はてなキーワード: ジェネラリストとは
TENGA EGGが甚大なる衝撃とともに発売されてから4か月が経過した。そしてその間に、われわれの社会は水面下で大きな変貌を遂げた。
TENGA EGGはこの社会になにをもたらしたのか。一言でいうならそれは、「変態の一般化」という名の“革命”だ。
どういうことだろうか。この変化について理解するためには、まずEGGの革新性について知る必要がある。
TENGA EGGはただのオナカップではない。手軽に使えるオナカップという枠にとどまらず、それはポータブル・ザーメン・コンテナーでもある。キーワードは「三安」だ。
安全――内容物を露出・漏出することなく注入・輸送できる。
安価――1個たったの500円、しかも何度でも使える。(※使い捨てと称されているが、実際には洗えば繰り返し使用可能)
安心――外見から内容物を悟られる可能性がきわめて薄い。
これまでの精液輸送業務は多大な危険と負担と不安とを従業者に負わせるものだった。それは一般にコンドームなどを用いて行われるものだったが、いずれの手段もこの「三安」を同時に実現できるものではなかった。
たとえばコンドームは日本が世界に誇る品質だけあって、輸送中の漏出の危険は存外低いものであったが、使い捨てゆえにコストパフォーマンスはそこまで優秀なものとはいえなかった。なによりも外見が致命的なまでに不審である。
あるいは注射器を愛用する者もいた。これは一見、「安全」と「安価」を両立できるようなアイテムに思われるかもしれない。しかしながら実際のところは精液の注入が大きな手間となるし、やはりフォルムの怪しさはいかんともしがたい。
TENGA EGGは精液の採取から密封、輸送、放出までを一手に担う、変態界のジェネラリストだ。しかも見た目はただの卵。事前事後の露見のおそれは驚異的に低下する。ただTENGA EGGをドラッグストアで購入し使用するだけで、誰でも気軽にお手軽に"BUKKAKE"を実行できるのだ。街角で、電車内で、オフィスで。
その登場でBUKKAKE事業参入のハードルはぐっと下がった。誰でも一度は思ったことがあるだろう。「あの娘にかけてみたい……」と。でも思いとどまったはずだ。手順の煩雑さにうんざりして。犯行後の社会的制裁を恐れて。下は小学生から上は後期高齢者まで、この幅広い潜在的需要に応えた結果としてTENGA EGGは生まれた。
実際、TENGA EGGの発売後、電車内・駅構内での被害事例は急増の一途をたどっているという。これまで秘めたる欲望を抱えながらも実際の犯行には及べなかった「潜在的変態層」へのインセンティヴとしてTENGA EGGは働いているのだ。
“革命”は着々と進行しつつある。
いつも不思議に思うんだが、何かにつけて池田信夫は思慮が足りないだとか、「また池田信夫か」みたいな言い草であの人の記事を一笑に付す人居るよね。
俺の職場にも一人居たんだが理由を聞いてみると、IPの枯渇問題について言及していた記事が気に入らなかったらしい。それ以来三流学者としてレッテルを貼っているようだ。あの記事は確かに技術的なレベルではおかしなことを言ってる(たとえばIPアドレスというのは2のべき乗単位でしかマスクが切れない、といった知識が池田氏には無いことがわかる)が、経済学者があのレベルまで掘り下げて物事を考えられるというのは俺からすれば賞賛に値するし、あんなジェネラリストが経営陣に居たら俺は安心して仕事ができる(直属上司としては何とも言えんけど)。あのエントリーについてここでどうこう言うつもりは無いので置いとくとして、俺が言いたいのは、なぜ人は学者や著名人の発言だと容赦なく辛口になり、ともすれば重箱の隅をつつくことに尽力するんだろうかということ。
プロで三割ヒットを打てば優秀な打者と評される世界がある一方、100エントリー中100エントリーで突っ込みどころの無い正論を書けない人が三流だと言われる世界なんだろうか。みんな学者を神様か何かと勘違いしてないか。ただのおっさんだぞ。ただのおっさんに信者やアンチが付くことが理解できない。その「池田信夫だから言うことはみんな正しいんだ」とか「池田信夫だからいつも間違ったことを言っている」という思考でBlogの記事の良し悪しを語るのよそうよ。良いこと言ってるときは素直に認めなさいなということ。
あめちゃんのCMじゃないけど、彼らにとって池田信夫はどうやら特別な存在らしい。10割打者であるべき学者が、たまに変なこと言ってると許せないんだろうか。学者に対する劣等意識が根底にあることは間違いないとは思うけど、それにしても何の反論にもなっていない脊髄反射ブコメを見てると情けなくなってくる。「間違ってる意見が多い」とか、もうそんなのばっかり。たまに「どの部分が間違いだらけなの?」って具体例を望むと無視か1つエントリーを引っ張ってくるだけ。反論はいつも他人任せで、URLを貼り付ける係でな。挙句の果てに「人を見下している態度が気に食わない」とか、お前が何様のつもりなんだよと言いたくなるようなものばかり。
威勢よく啖呵切ってる奴がいるかと思うと、そいつのダイアリーは大抵非公開だったりするし、あんな脊髄反射コメを1行書いただけで鬱憤が解消できるのだとしたら随分と人生楽にやっていけるだろうな。反論はできないけど、なんか気に食わないからとりあえず「上から目線が気に入らない」だとか適当に本筋とは別のところからダメ出ししときゃ気が晴れるっていうのもお手軽な精神構造だなぁ。羨ましいよ、「これはひどい」って6文字書いておくだけで気持ちに折り合いが付くんだもん。国会の野次以下だぜそれ。俺の場合反論できないと悔しくて夜も寝られん。
経済学者でもBlogなら専門外のことでもどんどん好きなこと書きゃあいいと思うんだけどな。学術活動のつもりでやってるわけでもないでしょうに。Blogを楽しんでるよこの人。みんなはBlogを書くときに、自分の職業や学歴がどうだとか、そんなつまらないことが足かせになって執筆を躊躇するの?
書かなけりゃ弱点だって見抜かれないし、そりゃ「なんか偉い学者」のままだわな。間違いも弱点もさらけ出しつつ、それでも尚、強気で書き続けるからこの人は学者なんだよ。それぐらいわかれ。サービス業のように「読者様は神様です」みたいな性根で書かれた記事なんて不要。市民を小馬鹿にしたような物言いも、それが本心なのだとしたらそれは仕方が無い。むしろそれを隠して庶民感覚を演じておきながら、心の中でベロを出されている方が俺は嫌だ。自分のありのままの考えを伝えることができるのがBlogのいいとこなのに、「書くな」とか言ってる奴はそもそもBlogに何を求めてるのかと言いたい。
("物書きの才能があるのかしら")
これがいつから存在する言葉なのかは知らん。少なくとも10年前に在籍していた(JIETを使った偽装請負だけで儲けるしか能のない)会社の社長がよく吹いていた言葉なので、ある種の世界では定説だったのだろう。ただどうにも納得できないことがある。今日のコンピュータサイエンスという分野自体がノイマン型を起源としてもたかだか60年しか無いのだ。コンピュータが学術の世界から飛び出し、中小企業までにも広く導入され実用化したと言える状況になってまだ25-30年程度なわけだ。かつては情報処理というものは総務部や経理部の一業務に過ぎなかったけど、企業のIT化に伴い次第にそうした部門が電算部として独立し、果ては子会社化・アウトソーシング化へという流れに進んできた。SIerと呼ばれる、情報システムのマルチベンダー化を象徴した業態が当たり前のようになったのもたかだかここ15年程度の話。
前述の社長はまさにパンチカードや磁気ドラムの直接世代だったので、おそらくそういう世代の人たちにとっては現場要員としての実質的な定年が35歳だったのは事実なのだろう(知らねーけど)。ただインターネット接続環境が爆発的に普及したここ10数年は、情報処理の技術も市場も「劇的に」変わった。求められる技術者像も変ったし、情報処理技術者が目指す分野も細分化された。プログラマーとしての実務経験がまったくなくても、データベースエンジニアやネットワークエンジニアとして初心者の雇用を受け入れている世界になっちまっているほどだ。これは極端な例で無茶苦茶だとは思うが、それでもどうにか勤まるポジションがあって、しかも人材不足な世界であろうということは容易に推測できる。40代の現場要員なんてザラに居るし、PGにしても40歳になってから組み込みの世界に飛び込んだ初心者も居るぐらいだ。全然減ったという印象を受けない。ちなみに俺の職場は社員・請負会社のメンバー含めて平均年齢は36歳である。嘘ではない。
少なくとも、今のIT業界における就労事情を語るにあたっては、20年以上前の人々のそれは「ちっとも」サンプルにはならないはずだ。これ、実際にどうなんですかね。35歳を過ぎて仕事にあぶれたPG/SEなんて居るの?「私はCOBOLしかできません」って言ってる50歳でも食えているんだよ。10年前に「C言語やCOBOLは10年後には確実に無くなってる」って言ってた奴出てこいよ。
今にして考えるとあれって現場をドロップアウトした人間が、営業しかできなくなった今の自分を粉飾するために編み出した論理武装だったのかもしんない。俺も上司から「いつまでも現場に居たのでは駄目だ、いつかは現場を離れて管理職としてマネージメントするのが、情報処理技術者の理想像だ」と説かれたクチだけれども、それって確かに「選択肢の一つ」ではあるけど、それこそが情報処理技術者の理想像だというのは少し違うんでは。最近は、下流工程から上流工程へ移ることが情報処理技術者のキャリアップかのように語る人も増えたが、はぁ何それって感じだ。そもそもあんたらの言うところの上流・下流云々ってIT業界の理屈じゃなくてSI業界の理屈だろと言いたい。俺が5年後SI業界に居るとは限らねーし、あるいはどっかの国で地味ーにコード書いてるかもしんない。
んで、その上司も社長も技術的にはザルだったので、技術の世界でやっていけなくなった人間が観念して現場を離れ、今の我々のポジションこそが理想像だと言い聞かせたい気持ちはわからんでもない。35歳説の正体って、案外そういうところにあるのではと最近思い始めている。
34歳になった今、自分が衰え始めたという実感はまったくないし、まだまだ収入が上がっていく確信がある。上流工程でスペシャリストとしてではなくジェネラリストとして振舞う機会はあるにはあるが、俺としてはむしろそういう仕事の方が「衰えた人間の成れの果て」みたいな扱いを受けているようで抵抗があるんだよな。
もともと"情報処理技術者としての素養の無い人"の定年35歳説なら信じてもいい。
狭い業界の技術専門誌だけに書いて生きていくつもり?
具体的にどう役に立つんだよ。お前そういう説明全然出来てないだろ。喩え話ばっかで。
俺はお前さんの上げたLispやら低レベル言語やらコンパイラやらの意義を、全部具体的に説明できるぞ。だから基礎教養だといってるんだ。
微積分学や古典文学という体系は、お前さんのあげた基礎教養科目より明らかに大きいだろ。得意不得意の問題じゃない。
鼻歌交じりにバイクを解体できる外人の整備工が、箸をうまく使えなかったら、箸を使うのはバイクを解体するより難しいということになるのか?
あと、文系でも、言語学分野の人なら基礎的な形式言語理論は押さえておいて損はないはず。
古典や漢文の知識ひけらかすことがどうプレゼンに影響すんだよ。
俺はあなたの論点の不備を一つ一つ指摘してるだけで、自分が一貫した主張をしようとしているわけではない。
どこでどう不備が指摘できてるというんだww つーか、そうか、一貫した主張も出来ない奴がえらそうにプログラマを語ってるのか。死ねよもう。
ロックやポップスを聞くためにクラシックを聞かなければ楽しさが分からない、とかいう主張はアホだ、と言ってるだけだが。聞きたい奴だけ聞けばいいだろ。
あのさあ、「ジェネラリスト」の意味わかってる?いろんな分野に視野横断的に目が効く人のことを「ジェネラリスト」っていうんだよ。数学だけ勉強してれば文学も歴史も語れるっていうのかい?
文学なら近現代のそれが、あるいは世界の名作文学が優先じゃないかと言ってるだけだが? 日本の古典の専門教育を優先する理由はどこにもないだろ。歴史については何も言ってないし。
しねーよ。公教育ってのは平均と底辺を引き上げるためにやるんだぜ? 勝手に貪欲に勉強するような本当に優秀な奴は、海外留学でもなんでもやってるよ。
いや、それはどうか。逆ならまだわかるが。
あのさあ、ライターだったらリード文に気の利いた文章一つ書けないでどうするよ。狭い業界の技術専門誌だけに書いて生きていくつもり?一般科学雑誌とか、もっとそういう野心はないわけ?そういうとき、古典の素養は必要だよ。
人間はプログラマだけじゃないんだけどね。それに、言ってること理解できてるのかなあ。プログラマにとってのLispや低レベル言語が、日本語を書く人にとっての古典にあたると言っているの。
それはあなたの場合でしょ。文系の人なんかだったら、古典なんて寝てても理解できるけどLispなんて一生理解できないといわれると思うよ。あなたは、自分が理解できなかったものを過度に難しいと思い込んでるだけ。
へー、あなたプレゼンしないんだ。顧客や投資家向けに気の利いたフレーズ一つ思いつかないようでどうするの?
観光が産業として大したことない、というからその点に反論したまで。俺はあなたの論点の不備を一つ一つ指摘してるだけで、自分が一貫した主張をしようとしているわけではない。
日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。
じゃあ、ロックやポップス聴いてない奴がクラシック聴いちゃだめなわけか?そんなの勝手だろ。古典の方が近代文学より好きな人間だって沢山いるよ。俺だってそうだが。
あのね、そんな優先順位つけるまでもなく、全部できると言っているの。
あのさあ、「ジェネラリスト」の意味わかってる?いろんな分野に視野横断的に目が効く人のことを「ジェネラリスト」っていうんだよ。数学だけ勉強してれば文学も歴史も語れるっていうのかい?
足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。
自分が大学でサボってたことを自慢するなよ。普通はもっと勉強するんだよ。自分が勉強しなかったことを、「高校で教えてくれなかったせいだ!」なんて言ってたら、これだからゆとりはって言われるだけだよ。
数学系でも電子工学系でもねーもん。適当に試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。
使わないことは一切勉強しない人なんだ。ふーん。隣接分野から発想って出てくるもんだけどね。忠告しとくけど、俺が挙げたのは工学部のどこでも学びそうな分野だし、それから量子力学知ってると信号処理がわかりやすくなるんだけどね。まあいいや。
俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。
なんでそんなエラそうなんだ?だから、比べられないって言ってるだろう、何度も。少なくとも答えが自明に出る問題ではないし、客観的に妥当性のある調査ができるとも思えないと言っているの。
例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?
古典が読めるってことはまったく評価にならんだろ。プログラマとしては。
無論、最低限の英語力は必須だし、英語力は高ければ高いほどいいが。
最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSやコンパイラの理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?
そんなの情報系の基礎教養だ。微積分学や古典を勉強するよりははるかに楽だし。
だったらどうして、古文や漢文の勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要なスキルでしょ。まずその前提がよくわからない。
ビジネス定型文書くのにはもちろん、企画書や仕様書や技術書を書くのにも、古典や漢文の知識なんぞ必要ないだろ。
別に古典教育がどうなろうが観光ビジネスの改革にはならんだろうに。
日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。
それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。
教育を強化するなら数学優先にすべきだな。あと英語の強化かな。古典なんか最後でいいよ。
それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。
それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。
足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。
というか、固有値やベクトル空間を理解せずにどうやって大学を卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式も統計学も信号処理も量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。
数学系でも電子工学系でもねーもん。適当に試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。
信号処理は真面目にやっときゃよかったなとちょっと思うね。今んとこクリティカルにそういうもんが必要になる仕事はやってないが。
俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。
なんだ、君、プログラマーだったのか。だったら話が早い。
例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSやコンパイラの理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?
だったらどうして、古文や漢文の勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要なスキルでしょ。まずその前提がよくわからない。
別に「新たに」なんて言ってないけど。ただし、資源ってのはメンテナンス要員が必要なんよね。現在の教育は、その中から一握りの専門家とそこそこ多くのファンを再生産する役目は果たしてると思うけどな。
あと、日本の観光ビジネスはまだ産業として未熟だよ。ヨーロッパ行ってみるとわかるけど、日本の観光ビジネスは横のつながりが弱くて商売がヘタクソ。たとえば厳島神社なんて世界遺産になってるのに、宝物殿では大した物展示されてないし、宮島にある飲食店はろくなお店がない。
劣るとも思わないけどね。ただね、現代文学は古典文学を下敷きにしてたりするから両方読めると楽しいことは知っておいた方がいいだろうね。
あと、古文とか漢文ってのは現代文と読み書きや文法の体系が少しだけだけど違うから、文法ぐらい教えておかないと、興味を持った人があとで独学たって難しくなってしまうことは理解できるよね。いまの高校の教育はそういう目的で文法だけを中心に教えてるようなもんだよ。
それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。たとえば俺は高校時代理科と社会を全科目履修したし、数学も数III数Cまでやったし、古文や漢文だったら例えば岩波文庫の注釈付きなんかで訳なしで読めるよ。
俺も理系人間で、たいして出来がよくなかったから思うんだが、行列は大学入試という重しがある高校生の間にある程度慣れておくべきものだ。
大学で習った偏微分とか周回積分とかいっこも覚えてない俺でも行列演算は一通り出来るし、プログラミングとかで使えるのは、高校でみっちりやったからだよ。
それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。
それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。それに、大学の線型代数やったんなら、高校でやるレベルの話なんて子供だましもいいところだってわかるでしょ。
というか、固有値やベクトル空間を理解せずにどうやって大学を卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式も統計学も信号処理も量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。
行列と比べてどうなんだと聞いてるんだが。
だから、本来比べるのがおかしいし比べられないと書いたんだが。
ただし、君が思ってるほど高校の行列計算は一般には役に立たないし、観光は大きな産業になり得る。理由は上に書いたとおり。
そりゃ基礎技術力が高く工業力が強いほうが観光立国よりずっといいだろ。
オンザエッジ云々はともかくとして。
前に宮台センセが善意のマッドサイエンティストより良識を持ったジェネラリストの存在を提唱したが。ちょっとそういう話じゃないかと思う。
技術者に責任がないかというのは微妙だと思う。フォンブラウンやフェルミみたいに結果を考えずに悲惨な結果に協力してしまった科学者もいるし、ゴダードみたいに拒否した科学者もいる。職業倫理は必要。
でも、利用者の側にも責任がある。ウォークマンが出始めの時に難聴になると非難されたときにソニーは大音響で聞けばそりゃ難聴になりますよ、と堂々と突っぱねた。
どちらが悪いというより、どちらにも責任はある、という話だと思う。どんなものともわからない技術がどんどん出てくるのだから、利用者の側は賢くならなければならない。が、自己責任という名にかくれて、企業の責任をちゃらにしてはいけない。それは品格という言葉にはなじまないと思うけれど。
この世に存在する物質には確かに人間社会の善悪は関係ないけれど、技術には責任はあると思う。利用者にも若干。それが社会というもので、だからめんどくさいとも言えるよね。
まず一番最初に言いたいこと。
ここで問題なのは、「なんにでも興味を持つことの善し悪し」ではなくて、「興味を持ったジャンルから、
一つ専門を選んで、それを飽きずに続けることができるか」だと思う。
そういう意味で、 http://anond.hatelabo.jp/20070823233243 この増田の友人の善し悪しは判断できない。
ただ、掃除なんて普通は面白くないことに面白みをみつけることができるという性格は、非常に優れて
いるのではないかな。研究でも、会社でも、何でも自分が望んだことがやれるわけではない。望まないこと、
面白くないこと、嫌なことを、面白いこと、やりたいことに変えることができるというのは、成功する
要素のうちの一つではないかと思う。
理系であろうと、文系であろうと、専門を持つことが重要なことに変わりはない。
そして同様に、幅広い興味とそこから得られる知識による、専門の相対化が必要になってくる。
社会でも研究室でも、専門にしか興味ない「専門バカ」が一番使えない。
理系研究室に長くいた経験では、いろいろなことに興味を持ってどんどん新しい知識を吸収していく
タコ壺にはまったり、意味ない研究してたり、ディテールにこだわって小ネタで終わったり。
様々な分野に興味を持ち、新たな発想を導き出すこと。
これから下の文章は酷いな。論理的な思考がまったくできてない。
たとえば「比較○○学」というのはまさにそれで、知った限りのものごとを体系化するだけで一つの研究になるし、その体系化の手法は理系で要求される高等数学のような、特殊で難解な技術だったりはしない。
特殊で難解な技術が幅や深さを規定するわけじゃないんだよ。それに経済じゃ高等数学使うけど?
なんだって、文系といったってこれは文学部系の学問に限ったことではないかって?おあいにくさま、東大で法学部や経済学部に行った人が研究を志すと思いますか?彼らの多くは大学ではなく社会で輝くことを志すのです。だから、深さよりも広さ、スペシャリストよりもジェネラリストが求められるのは当然です。
なんで法学部や経済学部の学問としての特徴を語るのに研究意欲のない学生を例にあげるんだ?
この文章で何か意味のあることが言えると思うの?
とにかく、文章が滅茶苦茶。聞きかじりの知識と無茶苦茶な論理構成。
理系で成功できなくて妙にコンプレックス持ってるみたいだし、文系に恨みをもってるのは
小難しい評論なんかが理解できなかったんだろうけど、たぶんそれは帰納・演繹あたりの
基礎的な思考能力がないからだと思うぞ。
旧帝理系院卒ですが全く同意。というより俺がそのタイプだった。
文系ならたぶんまだ大丈夫だが、
その通りだと思う。
高校までと大学以降の質的な違いは、自分が標準的な知識の体系の全体を網羅できるかということがあるだろう。高校までならこれは努力次第で十分可能なんだが、大学からは無理だ。専門分野を選ばなきゃいけない。
で、理系の学問ってのは、基本的に「断言できること」だけを集めたものなんだよね。極端なことを言えば、コンピュータで処理できないものは理系の学問の対象にならない。どうしてもそういうものを対象にしようとするならば、コンピュータで処理できるような(というと語弊がありすぎるが)数学的モデルを自分で作り上げて、その正当性を検証しないといけない。そして、その作業は一生かかっても終わるかどうかわからないような膨大なものだ。
理系の学問とはそういう特殊な世界だ。だから、何でもかんでも興味を持ってしまうと、知識の幅は拡がっても、深さを追求する暇がなくなって破綻してしまう。だから、どこかで割り切って専門をえいやっと選んでしまわなければいけないのだが、これがなかなか難しい。一旦狭い世界に飛び込んでしまえば、「深さこそが幅」だと気付くんだけれど、飛び込む前は気付かないだろうね。
一方で、文系の学問というのは「なんでも対象にしてしまう」学問だ。だから、「幅こそが深さ」という側面もあり、何でも広く浅く知っていることも武器になる。たとえば「比較○○学」というのはまさにそれで、知った限りのものごとを体系化するだけで一つの研究になるし、その体系化の手法は理系で要求される高等数学のような、特殊で難解な技術だったりはしない。
なんだって、文系といったってこれは文学部系の学問に限ったことではないかって?おあいにくさま、東大で法学部や経済学部に行った人が研究を志すと思いますか?彼らの多くは大学ではなく社会で輝くことを志すのです。だから、深さよりも広さ、スペシャリストよりもジェネラリストが求められるのは当然です。
あともう一つ、文系には「学問のような非学問」がたくさんある。いわゆるサブカル系とか文科系といわれる趣味の人に好まれるものはたいていこれで、文藝評論とか宮台先生の社会評論とか、こういうのは難しい言葉を使ってるけど「学問」じゃない。学術研究とは違う。もちろん、だから価値がないと言っている訳じゃないけれど、こういうものはどうしてもカタい学術研究とは違って、ある程度大胆に主観による断定なんかも用いているわけだから、「理論的には、誰が読んでも必ず理解できて必ず納得できる」というようなものではない。芸術作品と同じで、ある人にとっては素晴らしいものだがある人にとっては無価値だったり不倶戴天の敵だったりということが平気であり得る。こういうものにはまりこんだら、「これを理解できない俺は馬鹿なんじゃないか」と悩みこんで時間をロスしてしまうことというのは非常に多いんだ。
だから、俺としては現役の大学生には、一般教養が終わったら一旦、勉強を専門一本に絞ってしまうことを勧めたいもんだね。視野が狭くなった気がするかもしれないけど、修士課程を終わる頃には一気に展望が開けてくると思うから。そこから先は、社会に出ようが研究に生きようが、全て自分次第で好きな道が選べるよ。もちろん運が一番大事なのは言うまでもないけどね。
追記
違ったような角度から同じこと書いてる人がいる。
追々記
言及した人から抗議を受けたので一部記述を削除しました。
よく分かんないけど、いわゆる文系の人(っつーか理系じゃない人)の仕事って、人が好きだから喜ばれることがしたい云々が原動力の人は割と多いというかメジャーというか、成功しやすいタイプに見える。ジェネラリスト向き。どっちかというと有利な性質なんじゃないの。何かにこだわりがある人の方がしんどいんじゃないかな。やってることを好きになるのが一番楽だよ。もっと特別に好きなことがあるべきみたいに思ってると、無いもの探しになっちゃうんじゃないかな。そういうのは、あって当然じゃなくて、長い人生の間に見つけられたらラッキーくらいに考えておかないと。