ひとはいったい、どんな風に自殺に向かうのかが気になって、その昔、高2の春に自殺したとある高校生の日記を、この三連休を使って読んでいた。
自殺の2年前くらいからの日記だったので、次第次第に追い込まれていって、人間関係が辛くなって、どんどんおかしくなっていく…
…という内容を心のどこかで期待していた。
死ぬくらいなんだから、そうあって欲しい、そうじゃなきゃいけない、と、思うところもあった。
でも、実際はそうじゃなかった。
普通に友達と買い物に行ったり、普通に恋に悩んだり、悩む友達を慰めたり、友達に悩みを打ち明けたり。
親友といっしょに高校生活を送りたい、って思って受けた高校にちゃんと合格したし、その子と仲良くしながら高校で親友も増えていたし…私なんかよりずっと幸せそうに見える高校生活を送っていた。
替われるものなら、替わってよ…ってくらいの、羨ましい高校生活を。
ただ、彼女は「理想の自分」と「現実の自分」の隔たりに中学時代から(本当はもっと小さい頃から?)苦しんでいた。
誰でもある悩みだけど、ちょっと過剰すぎるくらいに苦しんでいる様に私には見えた。
朝7時に起きられないだけで、昼寝をしただけで、ちょっとドジをしただけで、過剰に落ち込む。
私から見たら羨ましいくらい美人なのに「いじわるで、ブスでバカで狂っていて」と自分を過剰に貶す。
「理想の自分」と「現実の自分」の隔たりが、たとえどんなに幸せに見える高校生活を送っていても、高校生活の1年間で(彼女の中では)決定的なものになっていったんじゃないかな。
中学生活は1日1日「始まり」に近づくけど、高校生活は1日1日「終わり」に近づくから。
中学生の頃は自分に対するあらゆる可能性が認められるけど、高校生になると職業適性とかで判決が下され始める。
(くだらないテストで他人の適性をとやかくいうなんて、とんでもなく失礼な話!!)
逆に言えば、彼女の高校生活にとって唯一の安住の場所は友達との日常だったんだ。
それ以外はすべて、「あなたは理想のあなたではない」という判決が下されるのを待つ日々でしかなかった。
理想の自分に近づこうとしてももう全てが手遅れで、ピアノも、バレエも、ダンスも、ギターも何も続けられなかった劣等感だけが残っている。
「小さい時から、なりたいと思っていたもの3つ……作家、画家、美容師。そーとー無理みたいね。」
そんな中で母親と先生の行動は、つまらぬことで彼女を追い込んでしまった。
彼女のガラス細工の様に繊細な安住の地を壊しかねない行動だった。
大人たちがこの安住の地に土足で踏み込んだことで、彼女をあっさりと追い込んでしまい、あっさりと殺してしまった。
翻って、私には、そんな小さな安住の地すらない。
いつも追い込まれていて、それでいて、いつまでたっても死なない。
何人か見送ってきた。いつも弱者から死んでいった。 本人が死にたがっていようとそうでなかろうと、死ぬのは弱いものが先だった。 かくいうおれも死にたいと思っているが、まだ生き...