ってブコメを前に書いたら、引用スターで「は」「い」「く」って書いてくれた人がいて、思わずフフッてなったのね。
そうやって笑いながら、ああ、わたしは本当にこうやって、生きてるだけで色んな可能性を取りこぼしながら生きていくのだなぁ、と実感した。
わたしは2年前か3年前にはてなに来た新参で、使う機能といえばもっぱらブックマーク、お気に入り機能は本人通知に尻込みして今まで触れずに来たし、こうしてたまに増田を書いてはこっそりブクマやトラバにほくそ笑んだりして、そんなふうだからはてなにおける認知なんかほとんど月の向こう側の出来事といっしょだ。
そして、わたし自身、それで良いとも思ってきた。良くも悪くもゼロ年代のネット価値観を引きずるわたしは、心のどこかではネットにおける認知など厄介ごとを呼び込む不幸への片道切符なのだ、と思っているフシがある。アノニマスでいることはわたしにとって何物にも代えがたい防御であり、わたしのネットライフの快適さを保証してくれるラスト・リゾートでもあるのだ。
だから、存在はなんとなく知っていながら、わたしは一度もハイクに触れずにきた。
上述の引用スターを貰ったとき、「そっかー、ハイクだったのかー」と謎が解けたような、意外ではあれどそれが一番好ましい答えのような、そんな不思議な心持ちがした。
わたしは知らなかったけど、みんなはそこで仲良くやってきたんだろう。なんか、お互いブログで仲良くなって、ツイッターを相互フォローし合って、みたいなかたちでやってるのかと思ってきたよ。蓋を開けてみれば「ハイク」に代表されるコンテクストがあって、それをみんなで分け合ってきたんだねぇ。
そしてそのハイクも終わるんだそうだ。有意義だったり無意味だったりしながらも積み重ねられてきたコンテクストの、そのまとまりにひとつの名前を与えてきた核たる場所は終わってしまうのだという。わたしが一度も触れぬ間に、これまで存在してきた数多のサービスと同じように。
死んだサービスに行き先があるとしたら、それはまったく人間の死と同じだ。ひとつのまとまりとしてのコンテクストを失い、より小さなまとまりは流れ出て、一部は他のサービスに吸収され、その他は三々五々に分かれ、別の場所を求めてさまようだろう。けれど二度と、同じ形で集まることはない。それはきっと、わたしが死んだ時に起こることと同じだ。わたしというまとまりは連続性の上では消えるが、構成要素が消えたりはしない。
わたしたちはこうして、ただ生きてるだけで可能性を逸して生きていくけど、わたしたちがそうして見逃してきた場所にも人が集まって、当人たちには意味があるコンテクストを積み重ねて、経験を教えあったり、感情を増幅し合ったり、あるいは意味をなさない鳴き声をあげて他人に自分の存在を伝えたりしながら(にゃーん)生きているのだ。
もし、あのときわたしがハイクを始めることを選んでいれば、あなたの場所はわたしのものだったかもしれない。もし、あなたがハイクを選んでいなければ、わたしの場所はあなたのものだったかもしれない。
手に入らなかった可能性を想像の手で転がして撫でてみるのは、ただ惜しむより愛おしんでいるという感じがして、少しだけ丁寧に感じたりする。
選ばなかったあの部屋には誰が入っただろう。
買わなかったあの服や本は誰が買っただろう。
もしこの電車を降りずに次の駅、その次の駅まで行ってみたらどうだろう。
もし、ハイクを始めていたらどうだっただろう。
IMAKITA https://www.qhapaq.org/imakita/ そうやって笑いながら、ああ、わたしは本当にこうやって、生きてるだけで色んな可能性を取りこぼしながら生きていくのだなぁ、と実感した。 蓋を開け...
ぼくは終わるというニュースを聞いて、そこでハイクに踏み込んだ人間だ でも友達はできていない 世界はそんなもんだ