくって、カッコ悪いんだよ。
生簀の中の魚をモリで突っつくみたいに最初っからフェアじゃないんだ。
「どちらが重いのでしょうか?」っていうのは、遥か昔から議論の対象になっていて、
「問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものなるや』」
というのは、“多門第一”といわれた、釈尊の高弟“阿灘”の問いとして紹介される事も多い設問だけれども、原典は『那先比丘経』という、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナの“対談集”だよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090517101611
つーのはやっぱりあると思うんだよね。
で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近のネットはずっとそうだよね。
冒頭の問いかけに対する釈尊、あるいは仏教僧ナーガセーナの回答として記録されている文章というのは、
「あなたはどう考えるのか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸を、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするのか?」
↑これだけ。文献によっては鉄丸だったり火箸だったりするんだけれど、そこはまぁ、大した問題ではない。
いわゆる「先進国」での、“法律的”“世間的”な標準は「知らなかったのであれば情状酌量の余地あり」というのが主流。「自発的に行われる行為にたいして罪状を重く見ている」のね?
どうしてかといえば、“再発・再犯の防止”という社会運営上の都合でもあるし、「全く知らなかった事を理由に処罰されたくは無い」という人情の表れでもあるだろう。
「(それをすればどのような結果になるか)分かっていれば実行に移さなかった」
とか、
「(適切な対処・対応の方法を)知ってさえいれば防ぐ事ができた」
とか、少なくとも、
「きちんと理解している人がそこに居さえすれば被害の拡大を防ぐ事ができた」事例というのは数限りなく存在するわけでね?
だからなのかどうかはいまひとつ確信できないんだけれど、哲学・宗教系では「知らずに犯した罪の方が重い」という解説が付いている事がほとんどなんだわ。
「無知こそが罪悪である。」
「悪いと思っていないから際限が無い」
大雑把にまとめるとこのようなスタンス。確かにごもっともなんだよ?ごもっともなんだけれど、非常に恣意的なものを見出してしまうのよ。少なくともおいらが知る限り、釈尊・阿灘の問答にも、ミリンダ王と仏教僧ナーガセーナの対談にも、原典に近いとされるものには「知らないで犯した罪の方が重い」という記述は無いんだよね。
「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”
↑こんな言い回しがあちこちで目に付いてさ。
でもこれって、簡単に変質してしまわないか?
例えばこんな風に↓
「無知である事は大罪である。この大罪から逃れるために、この神(思想・主義・その他諸々)を信じなさい。信じない・信じられないものは大悪であり、人間ではないのだから、打ち滅ぼしてやる事こそが彼らにとっての救いである」
「知っていれば、つかみ方が違うし、布を巻くなりするだろうし、そもそもつかもうとしないだろ?」
っていうのが大体共通するところなんだけれど、知っていようが知っていまいが、同じように焼けた鉄を同じようにつかんだら、やっぱり同じように火傷するんじゃないのか?
「殺人でもこんなに重くない」 識者も驚く福岡ひき逃げ高裁判決:http://www.j-cast.com/2009/05/15041250.html
このケースで単純に比較はできないんだけど、「判決が」ってよりブコメの『市民』感情の中に
つーのはやっぱりあると思うんだよね。
で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近のネットはずっとそうだよね。
『意図的に他人を批判してサイト閉鎖に追い込むような人』には次々に擁護者があらわれる一方で
『「ついうっかり」な失言した人』に対しては容赦ない弾圧と炎上がはじまる、みたいな。
それってみんな『優しい』んだと思うな。
なんつーか『傷ついた!』と叫ぶ人に優しい。
…みんな『優しい』よ。
変な意味で。
解任できなかった事が問題なのだが、辞任でけじめがついたと主張している幹部の姿を見ていると、危機意識が無いとしか、思えないのであった。
政権を狙う以上、政党としてのポジションを強く国民に訴えなければならないのに、そのチャンスを、みすみす、辞任によって逃してしまった。これでは、自民党と変わらないという事になり、選挙においてアピールできる点にならない。
かろうじてメリットがあるとすれば、党首選を派手にやることによって組織を引き締める事ができる点であろう。党首選の運動が、そのまま次の衆議院選挙の票固めになる。与党としては、衆議院の解散は遅ければ遅いほど良いという事になる。それも、できる事ならば、新党首を国会に引っ張り出して集中砲火を浴びせ、失言を引き出した後が、望ましい。
政治日程を眺めると、今の補正予算はいったん取り下げて、民主党の新党首が決まってから再提出を行い、国会の論戦に持ち込んだ方が良いという事になる。満期解散であるが、補正予算案を争点に持っていくという手口である。満期日の前日である9月9日に衆議院の優越によって成立させるには、その予算案の30日ルールにより、8月10日までに衆議院で可決して参議院に送らなければならない。6月中に民主党の新党首が決まるという日程は、6月24日告示7月3日投票の都議選が始まってしまう為である。
民主党の党首選を都議選の事前選挙運動に取り込むという発想は理解できる。民主党は、東北以外では、都市や一区での議席に依存しているから、そういう層に訴えかけなければ、議席が取れない。赤字予算と地方へのばら撒きが止まらない自民党政権に対する都市・一区住民の不満をとらえて躍進するには、都議選は、良い舞台となる。
タイミング的には、与党の解散権を封じて都市・一区住民の票の行方を占う野党党首の辞任とも言えるのだが、それゆえに、ここは辞任ではなく解任とするべきであった。
辞任によって、日本の民主党は自民党と変わらないという印象をもたれてしまうのでは、せっかくの都議選が無駄になってしまうのである。こうなった以上、民主党からの離党なり、議員辞職なりを求めてけじめをつけさせないと、都市・一区住民の票を民主党が集める事は難しいであろう。解任であれば、一議員として民主党に残っても問題は無いという話になったであろうが、辞任では影響力が残ると判断され、離党か議員辞職でなければ、民主党のイメージを変える事ができない。
主権の委譲やら移民の受け入れといった売国政策を唱えているのが党幹部にいるし、政務次官経験すらない代議士ばかりの民主党に政権は任せられないが、古い自民党に戻ってしまった与党に冷や汗をかかせる存在ぐらいにはなってもらわないと困るのである。
あーそれは災難だったね…
そんだけしつこくいわれりゃ失言しても仕方ない気がする。まぁでも「細かい作業をすると頭が痛くなる」「肩が凝って仕事にさし障る」とかもくわえておけばよかったんでわ。
ビーズアクセを否定する気は全然無いけど、自分の好みではないので、そういう話題は極力スルーしていました。上手い人が作ったビーズアクセは確かに可愛いと思うけど、自分の服に合わせて着ける気にはなれません。
でも、先輩のお姉様方はしつこく「増田ちゃんも一緒にビーズアクセ作ろうよ」と誘ってきます。適当にお茶を濁して断っていましたが、諦めてくれる気配がなくて困っています。
「ねえ、増田ちゃんも一緒に作ろうよ」
「いや、私には似合わないんで」
「いえ、だって私、カジュアルな服あんまり持ってないし」
「いえ、やっぱり素人が作ると、どうしても安っぽくなっちゃうと思うんです」
後日、「増田ちゃんって、ブランドのアクセが好きだから、ビーズアクセなんて安っぽいのは嫌ってバカにしていたわよ」みたいな噂が広まっていました。
えー?
私がブランドのアクセが好きなのは事実(といってもせいぜい安いティファニーやフォリフォリ程度)だし、ビーズアクセを「安っぽい」って言ってしまったのも失言だったけれど、その失言を無理矢理言わせたのはあなたじゃないですか。せっかく似合わないとか不器用とか無難な断り方をしていたのだから、そこで空気読んで引き下がってくれれば良かったのに。なぜ自分が責められなきゃいけないのか納得いかねー。
なんかショックだったので…初めて書く。コメント頂けたら有難い。
俺は今、外国で寮生活してる。世界各国、正確な数は知らないが軽く数えても10以上の国の人が共同生活してるようなとこ。
ネットはよく使うし2chもよく見るが、そんなとこにいるくらいだから嫌韓(ネトウヨっていうのか?)ではなく、まぁそういう人の言うことも理解できるけどあんま関係ないな、って感じ。
ルームメイトも韓国人だし(彼はいつも笑顔で話しかけてくれるとてもいいヤツだ)、ちょっとかわいいなって思える韓国人の女の子や他の国の仲間と遊びに行ったりもした。来てからだいたい一週間。
でも、今日はショックなことがあった。
事が起こったのは夕食の時。いつも皆で食べるのだが、今日は偶然まわりがコリアンだった。
(ルームメイトの彼はいなく、だいたいが2、3回会話した程度の人たち)
公用語はもちろん英語…なのだが途中から韓国語トークで自分にはさっぱりに。
仕方ないので黙々と食べていると聞き覚えのある日本語が何回かとびかっていた。
タケシマタケシマ。
ヒマだった俺はつい反応、「あー、ジャパニーズタケシマ?」みたいなことを言ってしまった。
失言。背筋が凍る感じ。全員が血相変えてつっこんでくるとは…。(なぜ独島でなかったかはわからない)
悪気がないのは察してくれてるだろうし、ちょっとしたジョークな感じで流れたので多分彼らも気にしていないと思うが、なんか途方もないやるせなさを感じてしまった。そもそも日常会話に竹島がでてくることからしてショックだ。
なんか彼らとの付き合い方がわからない。もちろん全員がそうではないのだが、ネトウヨの言う韓国人も極端な例ばかりではない気がする。ここでつっこんできたのも、割と高圧的・自己中な感じのする韓国人だった。彼らは彼らの常識をしているんだろうけど。
俺は今も嫌韓ではないし、彼らとも仲良くやって生きたいと思っている。こんな日記を書きながらも韓国人のルームメイトと楽しくしゃべっている。
タケシマトークをしていた韓国人も道ですれ違えば笑顔で挨拶してくれるが、感じた壁は埋まる気がしない。
清和会と閏間ってそこまで情報握れてるんだろうか?麻生と大差ないのでは?自分達が逮捕されないと確信してるっぽいというのも捜査情報握ってるというよりただ単に油断してるだけじゃないかと。清和会ー閏間ラインが主導した捜査なら失言で二階まで飛び火させそうなあたりが計画性なさ杉で本当に彼らがわかってるようには思えんのだが。郵政選挙で堀衣文立候補させて翌年に逮捕されてるし、清和会もそこまで特捜とのパイプなさそう。角栄や金丸見ても平成研も特捜とずぶずぶとは思えないし、意外と日本の検察は政治から独立してるんじゃなかろうか。そのほうが怖いという見方もあるけど。
二者の発言部分だけを太字にしてみた。
http://www.asahi.com/politics/update/0316/TKY200903160320.html
麻生首相は16日の参院予算委員会で、小沢民主党代表の秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された事件について「明らかに違法であったがゆえに逮捕になった。逮捕となった事実は事実。今の法律でも、それなりにきちんと効果があったから逮捕になったと考えるべきではないか」と述べた。これに対し、質問した社民党の福島党首は「(判決確定までは)無罪の推定があるのは当然だ」と批判した。
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009031601000868.html
麻生太郎首相は16日の参院予算委員会で、西松建設の巨額献金事件で小沢一郎民主党代表の公設秘書らが逮捕されたことに関して「明らかに違法であったが故に逮捕ということになった」と述べた。社民党の福島瑞穂党首への答弁。
福島氏が公共事業受注企業からの献金を禁止すべきだと主張したのに対し、首相はこう述べた上で「今の法律でもきちんと効果があったと考えるべきではないかと思う」と強調した。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090317k0000m010077000c.html
麻生太郎首相が16日の参院予算委員会で、小沢一郎民主党代表の公設第1秘書による政治資金規正法違反事件について「明らかに違法だったがゆえに逮捕になった」と答弁し、議場は一時騒然とした。質問した社民党の福島瑞穂党首は、容疑者や被告は有罪が確定するまで無罪と推定される法の原則を指摘し、「(今回の事件も)無罪の推定があるのは当然だ」と述べた。【三沢耕平】
首相の発言のボリュームがそれぞれ違う事が分かる。と同時に、毎日新聞だけがこの発言を「失言」という事にしたがっている事も見えてくる。
ついでに言えば、これら三つを読む限り福島瑞穂は「違法」と「有罪」を混同しているような気がする。麻生は(逮捕された秘書を)「有罪」とは言ってないのだから。
あのー色々なご意見があるのはご存知のとおりですが、今でも個人には出来ないんですからね
今でも出来ないんですよ。だから、聞き方を聞いていると今、出来るように聞かれるかも知れませんが
今でも出来ませんから。ここだけは間違えないで下さい。そこの所はものすごく大事なところです。
西松の話に限らず全てですよ、これは。基本的にこういった事は今、個人にはできないというルールになっております。
今、話題になっております話、今回の話と言われたのはどの話か良くわかりませんが、今回の話と言うんであれば
明らかに違法であったがゆえに逮捕と言う事になったんだと、言うように思っておりますので、
法律は 【ざわ… ざわ…】 逮捕は間違いないでしょ。 【ざわ… ざわ…】 逮捕は間違いないんじゃないの?
【ざわ… ざわ…】 逮捕は間違いないんじゃないですかねぇ。 私は逮捕された起訴されたとか言った事はありませんが
逮捕された事までは間違いないと思っております。あの、法律の解釈の違いでそちらの方が法律はお詳しいと思いますんで
逮捕と言う事になった事実と言うものは事実ですからその上に立ちまして私どもとしては
それをどうのこうのいうつもりはありませんが明らかに今回は逮捕と言う事になったのは
今の法律でもそれなりにきちんと効果があったから逮捕と言う事になったというように考えるべき事でも、
考えるべきなんではないかと思っております
特に当たり障りのない事しか喋ってないような気がするんだが。
はじめに
ログのすなどりに嫌気がさし、大半の人は「水伝」との係わりを渋ります。折りしも「●かな●さん(他称?のため)」のコメ欄で騒動が再開されました。予備知識がなく二の足を踏むのはもっともですが、人物が整理され、構図も実相も鮮明となっています。臆することなくフリーハンドで結び目を解く新人が参入して良い頃、読者にとっても良い機会ではないでしょうか。
人物(A・B・C・D)
!現在「共感派」を構成するのは、二年前の不用意な記事がやり玉となったブロガー同盟ではなく、Cを起点にはじけた「連座制が嫌で黙っていたけど、心中は穏やかではなかったです」タイプの中間層の繰り上げ。
四人には「蜜月時代が嘘のような」という紋切り型は相応しません。不即不離、木箱(親和的ではないサークルに向けるあなたの呼びかけは、共感、論理派以前の分岐点となります)に居心地良く収まった当時の様子はたやすく思い描くことができるでしょう。論理派(世間知を蔑ろにするトラブルメーカー!)が、数多のブログから応答が困難な共感派(反知性主義の擁護者!)の文章を今もこぞって俎上にのせるのは、私怨だけで説明がつくものではありません。
!水伝には「的確な人物評は罵倒と見分けがつかない」という魔法の言葉が存在する。
o A 「軽はずみな謝罪を行い、軽はずみに謝罪を求める」人物とされる。「怒りの表明と記事の削除、言明(反省)を促す行為は、謝罪要求にあたらない」といった理屈を受け止めることができるならば、あなたはこちらのグループ(論理派)に入る。
o B そのパートナー。踊り子の軽快なステップ、武道家の重厚なさばきを併せ持つ論客を自負する。まるで組み手上等の伊東富士子だが、場に響くのはきしみ、無理強いした関節の悲痛。
o C その友人。職業スキルに信頼を置く千の衆望を担った元メルマガ発行人。耳目をそばだてるフレーズを多用し、自身への火の粉を振り払うためでも、育成したスキルのネット社会での応用を頑なに拒む。
o D その崇拝者。コピペブロガーの上位にあたる引用ブロガー。三行を超えたコメントの通読が苦痛をもたらすのは、選択と長短が不適切だから。「違和感は読者を立ち止まらせるための文章術」という評判は拾えず。
人物(E・F)
先の四人とは趣が異なり、リアルで交流を楽しむ情景(たとえばBとEのテーブルを挟んでの談笑)は、どれほど想像をたくましくしても浮かびません。
左翼的言論を活発に展開していた四人は異質を迂回できず、受容か拒絶の択一を自身に課しました。Eグループが騎士団と呼ばれ、Fグループがカルト(信者)に喩えられたのは、EとFがシンボルに祭り上げられた(落とし込まれた)からです。二人への直接批判は無益と下部が了解している節があり、強い批判が引き受けた支持者らへ向きます(沈黙は肯定か逃亡とみなされます)。
E・Fにカリスマ性は露も認められませんが、サークルクラッシャーの資質は備えます。隙が多いのも特徴的で、Eはそれを「観測気球」、Fは「無頼」とする演出が見え隠れしますが、今に至るまでその効能は明らかになっていません。
背景
水伝一幕は、科学リテラシーを感情で語る者と品格を論理で語る者との争いでした。ネットの論争で前者に勝ち目はありません。その「論理」で科学を語り、ほころびが露になる前に敵失によりステージが一気に変動したのです(トラバ論争)。qed「水に脳はないから水伝はいんちき」は、外野の「理系」にも含みを招いたことでしょう(一人が対話を試みましたが、Eの「謝罪認定」で終了します。そのブロガーはようやく「事情」を悟り、取るに足りない汚名と引き換えに撤収できました)
前者が退いた後もネットリテラシー、主観論、運動論を引きずり、メンバーの参入と離合が劇的に行われます。グループ分け終了後の大きな対立軸としては、Eの「邪推が成り立つ」、Fの「ハラスメント」問題があります。語りつくされた疲弊感も漂いますが、「謝罪論争」直前のBの失言など踊る余地も残されています。
渦中へ
G(A)のコメ欄に向かう前に、読者は論点に対する見解を用意します。
o「双方論争」から引いた「卑怯者論争」は正当か?
o Gの回答(ハラスメント)はなぜ無効とされるのか?
o グループ内で発せられた嘲り、暴言に論理派が倫理の判定を「忌避」した理由は何か?(流れを読め、発言者本人に尋ねよ、罵倒芸だ、訴えればどうかと回答した人々の真意は何か?)
o 過去ログから相手側への謝罪が提出された場合、論理派は詰みではないか?
o 論理派の張った狭義(「双方」は頻度と深刻をデータ化し、等量である事を明示)、予防線(性的言辞は最大値、蔑称は最小値をとる)は妥当か?
o 一般認識、文脈大問題は「邪推が成り立つ」を問われた場合、詰みではないか?
o 「嘲笑」目的以外の、コメント削除を行いながら投稿禁止の処置をとらない理由は何か?
過去へ
ひと続きの古い結び目から解きたいと希望する読者は、出典をみずから発掘し、不明な部分の詳細を確認することが条件になります。引用を避けたのは、騒動の教訓に「人は埋め込まれたリンク先すら読まない」とあるからです。
関連を訪ね、水伝以前までログを遡ることで「神の視点」を体感し、デッドエンドの憂鬱な記録を「ハッピーな」団欒シーンで読み終えることができます。
「春樹受賞の弁」を踏み台にするのは良い考えではありません(デッドエンド)。会話はA・B・C・Dに限ること。他と応答する義務はなく、価値も認められません。四人は確かに傷を負い、自分に借りを作りました。伝言ゲームの応酬では勘定が合わないはずです。
おわりに
嘲笑や恫喝は慣れっこだが、家族への言及には耐えられない、尽力する保護事業に累が及ぶのは不当だと考えるなら、goo。
※劣勢の共感派への疑問を追加(しかしAE混成チームに痛み分け以上の戦績を残せる者が何人いることか)。
共感派は論理の不備を質されている訳ではなく、誰かのそれに乗じて済ました過去を見咎められている(みんなで笑ってやろう)。その「論理」が牙を向いたとき、なすすべもなく動転し、次に誰かの当てこすり、空騒ぎに乗った。以前の踊り場がどれだけ狭量なものであったかに目を背け、遥かに刺々しい場所を臨んだのではないか。
TV局もなぁ相対としてはがんばってる企業だと思うぜ?
地域社会にしっかり貢献していたり、それこそ、学歴関係なく雇うからそれなりに雇用維持対策になってたりな。
良い面は良い面で、そうやって評価できるけど。
当のマスコミ自体が、たとえば麻生政権の良いところは報道しない。失言系はしっかり報道する。という姿勢なんだから。
まるで鏡のように自分がやったことが自分に返ってきてるだけなのに、倒産目指すような運動されても困るってのは
それこそ、政権打倒だけに執着された報道されても困るとか、犯人扱いの報道だけされて、無罪と分かってもフォロー無しみたいな報道されても困るとか。
そういう事じゃない?やられて困ることはまず、自分から治していかないと発言に説得力がない。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090212/324601/
これとか。
上司が怖い,読者が怖い,スポンサーも怖い,さらには取材先も怖い。改めて考えてみると,こうした構造のなかで私たちは仕事をしているのである。そこに身を置きながらも「真実をありのまま舌鋒鋭く」表現するのは,それなりに勇気のいることである。けれど,それに慄き怖れに身を委ねてしまえば,手放しの賞賛や腰が砕けた当たり障りのない論評しかできなくなってしまう。
でもそれでは読者や視聴者も飽きてしまうから,たまには何かを痛烈に批判したい。その,格好の標的になっているのが,とりあえず叩いてもどこからも文句がきそうにない犯罪者や大問題が露呈して立ち直れそうもない企業,さらには失言をしてしまった政治家ということになるのだろうか。昨今のテレビや新聞の報道をみていると,そんな「いじめ」にも似た傾向がどんどん強まっているような気がしてならない。
大騒ぎになってる元の発言はこれのやりとりの中で出てきたんだそうな。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6113199
うーん…。
ここ数日あまりにテレビの盛り上がりっぷりが凄まじいから、どんだけ間抜けな失言したのかと思ってみたら肩すかし食らった感じ…。
うつ病+ブス(豚)+KYが揃った奴と二人きりで会うことになったのだが、なんとかしてこいつと縁を切りたい。
俺が同窓会の幹事した時に人数合わせで呼んで、その上、そいつの話を親身に聞いたので勘違いしたらしい。不快感与えないようにあたりさわりのないこと言っただけなのに。メールによると、そいつの中では俺は「活発でやさしい人」って認識だそうだ。現実の俺はまったく逆なんだが。
声でかくて(興奮すると異常にでかい)、友達の友達レベルの自分にまで「うつで自分がいかに辛いか」を訴えてくるし(そもそもこいつの周辺には友達がいない感じだった)、リストカットしてるし、人の話聞かないし、アドレス教えたら気持ち悪いメール送ってくるから、もうお近づきになりたくない、と思っていた。うつ病とかブスだとかそういうことは実際、どうでもいい。言動が、生理的にダメ。
観光したいみたいだけど、ノリがいいところを見せずに、終始つまらなそうな表情しよう(つーかまともに案内しねぇ)。それと、ちょっとでも失言っぽいこと言った時に執拗に人格を責めれば、きっと彼女も失望してくれるだろう。
あんまり頼み込まれたんで会うことを了承しちゃったけど、今ではものすごく後悔してる。ほとんど他人レベルの人間と親密にする義務はないし、そんな関係を続けていてもお互いに害悪。上で挙げたのは極端な例だけど、とにかく「私はあなたのこと嫌いなんですオーラ」を出しまくろうと思う。考えてみたらもともと縁なんてものはなかったな。どうでもいい存在。
政局というか経済情勢によって、目標未達成でも増税の必要性が出てくるかも知れないし
政局というか経済情勢によって、目標達成でも増税の必要性がないかも知れないし
政局は他の情勢の影響と他国の影響を深く受けるのと、経済情勢に詳しくない政治家が多数いる。という政局独自の難しさ、
あと、そういう情勢の変化から論理的に正しくても、数字が間違っていればツッコンでくる野党とか。
郵政発言程度でも曲げたら、失言とか言う政局をトータルに考えると。
ただ、そういう困難を極める状況の中で、消費税名言というのは、小泉当たりからは(国民の支持が得られるわけがないという意味で)気が狂ってるといわれたらしいが。
少なくとも明言した。という段階で、勇気がある発言というか。黙って影でやるより良いと思ったよ。すくなくとも、すこしは国民に開かれた政治だと思う。
麻生は良くやってるよ。マスコミが良いところは報道せず、悪いところばかりを報道してるだけ。
ちょっと前に麻生がやったこと一覧というのが、増田にあったけど、アレを見ると良いと思う。
党内での発言をマスコミにリークする奴とか、そう言うのに苦しめられてるだけ。
郵政は失言とか言うが、自分のやったことが間違ったかも。とか思ったときに、それでも、発言撤回すると失脚するから、間違った方針を貫こうとするほうがよほど問題。
総理は神様じゃないんだから、まず方向を示して、周囲の意見を良く聞いて方針を立て直すのは正しいあり方。
もっと慎重に発言というのは、真であるが、あれをもって、失言と言われたら、発言なんかできなくなる。
揚げ足を取る内容が些細なことならとるほうが悪いと思うが、麻生の場合は景気対策の目玉である給付金での失言、今の与党の議席をもたらした郵政での失言だからだめなんだよ。マスコミが幹事の読み間違えを取り上げるから支持が下がると思いたい人をネットでよく見かけるが、麻生の政策に関係する発言聞いて支持しなくなった奴のほうが多いと思う。
つくづく何を書けばいいか分からん。というか書いてる場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。でも何かしなくちゃいけない気がする。そうそれは勉強のはずなんだ。するべきなのはテストに備えての勉強のはずなんだ。でもちっとも手をつけられない。どうしてか。かったるいからだ。めんどくさい。やってどうなるんだと思う。したって意味がないんじゃないか。単位を取って進級してそれでどうするってんだ。特に目標はなく惰性で進学しようとしているだけだ。それでどうする。何事か成し遂げたいことでもあるのか。しいて言えば楽をしたい。オタク趣味に興じていたい。できるならそれだけ突き詰めていきたい。でもそうしたい理由もかっちょ悪いもんだ。なるべく他人との接触をとらずに現実から目をそむけていたい。他人との直接的な接触を避けて生きてくことなどできないだろうし、完全に排してしまうことにも恐怖が募る。少しくらいは接点を持っていたいとも思う。だけどあまりべたべたとは嫌だし長い時間を共にするのも避けたい。空気を保ちきれない。会話していなくちゃいけないというのはつらい。しないでいてもなんともないってこともあるのだろうが、信じられない。前にそんな状況を味わった気もするけれど一時的なもんだ。長いこと一緒にいたせいでそういう嫌悪感が麻痺していただけじゃないかと思う。だって寝て起きたらまた気まずさに心痛める他者との接触になるのだから。一時的なことなのだ。常に一緒に居続けることによって思考と感覚が雑になっているだけなのだ。というかこんなことを書きたいわけではない。書いてる場合じゃない。どうすれば勉強に積極的に向かえるかということを模索したいのだ。ついネットをしてしまう。英語なんぞ見たくもない。数学の演習を解く気にもなれない。でもやっておかないと今週のテスト地獄に対応できない。でもつい「勉強なんていやいややるもんではない、きちんとした理由を見出してこそ打ち込むべきだ」と自らを正当化しようとしてしまう。そのせいでこんな下らん現実逃避文を書いてしまうのだ。非常によろしくない。勉強をしたくないがしなくてはいけない状況に追い込まれたとき、いつもこんな風にして悩み解決のためという名目で何の意味もなく読み返す気にもなれない文を書いてしまう。いつからこんな癖がついてしまったのか。文章を書くようになってましになっている部分なんてあるのだろうか。客観的に自分を見つめられるようになるとかいうがそりゃまた個人差があるだろう。そんな気はしていない。というか内に向かう気質がさらに育まれている気がしてならない。それはまだ数をこなせていないからなのだろうか。わからない。もっと自分のようなやつがたくさんいるとわかれば安心するのだろう。だがそれではただ安堵を得るだけ得て何もしない自分が再び現れてくるだけではないか。それではいかんのだ。せめて少しずつ進歩していきたいからこそこうして書いているのだ。だがこのままだとある程度の文量を打ち込んだらわずかな達成感を胸に対して勉強もしていないのに明日を迎えてしまいそうだ。だが実際いま自分の中には達成感に似た充足感がにじみ出つつある。これでよいのだろうか。そんなことは分からない。いやよくない。とにかく眼前には来年楽をするためにも今のうちに多く単位を取る、それ以上に確実に進級するためにもテストに備えて勉強をするという目標があるのだ。だがそんな刹那的な生活の中に身を置いたままでいいのだろうかという逃げに似た思いが、こんなタイミングで邪魔をする。一見すると正しいように見えるから困るのだ。もしテストの重圧に囚われていないものが目を輝かせて言ったならああ若いなこいつとそこそこの評価をいただけるのだろうが今の自分が言えばテストがいやな学生のごまかしに過ぎないのだ。それだけ分かっていて勉強せずにこんなことしてるのはなぜだろう。わかってると言いつつ全然わかってないのだろうか。口先だけ、言葉の上では意味をなしているが頭の中ではどうにかして勉強せずにすませる方法があるのだと信じ切ってしまっているのだろうか。濁していうことでもない、確実にそう思っている。中学高校とそうしてギリギリで進学してきた。ほんとにギリギリだ。本気でやったら底知れない力でも眠ってるんじゃないかと思ってしまうほどだ。でもそれは視野がせまっくるしいだけだ。実のところはそこらにいる大多数の大学生とどっこいかそれ以下だろう。でも自分の中の玉座には俺はなかなかにすごいという傲慢さが座っている。どうしても降りようとしない。おそらく本気で取り組んで打ち負かされたことというのがないからだろう。その点ばかりは覆せまい。本気でやったことがある気がしてない。ないだろう。自分の評価が低すぎるだけで、もう充分本気で生きてるのかもしれない。まさかこの状態が、この適当にやり過ごして生きてると思ってる状態が俺の本気なのだろうか。まさか。そんなことは考えたくもない。だってそれなら適当に愚痴りつつそこそこに生きてまた愚痴りながら死ぬだけじゃないのか。それで人並みに幸せを感じていられればいいけれど今の俺はだいぶ抑圧されている気がしてならない。我慢ばっかだ。耐えるとかじゃなくてしなくていい我慢ばかりしている。心底楽しいと思ったことがこの4年近くない。一切ない。わけでもないかもしれないが、少なくとも生きててよかったと思えるほどの体験はない。最高だと思えた一日はない。とてつもなく広く思えた世界は思い出の中にしかなく、最近の視界は脳の反映でしかない。これ以上の成長を望める気がしない。世界は16歳で完結したのではないか。これ以上新しさを感じることもないのではないか。もしかするとそういうすばらしく思えた何かとか世界とか視界だとかいうのは思い出の中にしかないものなのだろうか。そんな気もしてくる。ではそんなものに囚われているこの日常もまた思い出してみたら適当に美化されていくのだろうか、どうなのだろうか。そんなことはわからない。事故は変化する。していなくてもそう思いこめばそうなる。きっと未来の自分はそう思い込む。そんなことはどうでもいいのだ。今の自分がすべきことは眼前のことだけだ。勉強。この言葉が重くのしかかってくる。して良かったという実感もないのにしろと言われてするものそれが勉強だ。あくまで自分の中でだが。楽しくて自主的にやってる人もいるんだろう。といいつつもそういう人間の存在を信じてはいない。というかいないだろう。いてたまるか。少しでいいから純粋にそうやって勉強できる心を分けてくれ。一瞬でいいから代わってくれ。どういう幻想なんだ。教えてくれよ。とにかく俺はしたくない。したいと思う理由も、そういう方向に導いてくれる趣味も考えも俺は持っていない。他人の考えにひたすら感化されて生きてきた俺にそんな自主的な思いなど湧いたことがあるのだろうか。自分で分からないのだから問いかけても無駄だろう。それでも問いかけてしまうのはなぜだろう。知らん。とにもかくにも単位を落とすだの赤点を取るだのというのは俺にとっては脅威だ。そんなことをしてみろ。また後々苦労が増える。そうだ。こうしていやいやながらにも勉強を向かおうとしてしまうのは未来の邪魔な要素だけは増やすまいという消極的な希望によるのだろう。願望だ。別に何か得たいわけではない。むしろ減らしたいのだ。余計な不安要素を排除しておき、せめて明日歩くであろう道を整備して歩きやすくしておこうという意思だ。願望でもないな。回避だ。余計なことをしないで済むようにという回避だ。いやどうだろう。もっと何か理由がある。することがないのだ。何をしていいか分からない。したいことなどない。楽しいと言えることは思いつかない。でも楽なことはしていたい。それがゆえに勉強という辛いものから目をそむけ、それよりは楽なことに逃げているのだ。楽しいことがあるならそのために頑張れるかもしれない。しかし俺は楽しいは知らず楽しか知らない。楽しいと楽では積極性が死ぬほど違う。楽しさとは何だったかももう分からない。めんどくさいこととの比較で楽なことを導きだす筋しか分からない。どうしようもないクズだ。楽しさを求める努力はわずかにしている。しているはずだ、だが見つからない。まだ探し足りないのだろうか。いや気づけていないだけか。どうなのか。存在していないのか。理解できていないのか。んなこと分からん。昔楽しかったゲームをやってみるが今はすぐ飽きる。すでに飽きている状態でちょっと気が向いたのでやったからだろうか。そもそも飽きていたという。そんなことは承知済みだ。大体のことに飽きている。つまらんのだ。楽しむ努力が足りないのか。そもそも楽しいってなんだ。わからん。迷走している気がする。いや迷走しているな。こうしてどんどん時間を消費していく。これは楽しいかもしれない。どうだろう。だが意味はない。目の前には見ることすら嫌気がする英文が書かれた教科書があるがどうするわけでもない。ただキーをたたくだけだ。もう嫌だぜ。治療法を知っている人がいるなら教えてほしい。もうわけが分からない。単純に考えてみようと思ったが長続きしない。自分で心に決め込もうとしたことは一日たてば一気に冷える。そんでどっかに消え失せる。どこに行くやら。思考の端に姿が見えるがもう触る気がしないのだ。自分の手あかがついてる考えなど使う気になれない。そもそも内にこもりすぎなんだろうか。もっと交流をすればいいのか?んなこたずっと前にも思ったさ。しばらく触れてはいなかったが。しかし会話だとかなんてのはそもそも体力をすこぶる消費する行為だ。好き好んでする奴が信じられない。もしかしてそっち側にはそれだけする価値のある楽しさがあるのだろうか。どうなのだろう。概観を教えてほしい。体感させていただきたい。できないだろうが。長いことしゃべくるだけで何が楽しい?自分が理解されていく感じ?寂しさが少なからず緩和されてく感じ?楽しい感じ?わかんねーって。そんなに思考の探り合いが楽しいか。俺はつかれたよそんなもん。いっそのこと会話するときなんて頭がパーになってくれりゃいいんだ。めんどくさい考慮なんぞしないでいられればいいんだ。人を傷つけたところでいに関さない心でいいんだ。そもそも傷つけてるかな、とかわざわざ思考する必要がないんだ。んなこた誰にも分からない。それでも考えてしまうのはなぜか?そうするのが快感なのか?だとしたら俺は相当のマゾだ。自分を傷つけて喜ぶ自傷馬鹿とおんなじじゃないか。失言か。どうでもいい。そんな理解できないもんを考える必要などないだろう。といいつつもやっぱりなあ。こうしためんどくさい行為を経てでも会話せざるを得ないんだろう俺は。みんながそうして苦しんでるってんなら喜んで同調しつつ繰り返すだろうが、そうしてるかなんてのもわかりゃしない。どんなにあがいても俺一人でやってんだろって気持ちは抜けない。他人の存在を信じきれない。いないんじゃね。ばかばかしい。なら好き勝手に生きればいいんだ。そうできない時点で何かを信じている。でも惰性かもしれないぞ。仕方なく生きちゃってるのかもしれないぞ。だとしてもそんな流れを断ち切るこたできない。どうでもいいんだもの。こうしているうちにもどっかでセックスしてるやつがいるのだろうか。しねよ。失言か。謝らないよ。聞いてないし。あーテストとかどうでもよくなってこない。思い出すと焦燥感は現われる。解消したいのかどうにかして取り組みたいのか自分でも分からない。ただそうだなやりたくないな。手をつけたくないな。たるいな。めんどいな。どうにもならんな。勉強することで俺の心が疲弊して擦り切れていく気がする。やりたくないことをすると自分が擦り切れて死にたくなりそうな気がする。言い訳なんだろうか。でもそうなんだ。やりたくないことはしなくていいとか誰かいってたな。でも自分が強情だとそういう言葉でも脳みそはほぐれないんだよ。なんだかなあ。わからん。五感と意識を自分でオンオフできたらよかろうに。そしたらどうやってオンするんだっての。しんでるじゃん。せいぜい寝ることしかできないか。あーだったらずっと眠っていたいよ。つくづくそういうときはこの世界は自分の妄想説を支持したくなるよ。他人がいないなら俺が何かする必要ないじゃん。俺の妄想なんだから。あーひとりでいるときはそういう説が頭を占めるけれど他人をいるとどうしてもそんな考えに基づいて生きてなどいられない。そりゃそうだ。他人といるときそれなら狂人だ。どうあっても他者を意識してしまうんだろう。ほんと困るぜ。常に正攻法で生きていきたいらしい俺は。いやなのに。自分が嫌だ。何ともうまくいかんもんだ。ここまででどれくらい書いたか見てみたがいい感じに気持ち悪い。いいゴミを書けた。やはり文量を出せると気持ちがいい。優越感がわき出てくる。こんな長文書けるやつはいないだろうなっていう優越感。すてき。ばかばかしいけどそう感じてしまうんだから仕方がない。取り繕っても満足はないし、んなこと書いたところで満足するでもない。でもできれば正直に書きたくもあったりでめんどくさい。葛藤こそ人間の本質というがあんまりややこしいのはどうかと思うぜ。3手ぐらいでクリアできる葛藤であってもらいたいものだ。なんでもかんでも。しかしどこでこれやめたもんか。参った。もっと書いて画面を埋め尽くしたいけど何か目的が変わっちゃう。そもそもそうしたかったのだろうか。何でもいいからアウトプットしたかったのだろうか。しかし時間は過ぎるのでますます月曜日のテストが不安になる。でも不安をそのままにするスキルを持っちゃってるのだ。当たって砕けてなお反省しないでいやいや生きるというスタイルが定着している。そんなのやめたいという葛藤もやらないとまずいという不安も手を着けずにいられる怠惰を知ってしまった。どうすればいいのだ。といいつつ何もしない姿勢をだ。これは仕方がない。このままでいこう。とあきらめられればいいのだがこの性格の特性上見かけ上の抗いはふつふつ出てきてしまう。実にややこしい。意志の力でも高めて頑張ってみる?(笑)知らんがな。もういいよ。諦めようぜ。でも惰性の慣性力は消えないんだよなあ。めっちゃだるいぜ。ああ、人間もメモリ拡張外付けHDD接続できればいいのに。うわーどうにもなんねー飯食って寝るなこのままだと・・・
まるで今のテレビがウソばかりついてるような書き方だが、昔と比較して別段ウソ・大げさが増えたわけではないよ。最近増えてるように見えるのは単にバレやすくなったというだけで、テレビが伝える「事実」と「ウソ・大げさ」の割合はそれほど変化しているとは思えない。問題は伝える事実の偏り具合。
首相が漢字を読み間違えた程度で連日テレビであげつらっておいて、野党の某の巨額の金銭スキャンダルはスルーする。そういう「事実」の選別が酷くなってるのが問題。「淡々と事実だけを伝えて欲しい」というのは、テレビ局や新聞社には間違ったメッセージにしかならないよ。「首相が漢字を読み間違えた」という「事実」を淡々と伝えるようになるだけだから。
「政治家の失言」なんてのもさ、ぶっちゃけ新聞やテレビが騒ぐかどうかの違いしか無いわけよ。彼らさえスルーしてくれればどんな酷い事言っても問題無いわけ。「○○を大々的に叩いておいて、似たような××に黙りを決め込むのはおかしい」と言っても、「報道の自由の問題だ!」と突っ張られて終わるだけだしな。個人的な知人で、地方のテレビ局関係者に直接言った事があるが「こっちだってボランティアでやってるわけじゃないんだよ。視聴率につながらない事を放送するバカがどこにいる?」と真顔で答えられて「正直こいつらもうダメかも」と心底思ったもんだ。