はてなキーワード: シンナーとは
このあいだ、たまたま客先から直帰で7時頃についたら、妻と娘がコンビニのパンを食っていやがった!
子供の晩飯がコンビニのパンってありえねぇだろうが!もちろん俺の晩飯は会社でコンビニパンだが、娘にそんな晩飯は食わせたくない!心が貧しくて荒んだ寂しい人間に育っちゃうかもしれないじゃないか!思春期に入ったときシンナーとかやっちゃったらどうするんだよ!
そのとき妻は今日は疲れたからとかなんとかいっていたが、その後も気になってちょくちょく子供に「昨日の夜はなに食べたの?」って聞くと「きのうはぱんにじゃむぬってたべたのー」っていってるからそうとうパンとか食わしているにちがいない。くそう、俺が早く帰ってさえいれば、こんなことには絶対ならなかったはずなのに、マジで転職を考えたいが、失敗したときのリスクを考えるとなかなか簡単にはいかず、どうにもならねえ。。。
ここでもよく見るけど自分のこと棚に上げてキチガイって言う連中、多いよねえ。昔はPCで依存してたり高学歴のが気色悪いって言われたんだが。例えば団魂の世代に大学生だったの、自衛隊と戦って手や足外してそれが青春だったとかいうのが、自営業に多いんだけど、あんたらのかーちゃんとーちゃんだったりするんじゃないのかい?だったらあんたらも同罪だね。あいつらは人殺して青春です、って戦争でもないのに言ってるんだよ。シンナーとかホームレスみたいなかっこしてね。歴史しらべたらどうだ。正常人ですって免許でもあるのか。一度見せてみろ。ニートだって派遣も一つの病気だよ。学歴あるのに、ちゃんと結婚や職業つかないんだからな。下作って喜ぶなぞ江戸時代の真似してないで、ちゃんと人間としてやることはしておくんだね。こちらみたいなことしないでな(笑)
・マジレスしていいのかな?八神のダブルカフスシャツ&ボンデージパンツって格好は、当時(一瞬だけ)流行ったネオパンクと呼ばれるスタイルが元ネタです
・その気持ちわかる。でもまず「飢狼伝説」のダサさに中坊のおれは腰を抜かしたものだ。SNKの美意識は変だった
・ふれあいの心/駄菓子屋やドライブイン等のゲーム機はインカムの5~7割に相当するレンタル料で問屋が貸し出す仕組みなためインカムの低い田舎には高(くて新し)いゲームは回らない。買うとリスク高いし。いやー指貫グローブはKOF以前に特撮ヒーローが結構つけてたような記憶あるよ。/「記号的オタアイテム」でコーディネートしよう!という企画を考えたことあるんだけど、何らかのチートしないと綺麗に仕上がらない
・言ってることはよくわからんがオタクがバンダナするのはラルフの影響ですよね?/有名プレイヤーが都市名+キャラ名で呼ばれるのは、バーチャだけでなくその時代の格ゲー界全般の慣習だよ。サイキとかスパIIXとか。
・そいうや、格げー好きの友人も指抜きグローブだったな。影響はあったのだろうが、基本的なところは、オタクは他の物に金がかかるからとても1万円を超す衣料品に手を出せないという話で終了。
・kof94-96あたりは50円で3時間くらい連勝して遊べた。 というか、50円で1プレイ出来ること自体田舎だったのかな、最近そんなのみない
・'94まではまだオタファッションの流れ。庵にボンデージパンツを取り入れた時点でヲタが平伏したんだよな。でもその後のメンズナックルみたいなお兄系ってのはKOF的センスをヤンキー還元したものと思ってる
・確かに自分が学生の頃(15年くらい前)、牙狼伝説が流行っててテリーボガードのコスプレみたいなカッコした人がよくいたよ~。本人はカッコいいと思ってるんだろうけど、当時から疑問だった…。
KOFの一部のキャラが壊滅的にダサかった理由、先行者(カプコン、セガ)に追従できない内部事情、キャラゲーと侮蔑されてもキャラ作りの手を緩めない態度、全てが繋がった気がした。
確かにテリー・ボガードはダサかった。壊滅的にダサかった。名前からしてドキュンネームよりヤバイ。だが、どうしたわけか田舎のシンナー吸ってそうなヤンキーにだけは人気があった。都会の身には、土田舎の事情は想像でしかわからない。
だが、上のコメント群で地方のトンでもない事情が垣間見えた。毛沢東の共産化政策が如く、SNKは地方でまず人気を取ることしか突破口がなかったのだ!だから、ヤンキー受けするキャラを作ったわけだ。(後から考えれば、キャラゲーという概念もKOFによって一般化したものだ。)
当時のゲーセン事情は、まさに貧乏ゲーセンと大規模ゲーセンに分かれる時期だった。大規模ゲーセンでなければ、バーチャなんぞは入らなかった。バーチャは確か、めっさ高かった。後にマニアック過ぎて失速したスト3に関して、カプコンの人が”この基盤が・・、このモーションが・・・”と高性能さを誇らしげに語っていた記憶がある。高性能さでは、SNKはまともに追従できるはずもなかった、主力が12.5メガショック!ネオジオであったのだから。
だから、上のコメントにあるように、主戦場であるアミューズメントストアだけでなく、駄菓子屋などでも人気を取れるような仕掛けを作る必要があったわけだ。「SNKの美意識は変だった」と言うよりは、SNKが、土田舎の美意識に一部合わせたと考えるほうが、おそらく正しいだろう。確かに、リョウとか言うスト2のリュウのパチモン(昇龍拳のモーションまで!!)が作られるように、イカれたところはあった。
ファッションについては、さっぱり分からない。元の文章の「指切りグローブ」云々はネタなのだろうと思う。指切りグローブは仮面ライダーの世界にしかあり得ないでしょ。常識的に考えて。
八神庵は格好良かった。マジで。ただし、暴走庵になるまでの初期バージョンの話だ。そういえば、腐女子向けにキャラ作りをおっぱじめたのも、SNKではなかったのか?少なくとも、キャラ作りのベクトルが、セガやカプコンとは全く異なっていたように記憶している。
「kof94-96あたりは50円で3時間くらい連勝」→100連勝越えですか?狩り反対!
最盛期を迎えたのは、くだんのスト3がマニアック過ぎて客がKOFに逃げた時期、KOF96~98辺りにあったように思う。残念なことに、そのころから格ゲーブーム自体も退潮に向かっていた。スト2ダッシュのころは、新ゲーを投入しなくとも客が途絶えることはなかった。そこからだんだん、新ゲーを投入してから半年頃はというように新しいゲームを入れてからの客の入りが減らない期間が短くなっていった。
いつしか、対処法とコンボをある程度覚えていないとどうにもならないことから「覚えゲー」とも呼ばれることになり、「バッタゲー」とも蔑称され、”夏の祭典”であるはずのKOFの新作が出る時期が伸び伸びになっていった。
毎週フリスクを食べていた。
なぜかみんなが食べるそれと一つ違う事は僕の買っていたフリスクはいろんな模様があり、コンバース、ナイキ、シャネルなどいろいろな刻印があった。
苦いけど、ガリガリ噛み砕いて、グレープフルーツジュースで流し込んで1時間すると、えづきが止まらなくなるのが合図で、段々フワッとしてくるのがわかった。僕の体の周りを優しい何かが包み込む。
お金で愛が買えるとは思わないけど、4時間程度の幸福なら2500円で購入できたし、今では考えられないけど、六本木を歩いてるとフリスクを売ってる外人が結構な頻度で声を掛けてきた。
医学的には多幸感というらしい。
僕のフリスクは多幸感があって、毎度幸せを感じた。友達と食べるとあまりの幸せぶりに、ハグしたり、友達で良かったと堅い握手をした。
女の子はみんな可愛く見え、学生時代に虐められたことなんか、狭い学校の中にある村社会なので仕方がないと簡単に納得できた。
一度、わざと嫌な事を考えようと思ってみたが、途中からネガティブな言葉の意味全般が分からなくなり、ネガティブな言葉自体思い出せなくなり、あれ?ネガティブって何だっけってなって、今日を生きる幸せを思い出し涙が出た。そのくらい効果がすごかった。
その頃家で紅葉を育てていた。
紅葉を燃やして大きく肺に吸い込むと、楽しくて気持ちよかった。
多幸感と楽しいは全く違うが、両方を一度に試すとフリスクと紅葉なのに口からヨダレが出るくらい気持ち良かった。
ソファーにめり込んで2時間経ってた事もあった。
例えると、暖かい光がポカポカ差す春先の昼間に公園で好きな人に膝枕してもらってうつらうつらしてると、ヨダレが出そうになるけど、危険度と引き替えに快楽のレートがもっと上がる感じだと思う。
寝入りばなの快感とはよく言ったものだと思う。
彼女は彼氏と一緒にフリスクを食べていたが、このまま田舎に帰れないので家で休憩したいと言っていた。精神を少し病んでいたので、彼女のフリスクを回収し、ゆっくり寝かして家に帰した。
それ以前から気にはしていたので、マメに彼女に連絡を取っていたが、それ以来連絡が取れなくなった。
数ヶ月経ったある日連絡が取れたので、冗談で捕まった?と聞くと本当に捕まったと言う。
彼氏が捕まり、芋づる式で彼女も捕まった。その際に正月の行動を話し、僕の家でフリスクを捨てた事も話したらしく、大人の鬼ごっこの鬼担当は僕の住所と間取りを調べたらしいが、僕は彼女の目の前で食べなかったので、僕は首の皮一枚で助かった。
その後、友達と慌てて部屋を掃除し、大量の紅葉の葉は川に流した。
ある日テレビを見ていてびっくりした。
捕まった彼女と共通の知り合いの切手売りが国営放送のドキュメンタリーに出ていた。
目にモザイク、声は変えられていたが、病的な色白の肌とシンナーで溶けた前歯に特徴があったので、すぐに分かった。
切手売りは僕に幻覚が見える切手を売ってくれたが、僕は購入時には公衆電話から電話していたので足がつかなかった。一度でも携帯電話から電話していたら僕も芋づるだった。
彼は遠い国で何年も何年もおつとめをしてたらしく、最近日本に帰ってきた。
あの一件以来、真面目に仕事をしている。
僕は捕まらす、精神も破綻せず、周りが鬼に捕まる事によって人生の転機が訪れた。
ただツイてただけだ。
悪い事してても破滅しかないからやめた方がいいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20081202130150はアンパンがシンナー(遊び)の隠語であるという前提があるからこそネタとしての面白さが生きるのに(ry
っていうツッコミを入れるのは野暮だよね。わかってるさ。
でも食パンて。
事前に公表した選考基準以外の基準で選考してはならない http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081030/1225341851
…を読んで色々思ったので書く(※以下の話は当たり前ですがおおむねフィクションです。ああ、増田があって良かった。)
以下はとある地方のとある試験で「事前に公表した選考基準以外の基準で選考した老婆」の話である。
「この茶髪を見てな、このピアスを見てな、不合格にせうと思うたのじゃ。」
ありむーは、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ身だしなみチェックリストを持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、事前に公表した選考基準以外の基準で選考すると云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる落第者と中学どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい連中ばかりだぞよ。現に、わしが今、落第にした受験生などはな、中学時代盗みだ暴走だ暴力だしまいには学校でシンナーを売りさばいてと悪事をし放題にしたあげく匙を投げられ、登校しても教室には入らず小部屋に閉じこめられて煙草を吸っても注意もされず一日たりとも勉強もせず、それで『皆出席』『自分の意見をしっかりと述べることができリーダーシップがある』などと調査書に書いてもらった上に、親がヤクザで落第したらどうするとうるさいからご丁寧に調査書の点数まで捏造したと中学教師がほざいておったわ。落第せなんだら、今ではウチの学校でシンナーを売りに励んでいた事であろ。それもよ、この生徒の売るシンナーは安くて品物がとぎれんと云うて、仲間どもが、欠かさず買うていたそうな。わしは、この生徒も見放した大人も、ただ悪いとは思うていぬ。隔離せねば、学校が崩壊するのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、学校が崩壊するじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていた中学校とこの生徒は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
ありむーは、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていたのである。
(追記)
※実際に誰がどう、という話ではなく、「調査書の信頼できなさ加減」の話だと了解いただければ。
俺は「グリコ・森永事件」が起きた1984年に中学三年生の春を迎えた。
その年に俺の中学で起きた「ちょっとした事件」に直接関わっていたが、黙って暮らしてきた。「時効成立なので」という訳ではないが、小文をしたためさせてもらう。
俺の住んでいたところはグリコ・森永事件の現場(東は滋賀県、西は兵庫県西宮市)の両端の間に位置し、多感な時期であったこともあり、何か、事件の犯人は近くに住んでいるのではないかと感じていた(そういう噂も内々にもあった)。
俺の行っていた中学は行区内にいわゆる「文教地区」ではないところもある、関西では一般的な「柄が少し悪い」学校だった。
中三の時期、俺の学年は田中(仮名:以下略)がワルで仕切っていた。学年にもう一人、佐藤(仮名:以下略)という、中二からメキメキ、ワルさを極めを力をつけている奴がいた。当然、田中および取り巻き(俺も末端ながらその一人だった)は佐藤のことを「いちびってる」として「そのうち、締めよう」と考えていた。佐藤は仲間とつるむタイプではなく一人で田中グループの人間をシバきまわしたり、「カツアゲ」していた。俺も佐藤に小遣いをむしり取られたことがあった(ちなみに田中には「制度」として上納していた)。
グリコ・森永事件が広域事件として、社会を騒がせていた時期、俺の中学も小さい宇宙の中で、ちょっとした「抗争」が起きようとしいた。
案外、田中は早く動いた。中学の屋上に佐藤を夜に呼び出して、シバキ回して「ヤキをいれよう」ということになった。俺も参加するよう言われた。でも、何か怖くて、その晩はバックれた。後で田中の子分に「小心者」と罵られ暴力を受けることは覚悟していた。
Xデーは訪れた。翌朝、佐藤は中学の校舎の裏側のコンクリの上で、落下死体として発見された。田中の周辺からだいたいのところは聞いた。田中と佐藤で屋上で殴りあいをして、田中は佐藤を組み伏せた。田中側は複数だったかもしれない。
当時、俺の中学ではシンナー、トルエン遊びが流行っていた。田中たちは下になった佐藤に無理やりシンナー、トルエンの混合物を目茶苦茶に吸引させた。田中は容赦ない奴だったので、その前に佐藤の肋骨を数本、踵で体重をかけて、内臓にめり込むよう折っていたし、腕もへし折っていたようだ。
激高した田中とその取り巻きはぐったりした佐藤を校舎の屋上のフェンスから投げ落とした。現場に俺は居合わせてなかったが、田中の「肋骨折り」は以前も目撃したこともあり、怒り狂った田中の凶暴さは知っていたので、佐藤を「落下」させることくらいはやりかねないと思った。
佐藤の落下死体があったことから、朝から警察が来てものものしい雰囲気だった。田中らは逮捕されるだろうと思った。少年院とかに行くだろうし、本人たちもそういった人生を選択していると思った。佐藤が死んだことには、少し「ぞっと」したが、所謂「想定内」であった。
その日の夕刊に警察発表の記事が社会面に載った。一段扱い、小さな記事であった。
とひっそり、単独事故死ということで片付けられていた。
その後、田中とその側近たちは登校しなかったし、先生も佐藤の転落死などなかったように静かに中学義務教育を継続した。
俺は、怖かった。佐藤が殺されたことよりも、何百倍も「転落死」として処理されたことが今でも怖い。丁度、グリコ・森永事件の犯人が捕まらなかったのと同様、国家権力をもってして、外傷を受け複数の骨が折られた死体も「事故死」とする方が都合がいいこともあるのだと、中学三年生のときに知った。
よく殺人で捕まった犯人が累犯として他の犯行も認めたという報道もある。きっと真実もあれば、コントロールされた「事実」もあるのだろうとずっと思っている。
高校に行って、社会人になったが、静かに人生を送るように極力つとめるようにしている。まあ、それが、日本における市民の普通の生き方なのかもしれない。
田中および一番側近の村上(仮名)はその後、任侠の見習いをしているとも聞いたが18歳の時、死んだ。深夜、国道を田中のスピード運転でカーブを曲がり切れず対向車線にはみだして、タクシーと正面衝突。田中と村上、そしてタクシーの運転手さんまで即死だった。田中はアルコールを飲んで運転していた。
先日、実家が引っ越すので荷物を整理して、中学校の卒業アルバムを見つけた。佐藤はもちろん、田中、村上他の写真もなく、彼らは最初から存在していないようにアルバムされていた。
俺も非喫煙者だけど。
それが他の趣味と違う所だよね。
たぶん一番わかりやすい例としては、プラモづくり。
シンナー臭かったり、カラースプレー(?)で周り汚したりする。
それを、町中でやられてごらんない(笑)。
たまったもんじゃないでしょう。
「いや、健康にいいんで」とかいわれて、強制的に黒酢の入った水を飲まされるよーなもん。
とか、唄うの趣味でもいいけど、仕事中ひたすら唄われてたら迷惑でしょ。
個人的には、吸いたい空気を吸える権利くらいは認められるべきだと思う。
救急を取る病院がまだまだ少なかった頃。
地域の基幹病院は県立病院。救急車で30分。救急対応も今ひとつ。
地域に「住民のための」新しい病院への欲求が高まった頃、200床程度の規模でその病院は開院した。
何もない開院したての病院。外来の棚の中は空っぽ。買ったばかりの備品は全てダンボールの中。事務も看護もみんな初対面。場所によっては、誰かが梱包をあけて棚に備品を並べてくれていたりするけれど、どれもビニールがかかったまま。洗面台の水は妙にシンナー臭い。
新しい病院を立ち上げる仕事は楽しい。医師の派遣元にも十分な人手はいないので、みんな交代で出張。
新しい病院。新しい町。医局の引継ぎノートには、新しく作った約束処方、備品のありか、地元に詳しい事務の名前や電場番号、近所のコンビニの場所などが記載されていく。遊びに行くにもどこにいっていいのか分からないから、医局の冷蔵庫には魚肉ソーセージと酒の瓶。毎晩野郎ばっかりの飲み会。
立ち上げ当初は、食事も宿泊も全て病院内。3食病院食は、2週間もすると飽きてくる。もっと身体に悪いものが食べたくなって、医局に周辺の出前リストがそろう頃には、外来にもだんだんと患者さんが増えてくる。
まず集まるのは、「主訴:腰痛」の整形外科の患者さん。理学療法室の常連を徐々に増やして、高血圧の人、咳のひどい人などを外科に紹介して、外来の人数はだんだんと増えていく。
そのうち、軽症の交通外傷の患者さんが救急車でやってくる。病院にも、若い患者さんが増える。もともとの設立の動機は「地元のための」病院。病棟はきれいで、居丈高な公立病院を反面教師に、時間外でも笑顔で診察。
開院2年目。待合室には若い人が増え、活気を帯びてくる。外科、内科とも常勤のドクターが増える。スタッフの数が充実すると、皆もっと高度なことがやりたくなる。
「24時間救急を取ろう」「研修医を育てよう」スタッフが若ければ、気合だけで施設が充実する。病院で行えることはだんだんと高度になって、救急車の数も増えていく。
「あの病院はよくやってくれる」。地域の信頼が集まると、もっと若い患者さんが通院するようになる。
病院は忙しくなる。患者さんの年齢層が変化して、皮膚科や耳鼻科といった、若い患者さんが得意な科も充実してくる。
眼科が入ると、病院の経営は一気に好転する。白内障の手術の得意な眼科医は、内科医3人分の収益を一人で稼ぎ出す。黒字科が増えることで、病院にはもっと大規模な設備が導入される。
「カテ室を作ろう」。開院8年目。常勤できてくれる循環器のドクターも決まり、循環器外来が始まる。患者さんの数はますます増え、救急外来にも救急車の音が毎日鳴り響く。
雲行きが怪しくなるのは10年目頃。10年もすると、町にも高齢者の数は増えてくる。救急外来に来る患者さんも、外傷や脳出血、急性腹症といった年齢層の若い救急患者だけでなく、転倒による大腿骨骨折、近所の老健からの誤嚥性肺炎の紹介といった人が目立つ。
病棟の業務は変わる。夜間に不隠になる患者さんが増え、重症患者のための個室は、いつのまにか不隠部屋に。重症の患者さんは大部屋。徘徊老人は個室。不隠の強い高齢者はなかなか退院しないから、若い患者さんの個室への移動希望はかなわなくなる。
「あの病院はうるさい」「いつも廊下で叫び声が聞こえる」。病院へのクレームが増える。
「四肢抑制」「不隠時セレネース静注」、今までは書かれることのなかった指示が指示簿に当たり前のように記載されるようになった頃、日中のナースルームは不隠の強い高齢者であふれ返り、医者は叫んで暴れる年寄りの相手をしながらカルテを書く。かつてラクテックがぶら下がっていた点滴台には、経管栄養のバッグが目立つ。PNツインもまだ棚に置いてあるけれど、滅菌期限寸前でほこりをかぶったまま。中心静脈栄養なんて、もう半年ぐらい処方してない。
病院が止めを刺されたのは、近所に新しい老健が出来てから。「○○病院がすぐそば」を宣伝文句にして人を集めたその施設は、嘱託の医者が帰る5時以降になると患者をどんどん連れてくる。少しでも熱が上がると、「うちでは見られません」「入院させてください」の一点張り。
もともと「24時間、患者さんを断ることはしません」との宣言を出していた施設。開院して12年、それでも気合で守ってきたそんな宣言は、病院とは縁もゆかりもない業者に美味しく利用される。外来には車椅子に拘束衣で来院する年寄りが増え、以前から通院していた若い人は外来からいなくなる。
夜中によく来る喘息のお姉さんに「今度、午前中の私の外来に来てください」とお願いしたことがある。「私は○○病院にかかっているので、ここはちょっと…」と、マスコミによく出る施設の名前を出された。
市民のための病院。市民に見放された病院。ここはいつのまにか賎民のための病院に変わっていた。
病棟はもはや、行き場のない高齢者でいっぱい。若い人の肺炎や喘息といった病気は外来で何とか診るしかない。病棟業務は連日の転院先探し。患者さんもご家族も、「一生ここにいさせてください」と願う人がほとんど。やっとの思いで転院させても、2週間もすると37度の発熱で救急車で帰ってくる。もう二度と転院に応じるものか、という決意を持って。
手術の症例も減った。病棟ナースにも離職者が相次ぐ頃、引き上げた医師にも後任が決まらなくなり、病院は慢性期疾患を細々と診るだけの施設へと変貌した。
地域の若い人たちはもっと新しい病院へ。
「あの病院に行くと死ぬ」。こんな評判が地元に立つ頃、病院は死に体になった。
間違ったことはしていないつもりだった。より高度な医療サービス。より簡単なアクセス。地域の医療需要に応えつづけた結果、病院は地域から見放された。
より広い需要に応えたい。より高度な医療をしたい。患者さんのための医療をしたい。力をつけようと努力し、進化を続けた結果、「強い」病院にはより弱い立場の患者、慢性疾患の末期の人、行き場のない高齢者が集中するようになった。
90年代に救急外来を一生懸命やっていた民間病院の大半は老人病院化し、急性期疾患を搬送する救急車は、以前は急患を断っていた市立病院や日赤病院に集まるようになった。そして現在、そうした病院すらもだんだんとベッドが回らなくなり、一昔前なら救急車が素通りしていた大学病院にも、寝たきりの高齢者が搬送されるようになっている。
恐竜絶滅寸前の時代。爬虫類全盛期、さまざまな大きさの恐竜が覇を競い合った後、気候の変化とともに体の大きな恐竜しか生き残れなくなった状況。市中病院が高機能化し、救急外来を充実させて「恐竜」化する一方、「恐竜」化した大手市中病院は、進化の果てに絶滅しそう。
その影で数を増やしているのは、小さな哺乳動物。小規模病院。老健業者。元気がなくなる恐竜達を尻目に、誕生したばかりの哺乳類はきれいな施設、専門特化した医療技術を武器にその勢力を増している。
時代は変わる。恐竜が闊歩していた時代は去ったあとは、小型ですばしこい哺乳動物の時代が来る。医療の無駄は減り、効率のいい医療、効率のいい経営が実現できるようになる。
問題なのは「恐竜」クラスの力がないとどうしようもない患者さんはいつの時代にも存在することで、哺乳動物を目指した施設は、最初からそうした人を相手にする意思は無い。
主役の交代は、すでに小児科、産科の領域では確実に進行している。産科のいない市は、もはや珍しくなくなった。
恐竜だって絶滅したくて進化したわけじゃない。医者だって絶滅する恐竜と心中したくはない。結果として哺乳類が生まれ、「食べられない」患者は見捨てられる。
誰かが悪くてこうなったというわけではないと思う。
こういう基準の人ってよくいるんだけどさ、自分の努力がどうこうとか、どうにもできないとかって、見ただけでわかんの?ちゃんと調べてから笑うかどうか決めてんの?って思う。
今まで聞いたことあるケースとしては
(a)難病(まだ日常生活が可能で、見た目では分からない)の薬の副作用でぶくぶくに太ってしまった若い女性
(b)車の中でシンナー(だったかライターのガスだったか)吸ってたら引火して爆発、四肢切断の元ヤンキーの若い男性
ってのがいるんだけど、「デブは自己責任だから笑ってよし」「身体障害者は自分のせいじゃないから笑っちゃダメ」だと(a)のことはゲラゲラ笑ってバカにして、(b)には神妙な顔して丁寧に接したりしちゃうんだよな。
で、詳しい事情聞いたら(a)に謝って大変ですねとかいたわったりして、(b)には「自業自得じゃねーか!バーカ」とか罵ったりしちゃうわけ?
まあこれは極端な例だけどさ、理由や事情なんて見ただけで簡単にわかるもんじゃないのに、よく調べもせず「○○だから」って笑いものにしちゃう奴って「本人が悪いんだから笑ってる俺は悪くない」って言い訳したいだけにしか聞こえないんだよね。
基準を掲げるんなら一人一人笑っていいかどうか完全に調べてから笑え。それが嫌なら誰であっても笑いものにすんなよ。
32 名前: 社長(catv?)[] 投稿日:2007/09/17(月) 20:51:06 ID:+RIFXdgD0
年代別ヨハネの治安変遷。
??89年 初ヨハネ。 危ないとは聞いていたが主にテロによるものと聞いていた。
到着初日に投宿していたホリデーイン・ダウンタウン(今はもちろんない)から
町をくまなく散策するがやばそうな奴らがチラホラと散見されるほかは特に危ない
とは感じなかった。アメリカの大都市のような雰囲気。普通に多種多様の人種が
働いている。しかし夜九時ごろ外出しようとしたらホテルのガードに止められた。
??93年 夜のヒルブロウにドイツ系移民の友人に連れられてヒルブロウを歩く。
夜の10時過ぎだったが結構ヤバイ雰囲気。ガキが道端で焚き火してる。喧嘩してる黒人
やシンナー吸ってるガキをドイツ君がどやしつけると一気に萎縮する。まだ白人の威厳
が残ってる頃。89年に比べれば治安は悪くなっていそうだが昼間ならまだ歩ける。
34 名前: 社長(catv?)[] 投稿日:2007/09/17(月) 20:54:15 ID:+RIFXdgD0
??94年 ヨハネのヒルブロウに住んでるドイツ系移民の友人宅に休暇で3日ほど泊めてもらう。
本人は仕事で日中いないので暇なので一日中ヨハネス市内を散策。外出前に護身ナイフを渡される。
中央駅に近くなるにしたがって黒人密度が増すがやばいというほどではない。駅付近では黒一色に
なり唯一の非黒人が俺だけという状況になる。旧白人専用ホームは凄くきれい。黒人用は怖くて見
に行かなかった。夜は暇なのでまた市内を散策する。表通りはOKだが裏通りはもうやばい感じ。
ごみだと思って道端の毛布を踏んだらグニャっという感覚が。開けてみたら黒人の餓鬼だった。
夜は散発的に銃声が聞こえてきて目が覚める。
??97年 もう昼間でも満足に歩ける状態にはない。市西部のビジネス機能
が残ってるあたりはまだ白人もいるし歩けないわけではない。夜に郊外から
日本人の友人と車で市内進入を試みるがもう肝試し状態になってお互いウワ
の空。中華街で飯食うが窓の外に黒人がぴったりと顔をくっつけてこちらを
うかがっている。飯を味わう状態にない。帰りヒルブロウ地区を通過中に数回
短機関銃のような発射音が聞こえ、歩行者が道に伏せている。どこで発砲されてるか
確かめる余裕もなく猛スピードで通過。女性の夜闇を切り裂くような悲鳴を耳にする。
すっかり動転し、人通りの少ない裏道の信号で信号待ちの度に恐怖で足が震えエンスト
を起こしまくる友人を狂乱状態で怒鳴りつけるくらい俺も節度を失う。
コレがヨハネの見納め。また行こうとは思わない。
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こんなんでワールドカップできんのかね・・・
http://anond.hatelabo.jp/20070715182457
友達はただ漫然と作ればいいって話じゃないぞ。
極端な話、こういう人と友達になるってどうよ?
もし私が仮にこういう連中100人とお友達だとして、うらやましいと思うか?
これは極端な例としても、友達は選ぶべきだと思うぞ。
「友達がいる、いない」とか、数の問題だと思ってる人は多いけど、これは間違い。質の問題だ。
そして、質の良い友達は、一朝一夕にできるわけじゃない。
おまいさんはたまたま、その機会にずっと恵まれなくて、最近やっとツキが回ってきたという事じゃないかと思う。
自分も中学時代友達に恵まれなかったが、DQNだらけの学校だったから、もしそういう連中と深い付き合いだったら、別の意味で自分の人生は変わっていたに違いないと思う。