つい最近のタコス屋の一件以来、鉄オタが気軽に「死ね」「どけ」「なにやってんだ」と言われる機会が増えた気がする。
祭りみたいになったので皆知っているあの件だ。
あれだ確かにあのとき無数のクズ鉄達が無実の一般通過外国人に対してそのような罵倒を浴びせたのは事実だ。
だがしかしそれを理由に鉄道オタクを罵倒していいと考えるのはおかしくはないか?
テレビやラジオが語る「部屋からゲームが見つかったのでゲームを1秒でもやった事があるやつは犯罪者予備軍です。人を殺す前に死んで下さい」と何が違うのだろうか?
もし偶然あなたがあの撮り鉄達に街で遭遇し、もしも貴方達が「死ね」と言われたのなら「テメーが死ねよ」と口にしてもいいだろう。
だが待ってくれ。
きっと多くの鉄オタが先に自分たちが口にした「死ね」の部分を切り取って「死ねと言われました~~~僕たちはただ電車を撮っていただけなのに~~~」と貴方を袋叩きにしてくるだろう。
だが、「死ね」と誰かに言い返すのは本来それぐらいの覚悟が必要なことだ。
今、空前の鉄道バッシングブームによりこちらが言い返せない量の「死ね」が飛び込んできているため、こちらは防戦一方だがよく考えて欲しい。
貴方に近所に住む100人の鉄道オタクに粘着されて自宅と職業と氏名と人生と学生時代の卒業文集を晒される覚悟があってその「死ね」を書いているのだろうか?
もし、今回叩かれているのが貴方の好きな文化だったらどうだろうか?
貴方の好きな文化のオタクが、偶然通りすがりの無理解な外国人の手により空前絶後のチャンスを失ったとしよう。
その時に口にした「死ね」がもしも貴方の文化を滅ぼしたとして貴方は納得できるだろうか?
そもそも貴方達が何を勘違いしているかと言うと、あの「死ね」は一般通過外国人の人権を軽視していたから出てきた言葉ではないのだ。
そこを勘違いしないで欲しい。
そもそもなぜ鉄道オタクは彼らを「アイツらが特別おかしい。同じ鉄道オタクとして恥ずかしい」と切り捨てないのだろうか?
そんな疑問を持つ人達もいるだろう。
何故か。
確かに現代では家族を毒親だなんだと切り捨てるのがある種のブームとなっている。
だがそれをやってしまった人にとってもはやこの世界に永遠の絆と呼べるものなんて一つもないだろう。
だが鉄道オタクの世界には確かで絶対的な「鉄道」という繋がりがあるのだ。
遠い国で遠い国の鉄道の写真を取る時、同じく別の国からその鉄道を取りに来た鉄道オタクに出会う。
そのとき感じるのだ。
あー 名古屋人たわけにしたらいかんがや増田さんかー