昨今、職場の人や友人と政治の話をもっと活発にしようという風潮があるが、その裏にある真意に気づいているだろうか。
推しの政治的な手腕、将来性、他の候補より優れているところを語って盛り上がりたいというオタク気質の発露にすぎない。そして、投票してもらうために、いわゆる「布教」もしたい。「政治の話をしよう」というのは、政治オタクたちの推し活動にすぎないのだ。
これだけだと健全なものにも見えるが、推し活が実態なのにその建前が「活発に議論しよう」というものになってるのが、タチが悪い。
まず、こう口では言う人でも、相手の話を聞く気が一切ないと断言できる。なぜなら自分の推しを語りたいだけなので、相手の推しのことなんてどうでもいいし、あわよくば布教を狙っているので、話の方向性は、オタク的論破、すなわち、いかに相手の趣味趣向を変えるかが目的となってるからだ。当然、自分の趣味と異なる相手と対峙した時、社会や政局や政治思想の解釈違いから、嫌悪感を覚える人も多いし、論理的で理性的なコミュニケーションには決してならない。これを「話し合い」という体裁をとらせているのが、タチが悪い。
まあ、ほかにも、話し合いという建前なのに、意見の異なる「推し」だった場合、人格否定されることや、マイナスのレッテルを貼られることのリスクがかなり大きいことや、そもそも政治思想はプライベートな話なので、あまり話したくないという面もあるが、今回はそこは置いておこう。
以上より、「政治の話をしよう」という言葉は、議論という建前をとってるが、その実はただの推し活であることがわかってもらえたと思う。
みんなに呼びかけているわりに、「政治の話をしよう」という言葉の持つ、寛容で知的なイメージとは真逆で、そこには人格否定やレッテル貼り、人間的に見下されるリスクがあるのを隠すのはフェアじゃないと私としては思う。
現代人は、自己評価より幼稚だし、他人へのリスペクトがほとんどないので、理知的な議論など、ほとんどの人には不可能だろう。
それなら、地道に街頭でのビラ配りしたり、かつてネットで揶揄されていた、公明党支持者の「投票先決めた?投票行こう」と直接呼びかける手法の方が、まだストレートで好感が持てる。
知ってる知ってる 政治厨が嫌われるのはオタクキモいって思われてるのと同じなんだよね