社会人になりたての頃、世間が貧困である事実があまりにも悲しかった。
「お金がないせいで○○ができない」という程悲しいことはない。幸い実家が太かった為、今までお金がないせいで何かができずに諦めるという制約を受ける経験がなかったのだ。お小遣いのやりくりの為に今日のお菓子を我慢するような事はあれど。
理由あって生涯未婚と決めていた増田は、はっきり言って金があった。
収入自体は中の下かもしれないが、結婚式の費用も、子供が成人するまでにかかるウン千万も、家族で住むマイホームもない。とにかく支出が大幅に削減されていた。
世の中にはお金がないせいで結婚できない人だっているのにと、抱えた若干の罪悪感を解消したいと思ったのだ。直接お金を与える訳ではないにしても、なにかしら他人のために経済を回さねばという義務感もあった。
とはいえ、ぱっと寄付が出来るほど心が綺麗にはなれなかった。どうせ金を使うならば自分にもなにかメリットがあって欲しいと浅ましくも思ってしまっていたのだ。
そこで目をつけたのがクラウドファンディングというやつだった。
クラウドファンディングは面白かった。こんな自分にぴったりのサービスだった。
夢を叶えたい人がいた。少しお金を払うとお礼の手紙や珍しいものを送ってくれた。
新しいものを創りたい人がいた。少しお金を払うと創ったものを送ってくれた。
災害で壊れたものを直したい人がいた。少しお金を払うと地元の特産品を送ってくれた。
誰かお金が足りなくて困っている人がいて、しかもお金を払うと少し自分にもメリットが戻ってくる。求めていたものだった。毎月の給料の一部をクラウドファンディングに充てた。
でもクラウドファンディングはつまらなくなった。コロナ禍でピンチなところが叫び声を挙げているだけのサイトになったからだ。
コロナ禍でピンチな人は無限のようにいる。別にコロナで苦しむ人は助けたくないという意味ではない。挙がる手が多過ぎて、どの手を取ったらいいのか分からないのだ。全ての手をとる事は出来ない。「コロナで可哀想だから」という動機だけで特定のプロジェクトに投資することができない。
普段通り何かが創りたくてプロジェクトを立ち上げている人もいる。でもこんな時にコロナもなにも関係ない夢に投資するのもなんかなという気持ちがふとよぎってしまう。
どうして誰かの夢を叶えることにあたって、夢が叶わない人や苦しんでいる人に配慮する必要があるのだろう。 と論理的に考えると、その必要はないのだ。だって平時でも誰かは苦しんでるわけだし。とはいえこれは論理的な問題ではないのだろう。
文章の長さで腐女子だと気付いた
じゃあお前が言う「面白いクラウドファンディング」の時は全員に支援してたわけ? そうじゃないだろ。てかそんな事できないし。 だからこれまで通りお前がお前の基準で選んでやれば...
中身あんまり読んでないし、クラウドファンディングにもいろいろあるんだろうけど、 たしかに場末の通販サイトに成り下がってるクラウドファンディングサイトは多いイメージ。 前は...