自意識問題について。
まあ思春期には、「自我」がどうしようもなく膨れ上がる。みんなそうだ。
このころに、つまり言葉が一定の水位を超えてあふれ出す時に「思考」が始まる。
そして、現実ではなく、「自己意識の中では」自分は「自由」な存在だということを突然発見する。
若者の「思考」の最大の仕事は自分を正当化すること、そして自分を世界の絶対的な主人公とすること。
そんなわけで、14~15歳前後から、世界のすべてを自分流に解釈し、
自己意識の中で激しく「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という感覚を確認しようとする。
要するに、思考の自由がやってきて、はじめて人間は「自分という存在のかけがえのなさ」を実感することになるわけだ。
おめでとう。
しかし、ここには問題がある。
第一に、それは「意識」の内側だけの自由であって、その人を取り巻く現実は、やはり親や社会のルールによって縛られ、拘束されている。
自力で現実的な自由の条件を獲得できない大抵の場合、当分は内的な「自由」で我慢するしかない。
第二に、自分自身を世界の絶対の主人公と見立てたいのだけれど、
この望みは誰もが同じようにもっているものだ、ということに気づかないわけにはいかない。
「周りの奴らは馬鹿ばっかで、俺の考えてることはわかんねーんだよ」という人も、
「俺は誰でもない俺だけの存在だ」ということが、誰にもあてはまる平凡な事実だということに薄々気づいている。
「思考の自由」が、人間に「自分だけは特別な存在である」という新しい真理を教えるのだけれど、
その自意識を満たしてくれる「クリエイティブ」で「他者が賞賛」するような職種で成功を収めないかぎり、
そして「別の生き方」を選ぶようになる。
そこにいたるまで我々は自意識問題という名の厨二病を煩い続ける。
ヘーゲルはこの「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という「自己意識の自由」の三類型ということを言っている。
第一の類型は「ストア主義」。
人々は醜い承認争いをしているが、そんな競争はつまらないものだと「俺だけはよく知っている」と考える自己意識のことだ。
このことで自己意識は、自分の価値と独自性を、内的に確保する。
「お前ら必死だなw」って奴だ。
人の意見の弱点を見つけてはこれを相対化しようとする人が懐疑主義者だ。
どんな意見もちょっと観点を変えればみな相対化されてしまうということを「俺だけはよく知っている」と考えて「自己意識」を確保しようとする。
この2つは、両方とも自分の意見、態度、生き方を留保しておいて他人の価値を低く見積り、
第三の類型は「不幸の意識」。
若者は独自の強力な世界観、理論に出会うとその世界にどんどんのめりこみ、世界や人間のどんなことにも「立派な」ことが言えるようになる。
しかし、この高尚な世界観が要請する理想の姿と現実の自分の姿の間で、引き裂かれる自己意識が発生する。
これらはすべて「自分の心の内側だけで、自己価値を確保しようとする試み」だ。
人間の自己価値は「他者の承認」を必要とする。だけど、それは結構きつい。
だから、人間は自分の中の「自由な思考」のうちで自己価値をつかもうとする。
でもそれはたぶん無理だ。
現実はどうしようもなく存在していて、そのうざったい自意識にうってつけの現実なんて向こうからやってこない。
その不可能性が頭ではなく身にしみた時こそが、めでたく厨二病卒業の時となる。
おめでとう。
だから、人間は自分の中の「自由な思考」のうちで自己価値をつかもうとする。 でもそれはたぶん無理だ。 現実はどうしようもなく存在していて、そのうざったい自意識にうってつ...
無理じゃないよ。