はてなキーワード: 命題とは
気がついたらずいぶん間が空いていた。
ハイクは見てたし、しばしば気になることがあったりもしたけど、グルグルと小難しく考えてるうちにまとまらなくなって書きそびれていた。
ここはひとつ肩の力を抜いて少し軽い気持ちで見たまま思いついたままの雑感を久しぶりに書いてみようと思う。
これまで何度か引用などをさせて貰っているダイアリーに少し前に下記のような提案があった。
お観察さんは「仮定したケース」ではなく、お観察さん自身のハイクの使い方やモチベーションをケースにすればいいと思った。
それとの比較によって「違和感」がはっきりしてくるんじゃないかしら?
私自身のハイクの使い方というと少し話が狭くなると思うので、私のハイクの捉え方を出発点に考えてみようと思う。
自由に好きなことを書く場所っていうことだけ。
規約に反したり、公序良俗に反したりというような明らかに問題があるようなことさえなければ何でも良いと思う。
以前もこの観察記でも書いたが「真っ白なノート」というのが一番適当だと思っている。
そこに日記だろうが、写真だろうが、動画だろうがなんでも書き込めばいい。
それこそ議論したければすればいいよ。
それぞれがそれぞれの思ったように使えばいい。
それが私のハイクの捉え方。
先のハイクの捉え方を踏まえたら、違和感のもとは拍子抜けするくらいあっさりと分かった。
前々から何となくは気づいていたけど。
結局何か「型」にはめてしまうようなことをしてるのを見ると違和感を感じるんだろうね。
とりわけ誰かが作った「型」を人に押しつけようとしている時に特に違和感を感じるみたい。
「こうあるべき」とか「こうしなくてはいけない」みたいな感じで。
例えば「長文は書かないべき」とか「使えないキーワードは作るべきではない」とか。
あとそれが転じて発生するルール管理やその一環のとしての自警行為みたいのもちょっとなって。
その手のは例の「ユーザーh」の件以降はほとんど無いみたいだけど。
ただ、以前書いたけど、極端なことは控えるみたいな他ユーザーへの気遣いはあっても良いと思う。「公共」の場だし。
取りあえず違和感についてはそんな感じだろうか。
この辺で突っ込み入れていくのって結局繋がりを意識した結果なのかなとふと思った。
「繋がること」が命題化してしまった結果というか。「繋がること」が当たり前みたいになってしまった結果というか。
「ハイク全体がひとつのコミュニティ」みたいな捉え方をしてしまうとそうなりやすいのかもしれない。
ほんとは全然そんなこと無いのに。
こうなってくると確かにもはや「ゆるい繋がり」とは言えないのかもしれない。
色々尻切れトンボになってるけど、長くなってきたから続きは次回にでも。
少しずつ色々思いついてきたので。
これちょっと面白い命題だなぁ。元の似非科学の話とは関係なくなるけど、まぁそっちはどうでもいいじゃん。
・普通の人にとって、自然科学で説明できる範囲は自然科学者が思ってるよりもずっと狭い範囲でしかない。
ってのが逆だと指摘されていて、個人的にはこっちよりの意見。
科学意外になんもできないなーってのが実感だけど、意外と説明できる事象もある。
例えばカオス理論のこととか宇宙のこととか。DNAのこともぞくぞくするほど予想以上って言うよりも想像しなかったその視点かーってことがわかってるし、こういう意味で元増田のことは真になる。
SUICAとかすごいよねー。
でも、ドラえもんの道具ってほどじゃないけど、そこまで科学に期待されてもなぁってことがやっぱ多い。
そうだよーこんなに原始的な研究してるんだよーって。
つまりどっちも真だなーと思ったわけで、この命題面白い。
「自分の考えを上手に表現したい」「自分の気持ちを伝えたい」
ってことへの執着心が強い。ものすごく当たり前のことだけどね。
これがこの文の命題(A)である。以下筆者はこれを論証するのであるが、比喩(A')が用いられてる。
料理好きな人って「おいしいものが食べたい」って気持ちが強いらしい。
(中略)
本を読んだり外に出て研究して、それを取り入れる。とにかく満足しない。
私に足りないのはこの執着心なのかなぁ、と思った。
あたかも料理好きな人がおいしいものが食べたいという強い気持ちから料理好きになるように(A')、物書き好きは上手に表現したいという執着心でいい文を書く(A)。私は執着心がないのでいい文が書けない(-A)。こういう論理構造になっている。
つぎに筆者は裏返した命題(-A)を論証するために筆者の体験を引っ張ってくる(-A')。
私はライフハックとか読んでも「うまい人はこうするんだ、へー」くらいにしか思わない。
絶対に「じゃあ試しに実践してみよう」とか思わない。
やる気があったら、「試しにやってみた」とかで記事を書くしかないのに、
せいぜいはてブして「参考になったわー」で終わり。
しばらくしたら、そんな記事を読んだことも忘れてる。その繰り返し。
自分でもホントバカだなぁ、と思う。
裏返した命題(-A)を筆者の体験(-A')という形に変えて繰り返すことで(-A)を論証し、ひいては(A)も然りという構造をとっているのがわかる。
ここまでに筆者は執着心のなさゆえにいい文章が書けない筆者を通し、文を書く上での執着心の重要さを説いた。
たぶん私は「素材」が重要だと思ってる。それ以外の努力を軽く見てる。
書いてることの内容が良ければ、あとは読み手が頑張ればいいじゃん、と思ってる。
読み手のために頑張るってバカバカしいと思ってる。
「うまく表現できれば気持ちいだろうな」とかなんて考えたことがない。
「自分の思い通りに書けると安心だな」とか考えたことがない。
これも執着心のない筆者という具体例(-A')を通して裏返した命題(-A)を繰り返している。
どちらかというと、テクニックより、この「上手になると気持ちいい」とか
「ブログ続けてたらこんな成長があったよ」って報告のほうが、今は読んでみたい。
最後はいい文章を書くのに必要な執着心(A)を筆者が得られるような報告を読みたいと結んでいる。
【追記】
「自分の考えを上手に表現したい」 これは違う。 自分の考えを、相手に伝わるように表現したいだけ。 だからうんうん悩んで工夫するだけ。上手に表現ってなんだそれ。
これは「ライフハック系」「テクニック」に属する立場からの指摘だが、
わかるよわかる。そういう一般論を語って「俺はわかってる」って顔をしたい気持ちすごくよくわかる。
私だってずっとそう思ってたもの。でもね、そう考えて文章うまくなりましたか?って話。
筆者の主張は一貫して執着心の必要性(A)にあり、
君が言ってることは「前提」にすぎなくて、それだけじゃ足りないってことがわかったのさ。
それは「ライフハック系」「テクニック」の類の先にある新たな課題なのである。
結局のところ「自分もうれしい」って気持ちがないとだめなんよ。
君みたいに「もっともらしい話」に満足して、それを他人に押し付けようとするやつって多いけど
そう思うなら確かめてみればいいと思うよ。
筆者は執着心がないために(-A')指摘への反論を中途で放棄した。ここでも筆者の文章の下手さは一貫して執着心のなさ(-A)に起因しているのである。
全体的傾向について言うのは全称命題とは違うだろ。
日本における地方は農業における補助金政策で農業の効率化という概念そのものが存在せず。地方町村を支えるシステムとして農業が成立できなかった。そのため、地方町村では余剰人員を土木工事系、建設系職種に吸収させること、仕事を与えるために無駄な工事を乱発した。
こうした背景があったため、公共工事があればとりあえず地方町村は潤ったし、公共事業に末端で従事する人たちには将来とか、貯金とかそういった概念が無いので、地方では多少なりとも経済が回った。
そしていま、国の財政危機に伴う公共工事の減少で地方町村でのそういったシステムが崩壊しつつある。
地方町村は続々と財政的に破綻するだろう。(だって産業がまともにないんだもん当たり前)
結局の所、自らの財政規模を考えず、人口減少にもかかわらずユニバーサルサービスなんぞという実現不可能な命題を抱えた地方町村には未来は無い。あるわけが無い。
552 名前:550[sage] 投稿日:2008/10/14(火) 15:00:53 ID:LImVJlD10
生と死の狭間に己を笑い恍惚として自ら忘るる
されば夜明けの嘆きを鐘に神曲の幕よいざ上がれ
黄金の兜の覇王は万里を征し愛馬と共に川底へ沈む
孤赤児は蚯蚓の血を母の乳とし三夜して腹より腐る
生命よこの賛歌を聞け笑い疲れた怨嗟を重ねて
生命よこの祈りを聞け怒りおののく喜びを枕に
百年の生は炎と剣の連環が幾重にも飾り立てよう
七日の生は闇と静寂に守られ無垢に光り輝くだろう
獣よ踊れ野を馳せよ唄い騒いで猛り駆けめぐれ
いまや如何なる鎖も檻も汝の前には朽ちた土塊
生と死の選択を己に課す命題として自ら問う
されば嘲笑の歓喜する渦に喜劇の幕よいざ上がれ
嵐の夜に吼え立てる犬は愚かな盗賊と果敢に戦う
温かい巣で親鳥を待つ雛は蛇の腹を寝床に安らぐ
せせらぎを聞く蛙の卵は子供が拾って踏みつぶす
獣よ踊れ野を馳せよ唄い騒いで猛り駆けめぐれ
いまや如何なる鎖も檻も汝の前には朽ちた土塊
姫は唄い、諸人を祝い、
そして地獄へ蹴り落した。
そりゃ、何もかもが答えのない問題ばかりだったら、世界は無法地帯だわなぁ。
結局、短い文章で説明できる範囲の問題。
基本的に99%は既存の答えがある程度決まった問題を解きながら、残り1%は答えのない問題に取り組んでいかないと、時代の変化について行けない。
ということで、とはいっても99%というのは答えが決まっているのだから、特筆することが無くて、淡々とこなしていく。
残りの1%はたった1%だけど、答えが分からないので、試行錯誤しながら莫大な時間をかけて答えを見つけていく必要がある。
そういう前提の中で、99%とか1%とかいうのは比率の問題で研究職とかは1%じゃなくて50%ぐらいだよね。とかそういう特例があることも記述した上で。
過去と同じメソッドだけを使っていると労働が、時代遅れというか、陳腐化して、単金切り下げ、コストカットの憂き目にあって、どんどんワーキングプア化していくか、
最悪、産業自体が全部、新興国か、機械に置き換えられて、会社ごと倒産とかになる。
なので、いやだろうと何だろうと、持てる力の何%かは、新しいことに挑戦しないと行けなくて、変化に対応するための時間に費やさないといけない。
その事象を指して、世の中というのは、答えのない問題だらけだ(答えのある問題は特筆するに及ばない。)って言うんじゃないかなと思っていたんだけどどうだろう?
http://anond.hatelabo.jp/20081012183831
あと、新しいルールを作るのに、過去のルールを知っていることは大切。だけど、それが全てでもない。だから、新しいルールというのは、本当に答えがない。
もし、過去のルールを全て知っていないと、新しいルールが作れないという命題が真だとすると、新しいルールを作るには古いルール全て学べばよいという答えができちゃうからね。
そんなこともない。
この世界が難しいと思うのは、本当に正解も王道もなくて、バナナダイエットじゃないけど、これさえやっていれば大丈夫ということが全くないと言うことだと思う。
あれもこれも、適度に。古いことを知るのも適度に、新しいことにトライするのも適度に、学歴重視も適度に、低学歴の思いつきも適度に。すべてをバランス良く、学んでいかないとダメ。
と思いきや、たまには、一転重視型が成功することもあるという、本当に正解が全くない所だと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080928160235
こう聞かれて、「スッキリしませんが」と答えられたらどうする?実際にそう反対する人も多いと思うよ
つまり元増田の感情論で同意を求めるという「感情による論理」は一瞬で破綻するわけだ。元増田は何歳だ?
古代ギリシアの哲学は奴隷制度があって暇があったからあそこまで議論できた。
中世の哲学はキリスト教神学と密接な関わりがあって、普遍論争なんかは神様はどういう存在か、そもそも神様がいるのかどうかを隠れた命題にしてぎりぎりの議論をした、と覚えている。
宗教の問題はときに人が死ぬし、戦争も起こる。自分の存在価値を位置づけてくれるものなんだから誰もが命を張って守ったり戦ったりする。頭のいい人同士が死にものぐるいで論戦したのを「くだらん」のひとことで片付けられると浮かばれないと思うわけですよ。
もう一度読み返すか、別な本を読むことをお薦めする。
「必ず何かが起こる」って言いたいときには「全ての均衡でその何かが起こる」っていう命題を立てるものだと思う。
「ある均衡で何かが起こる」だって、「必ず起こる」には違いないんとちゃうの?
だから、「必ず」がfor-allだ、なんて言ってたマヌケはやっぱり論理学を欠片も理解してないと思うわけ。
苺から来ますた。なんかどっちも口汚いなあ。
しかし様相論理なんて経済学で使うのは余程マニアックな人たちだけど、「必ず何かが起こる」って言いたいときには「全ての均衡でその何かが起こる」っていう命題を立てるものだと思う。まあ普通ってか、その増田よりもぼんくらな経済学者は。それか(背反じゃないけど)不確実性を入れていてその中で「確率1でそれが起こる」とか。
ついでに言っておくと、いやそういうのは様相論理としてはきちんと時制とか可能性とかの問題を扱えてないっていう指摘はあるかもしれない。けど、まあ経済学者の大方はそうやって片をつけてるってところでいいんじゃないの。元は、どっちのほうが経済学を知ってるかって話のようだし、そこで様相論理なんてものを持ち出したところで筋違いっていうところで。
っつうか、どっちでもいいけど、小島さんが数理経済学だろうがゲームだろうが、要するにマクロ屋ではないってことではいいんじゃないの。確率屋さんとは思わないけど。
あと、この増田の前の話だと、いくら論理的には無税国家になるっていうのがもうひとつの結論だったとしても、じゃあそれが政策的に世間様を納得させれるかって話じゃなかったっけ。なんでまだ論理学の話で納めようとするんだ?
まあ、元の「バーナンキの背理法」も数理的にかちっと証明されたものじゃないみたいだし(せいぜい啓蒙書の中ででしょ)、そこを論理的にどうこう言うのもナンセンスってことなのかなあ。バーナンキ自身が出てこないとようわからん。