2018-11-10

精神リストカットをやめたい

 何年も前の失敗を思い出す。あの時何であんなこと言ってしまったのか。あの時もっとうまくやっていれば、もっと良い人生が送れたのではないか。思い出しては、心が痛むのが分かる。頭の中では、デフォルメされた心臓に刃を突き刺し、血が流れている映像が浮かぶ。心は目に見えないから、「それ」が人にばれることはないが、もう幾度となく頭に浮かんだこの画像は、実際の傷のように私に深く刻まれている。

これは、“精神リストカット”のようなものだと思う。本気で死にたいと思っているわけではないが、自傷行為に及んでしまう。死には至らない程度の、しかし痛みは感じる傷を自らつけていく。そしてそれがやめられない。

後悔している間は、他のことが考えられなくなる。いや、考えなくてもよくなるといった方が適切であろうか。今に満足していないから、過去に原因を探してそれに悩むことで今の自分肯定したいのかもしれない。

「かもしれない?」自分のことであるにも関わらず、なぜあいまいなのだろうか。それは、自分でもなぜこんなことをしているかからいからだ。自分勝手に嫌なことを思い返して、嫌な気持ちになり、何も解決しない。思い出す失敗は今更どうしようもできない類のものであることから、この行為が如何に非生産的なことであるかはわかっている。しかし気づけばそのことを考えてしまうのだ。それも一度や二度ではなく、無数に、である。時には泣いてしまいそうになるときさえある。もうどうしようもできない辛い出来事を思い出し、悩み、そしてどうにもできないことに気づき、また悩むのである自分でもなぜこんなことをしてしまうのか分からない。

実際には、なんとかなると思っているからだろうか。例えば、人間関係についての悩みであれば、また連絡をとってみるだとか、もういっそのこと諦めて次の出会いへの反省材料にするだとか。勉強就職試験のことであれば、より良い方法を探すための手掛かりにするだとか。

精神リストカットが終わった後であれば、このように理由付けを考えることもできる。しかし、精神リストカットをしている最中は、こんなことは考えていられない。ただひたすら、自責の念に駆られているだけなのである

この行為問題は、目に見えないことにあると思う。実際に手首など体の一部を傷つけるリストカットでは、その跡が目に見える形に残ることになる。もちろんこのリストカットも大きな問題であるが、精神リストカットも、実際のリストカットと同じくらいの危険性を孕んでいるのではないかと思うのだ。傷が見えない、ということは他人にも気づいてもらいにくく、更に自分自身でも気づかない場合がある。リストカットでも程度を間違えると出血過多で死んでしまうように、精神リストカットも程度を間違えれば、自らに不可逆的なダメージを与えてしま可能性がある。

しかしたらあの時、傷つけてしまたかもしれないあの人へ。ごめんなさい。でもきっとあの人は、私が今悩んでいようと笑っていようとあの人自身人生を送っている。声をかけて避けられたならもう仕方がない。社会にはまだたくさんの人がいる。自分ではどうしようもなくなってしまたことに、悩んでいてはこれから人生も後悔することになる。謝れるのなら謝って。もう謝ることすらできないのであれば、今後迷惑をかけないように努める。自分が精一杯やってだめならば、もうその人とは縁がなかったのだ。自分一人でもこんな面倒な精神を持っているのに、人と関わっていけば、どうしようもできないこともそりゃ出てくるであろう。

反省して次に生かせるのなら生かす。でも、後悔は1度きりだ。記憶だんだん自分の脚色が入っていく。一番現実に近い時期に行った後悔と反省以降は、もうただの自己満足である。こんなに反省して後悔しているのだから私は悪くないと思いたいだけだ。ヒトを思うふりをして、反省の痛みで許しを乞おうというのは、相手にしてみたら迷惑以外での何物でもない。そして相手のためにも自分のためにもならないことで時間精神を使うのは本当に無駄なことである

わかっている。頭では十分理解しているはずなのにやめられない。こんな無駄なことに、時間を使うのはもうやめたい。

  • そんなことではやめられない。 それはあなたがリストカットに慰めを見出しているからだ。

  • つうか後悔って甘い毒みたいなもんだね。 後悔していると大事なことに気づけなくなる。 結局自己中心的になってしまう。 周りの人に目を向けるべきだ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん