近頃のネットの議論というものは、『気持ち』という指数を無視して、どころか『お気持ち』などという単語を出して悪いもののように扱う。
というより、ミソジニストなんかは気持ちを議論に組み込むことはフェミニストの手口で、ブラックボックスを当てさせるクイズをさせる気だという。
僕はそれが気に食わない。
例えばこのエントリーを書くきっかけとなった表題のGo To トラベルの議論。
そこでは、例えるなら
「食べる事で経済も回るし、昆虫も、その昆虫の為に餌を用意した自然や農家も可哀想だろう! 昆虫を食べない奴は命の選択をしてる!!」
みたいな議論をよくお見かけする。
文脈の読み取れない方向けに書くと、筆者は旅行業者を虫や食べ物呼ばわりしているつもりはない。
……けど、こういう『生理的に食べられない』『心配だ】という『気持ち』が、ことGo Toトラベル推進派の一部からすると、持ってるだけで悪なのだ。
そんな気持ちを持っている人間は原始的なシステムで生きているアホなのだ。
また、例えば最近、NHKのひろしまTLが当時の日記を引用し、朝鮮人を差別的に書いて炎上してたが。筆者はあれもアホだなと思う。
あれは75年前の既に終わった事柄への『気持ち』を見ているだけなのだ。
いくらガーガー外野が騒いでも、75年前の13歳の少年は自分を襲って来た朝鮮人と握手なんかしないし
今、当時13歳だった少年がそう言った人々と仲良くなっても、75年前の13歳がそうなる訳ではない。
いくら否定されたって、気持ちは気持ちとしてそこに横たわっている。
それを表現の自由や民主主義というのではないか。気持ちを表す、気持ちに従うまでは、まだ個人に与えられた権利のはずだ。
それと、これも気持ちの理屈なのだけど、Go Toに反対する人間を『旅行会社や周辺の人間を見殺しにしようとする人でなし』という人が居た。
けど、自分たちは日々の選択の中で何人を見殺しにしているか、その人は考えた事があるんだろうか。
日々の暮らしの中で彼らはきっと。