はてなキーワード: 赤木智弘とは
まず触れておく。blacksorceryは言葉の使い方がまだ分かっていないらしい。
増田でも絡まれたので、マイノリティ=少数の者と思う人は、以下の文章に出てくるマイノリティは、弱者とか被差別側、被抑圧者にでも読み替えて欲しい。
昨日の記事に、女性はマイノリティって書いたのは失敗だったと後悔している。
元々、エロゲー愛好者はセクシャルマイノリティ、女性がエロゲーへ抗議するのはマイノリティへの差別だって人がちょこちょこいた。
で、こういう世界でマイノリティっていうなら女性だよと書いたことがある。
そのときのマイノリティは別に間違いでは無かったと思っているけど、これにも異論をもらった。
けど、今回独立させて書くときに、マイノリティって書くのは自分でもちょっと違和感があるし、誤解招きそうとも思ったんだけど、ここで書かずにいると前に異論出した人が喜びそうなのが癪に障って、いいや、マイノリティって書いておこう。と。
けど、やっぱりわかりやすくするべきだった。 (http://d.hatena.ne.jp/blacksorcery/20090524)
何度もいうが、「マイノリティ」は基本的に「少数(派)」のことだ。だから、とくだん数の多寡に重点をおかないのなら使わないほうがよいだろう。なぜか。重点となるものに関した用語(例えば被抑圧者、とか)を使うほうが自然だし、それについて語るときに問題点などがはっきりするからだ。これはくどいほど説明したし、辞書での定義ではこう、wikipediaの記述ではこう…と示しもした。「女性はマイノリティではない」という女性たちの声も示した。だが、blacksorceryはあくまでそれに抵抗しつつ、しかしちっとも「"なぜ"マイノリティは『少数派』の意味ではないのか」を語ろうとしない。そもそも、http://anond.hatelabo.jp/20090518024234で私が書いているのは
だ。別に、「マイノリティかつ女」などあり得ない、という話でもないし、だから女は守られるべきではない、という話でもないし、だから女は文句を言うな、といった話でもない(「人の間違った論を引かずに自分の意見を言え」「気分ではなく論理を結論にせよ、話し合いや権利の意味を考えて」というようなことは書いたが)。そしてもしこれが気に入らないのなら、「なんのことだ」という問いには「~が~だから、~ということだ」と論拠(むろん、マイノリティが基本的に少数派とかいう意味を持つ、という論拠と同レベル以上には説得力のあるもの)をもって語ればいいのである。ただそれだけのことをblacksorceryは語らない(ほかのブックマークコメント者もまるで語らないが。何の根拠も示さず、だが揶揄だけはできるようだから始末におえない)。また、マイノリティをどう遇するか、レイプゲームをどうするか、表現の自由をどうするか、について私が何ひとつ言っていないのに、blacksorceryは
だから君らはマイノリティ。 (http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518024234)
だの
元々君の友達が自分たちは少人数で被害者みたいな科白を書いてたから (http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518225205)
だのと勝手な定義付けをする。彼には自分と意見を異にする者がみな「仲間」であるように見えるのか? 女性という「マイノリティ(???)」にも「その嗜好を満たす商品」が提供されている事実を認識できず、
などと書く。彼には事実ではなく自分のイメージだけが見えているのか?
さて、そろそろ本題に移ろう。本題とは有村悠のことだ。先にあげたhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518024234で、彼はいの一番に現れてこう書いている。
y_arim anonymous, gender, society, あたまがわるい マジョリティ・マイノリティが単純に数の多寡で決まるとでも思っているのかね? たとえば少数民族が多数民族を統治する国家の社会構造について考えてみな。 2009/05/18
当初、私はこれをあまり大したことと捉えなかった。ほんの少しだけ彼の文章を読んでいた私は、彼が馬鹿だとは思っていなかったからである。私はこう思ったのだ、「ははあ、何か勘違いをしているのだな」と。ゆえに、続くhttp://anond.hatelabo.jp/20090518225205では皮肉半分、憂慮半分の文章で返しておいた。しかし有村悠は一向に反応しない。まあべつにいいけど―と思いかけたそのとき、そのエントリはあげられた。http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090521/1242967919である。ちゃんと読ませれば小学生でも分かる内容だが、こんなもの「昔のオタク史にはそんな事実はなかったじゃないか、出してみろよ」と言うamamakoが「事実はもちろんある」と反論を食らっただけの話なのである(細かくはhttp://anond.hatelabo.jp/20090523030043を見てもらおう)。引用されたNaokiTakahashi氏の言も、あくまでamamakoの「昔のオタク史」説に対するリアクションに過ぎない。amamakoこそは昔のオタク史を「知ったこと」だと思っており(ただし、知ったつもりなだけ)、NaokiTakahashi氏たちこそがその「(嘘まみれの)抑圧」に対して反発しているのだ。なのに有村悠には一連のやり取りがまるで逆かのように見えているらしい。私は困惑した。有村にはこんな簡単な状況が見えていないのか? なぜ?
それでも私はまだ疑っていたのだ。彼はそんなに馬鹿ではない、ないはずだ、と。だがまたしても、そんなときにエントリはあがる。"「○○は人間の本能《だから正しい》」というありがちな論法"(http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090525/1243251389)だ。彼はjoe11111氏のつけたブックマークコメントを引いてこう書く。
子供を産み育てることは人間の本能。本能に(義務とか趣味とか)理由などない。そもそも発端はタバコと子育てを同じ次元で見た駄文でしょ?あんなの最初読んだ時にコメントする価値すらないと思うのが普通
というコメントの前半についてなのですが、これが赤木智弘氏の主張(個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為=子育ては趣味といってよい)への反発であることを踏まえると、
という部分には「本能《だから正しい》」という価値判断が含まれているように読み取れます。「本能《だから当然》」でもいいのですが。
しかし、《》の部分は実は偏見なのですね。本能であるということ自体は、本来いかなる価値も帯びないのです。そこに《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えているのは、実はjoe11111さんである――となるのです。
なぜ? 確かに「子供を産み育てることは人間の本能。本能に(義務とか趣味とか)理由などない」という文章は分かりにくい。率直に言えば、私にもはっきりした意図がまるで分からない。が、これはそのまま読めば(「子育ては趣味」という論への反発としても)「子育ては本能だから、義務だからやるとか趣味だからやるとかいう理由などない」としか読みようはないだろう。そこに「正しい」とか「正しくない」とか言う価値判断は必ずしも入ってこないのだ。「当然かどうか」についてはなおのことである。善人が善事をなすのは当然、悪人が悪事をなすのもまた当然。「当然」に価値判断などありはしない。この価値判断は、有村も書くようにただ「含まれているように読み取れ」るだけであり、それさえもさしたる根拠はなく、「有村が」自身の解釈においてそのような意味を「与えている」というのに過ぎないのである。にもかかわらず、有村は書く。
そこに《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えているのは、実はjoe11111さんである――となるのです。
そこに、joe11111さんの主張と同じように《だから正しい》《だから当然》、あるいは《だからやむを得ない》という価値判断を含ませると、戦争や暴力行為のようなものでも正当化できてしまいます。
正確に読み取ることなどできなそうな「joe11111さんの主張」をなぜ有村は読み取れるのか。さらに続く
joe11111さんは、子供を産み育てることは理由などないほどに当然の行為だとおっしゃりたいのだと思いますが、それは結局倫理的・道徳的に好ましいという意味です。
については失笑するほかない。兎のつがいがさかって子育てし始めたらどうか。それは理由もないほど当然の行為だろうが、それも倫理的・道徳的に好ましいのだろうか。
いや、根拠の薄い憶測解釈も、結果的に当たっているのならそれはそれでいい。しかし、その解釈は当たってなどいなかった。有村の解釈が披露される以前に、joe11111氏はコメントの補足をしている。
ご指摘に関しては、まさに仰る通り「論点のすり替え」です。「だから正しい」がどれにかかっているのかはハッキリしませんが、「子育ては義務議論」にかかっているのであれば私はどちらの味方でもありません。どちらかを正しいと主張したいがために持ち出した論点のすり替えではありません。
私が言いたかったのは
人間が子供を産み育てることに誰にでも共通する普遍的な真理などあるはずがない
↓
発端の記事
(http://news.livedoor.com/trackback/4109939?tc=cf328439421c63bb4f2056d5d3d1a1fd)
はそれを「趣味」と決め付けた
↓
joe11111氏はどちらが正しいかなど主張しておらず、「論点のすり替え」も(話を正邪や好悪などにすり替えているのでない以上)「自然に訴える論証」でもなんでもない。つまり、有村の論は全く・完全に誤読であった。有村解釈の部分は実は偏見で、《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えていたのは、まさしく有村悠であったのである――さあ、有村はどうしたか。
追記
この記事をタラタラと書いている間に、joe11111氏のブログのほうでお返事をいただいていた。
こちらを更新したあとでトラックバックに気づいた次第、申し訳ありません。(http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090525/1243251389)
y_arim 2009/05/25 20:45
わあ、すみません。この記事がアップされたことに気づかず、ぼくのブックマークコメントの内容を改めて書き直したブログ記事を上げてトラックバックを打ってしまいました。ご笑覧いただければ幸いです。
とりあえず、joe11111さんの意図は了解いたしました。(http://d.hatena.ne.jp/joe11111/20090525/1243242720)
これだけ。これだけである。誤読で「偏見」だの「自然に訴える論証」だの「誤謬」だの「戦争や暴力行為のようなものでも正当化できてしまいます」だの…散々に難じておいて訂正もない。無礼について謝罪のようなものもない(「申し訳ありません」「すみません」は単にエントリアップのタイミングについての話である)。
泡沫フリーライターめ、なぜこんな文章を書いて恥ずかしくないのだ。事実ではなく自分のイメージだけが見えているのか? 有村には事実に基づいてものを論じるという資質そのものが欠けているのではないだろうか。なにがモノカキだ、なにがライターだ? おまえはblacksorceryと違ってそれを自称しているのではないのか。矜持の差は、覚悟の差はないのか。
4月1日からJR東日本が、通勤電車へのベビーカーの持ち込みを禁止している。
これまで、車両端にあった優先座席が撤去され、指定となつているグリーン車でしかベビーカーを持ち込むことができなくなっている。
私自身は子供を持っていないので、なんら不便はないのだが、混雑する車内にベビーカーがあることによる不快を感じたこともない。
JR東日本のPRによれば、ベビーカーが他の客にぶつかったり、赤ちゃんの鳴き声がイライラする通勤客に迷惑をかけることを問題視しているらしいが、そんなに嫌なら通勤電車に乗らなければいいだけのことだろう。
勤務の都合上、通勤電車に乗らざるをえない場合もあるかもしれないが、そんな一瞬のことを排除しようとするのは、あまりに子育てを嫌う側にのみ都合のいい言い分のように思える。それに、子育てしながらの通勤が問題なのであれば、各車両に子供車両を設置すればいいのである。全面ベビーカー中止はいいが、電車全体でベビーカーを持ち込めないというのは問題である。私としては徹底の視点で、公共交通機関には子供専用車両の設置を義務づけるべきだと考えている。
と、そんなことを考えつつ、ベビーカーについて検索をしていたのだが、世の中の嫌子育て家の要求は、分子育て要求をとうの昔に通り越していたらしい。今や彼らの主張は「子供専用車両の設置自体が許せない」というところにまで、行き着いている。例えば、路上ベビーカー禁止区域を設定した市町村が、ベビーカーエリアを設置するということに対して、「その費用を誰が負担するのか」と言うのである。もちろん、それは税金に決まっているのだけれども、彼らは「子育てという個人の趣味を税金で負担するべきではない」のだという。
もし、そうした理屈が通じるのならば、私は赤木智弘の文章の全面抹殺を求めたい。なぜなら、赤木智弘を嫌いな私が、赤木智弘という個人の趣味を、税金によって整備された通信網を通して負担してやる理由はないからだ。
赤木智弘というのは、恵まれない個人が自らの幸福を追求するために赤木智弘というネタ要員を褒め称える行為であるのだから、当然負担も受益者負担であるべきだ。そう主張したい。
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するために赤木智弘を称える行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。「赤木智弘を称える行為は、赤木智弘を称えないに迷惑をかけていない」と思うかもしれないが、赤木智弘の極論が絶対善であるという引きこもり通念によって、他の利用者がいかに不利益を受けているかを考えれば、子育てなんかよりもはるかに迷惑な存在なのである。
それでも私が、赤木智弘の文章の全面閉鎖などを求めないのは、たとえ迷惑であっても、それを互いに我慢していくことによって、始めてみんなが幸せな社会が実現すると考えているからである。それが誰もが自分にとって不愉快なことを声高に主張し始めてしまったら、社会は成り立たないだろう。
「赤木智弘がうるさいからlivedoorを撤去しろ!」などという主張が通ってしまうような社会を、私は許容したくはない。子育てもそれと同じである。人は誰しも、他人に何らかの迷惑をかけながら生きている。人権を主張することも大切だけれども、だからこそまずは他人の権利を認めることから始めてみてはどうだろうか?
http://news.livedoor.com/article/detail/4109939/
はてなブックマーク > livedoor ニュース - 【眼光紙背】タバコが迷惑なら...
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://news.livedoor.com/article/detail/4109939/
ttp://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080609/1212966011
だから僕は赤木智弘さんの「希望は戦争」のように、「あんまり追い詰めると爆発するぞ!(だから金銭配分したほうがリスク回避になりますよ)」という恫喝には一定の効果しか認められないと思うし、今回の事件にもそう思う。それに、通り魔をする前に、社会運動をする、デモをする、小説を書く、演説をする、投票をする、ブログを発信する、その他その他、あと精神的なものなら精神科に行くなど、できることはまだたくさんある。安易に通り魔を代弁者として賛美してはいけない。その前にやるべきことなど、大量にあるのだ。そして世界を変えていくほうが、通り魔なんかよりずっと有効である。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008050302008486.html
なんで今ごろ赤木智弘を持ち出してきたかといえば憲法記念日だからなんでしょうけど、
地元のコンビニで働く赤木さんは一昨年暮れ、「31歳フリーター。希望は、戦争。」という論文を月刊誌に発表した。「非正規労働者がはい上がれない社会が続くのなら、戦争で大勢の正社員が死なない限り、自分は正社員にはなれない」
って記事には書いてるんですけど、なんかネット上にこの記事の原文らしきものが載っていて、
赤木智弘の「希望は戦争」なんて、既得権がどうの、社会の流動化がどうのと理屈こねてるが、そんなのは本当に屁理屈とでも言うべきもので、根底には「自分の人生を/この世の中をめちゃくちゃにぶっ壊したい」という怒りだけがあるんだよな。
この人は文章が書ける人だから一躍、論壇の人となったが、そういう才能がない人なら鬱屈したまま自傷したり、他者に暴力を振るったりしてるのかもしれないな。
街を徘徊するようなタイプなら暴力団や右翼団体が拾ったりするのかも。
イギリスをはじめとするヨーロッパ各国ではそういう「社会的排除」からヤバいグループに入る青年が問題になってて、コネクションズという組織が、若者が孤立しないよう出向いていってるようだ。
こういう若者は複合的な問題を抱えてることが多いから、対応も多種多様に行われているみたい。
続き。
まず、この関係をどのように考えるべきか。社会的地位が低いから低セロトニンになるのか、低セロトニンだから社会的地位が低くなるのか。
ただ、うつ病(だけじゃなく精神的活動全般)に関しては「鶏と卵」のような働きが沢山あるので、因果関係を明らかにすることは特に重要じゃないのかも。たとえば、「うつ病になると食欲不振になり、栄養不足からますますセロトニンが不足する」とか「ストレスを感じると過去の嫌な思い出が甦り、それがますますストレスを感じさせる」とかいったことだ。
ワーキングプアな人が割高なジャンクフードを食べてることがあり、「無駄使い」だと非難されることもあるが、これも「抑うつ状態だから食事に気が回らない→ジャンクフード→栄養不足→ますます抑うつに」という悪循環のパターンがあるのかもしれない。
それから、小飼弾さんが「幸せだから笑っているのではなく、笑っているから幸せなのだ」と赤木智弘さんを諭したことや、少し前に話題になったポジティブ教についても考えさせられた。
ポジティブな人はポジティブでいる限り積極的に行動し、成功すればさらに自信を得てますますポジティブになる(失敗してもしばらくのうちは「逆境をバネに」できるだろう)が、抑うつ状態の人は現在の状況から脱出することができず、負けないうちから「負けた教信者」となってますます抑うつになる。ポジティブな人は抑うつの人に「もっとポジティブにならなきゃ!」なんてアドバイスもすることもあるが、両者の間には共通言語がないかのように話が通じない。ポジティブな人には抑うつの人の気持ち――文字通りの意味で「気持ち」の問題だ――が理解できないのだ。逆もまた然りで、抑うつの人はポジティブな人のアドバイスは最初から耳に入ってない。
「希望格差社会」という話もあったが、「勝ち組」と「負け組」の格差が開き出すと、それをきっかけに両者が「ポジティブ教信者」と「負けた教信者」に分化し、ますます格差が拡大し、固定化していく構造が社会や経済の分野だけでなく、我々の脳内にもあるのかもしれない。
ちょいと聞いてくれよ。
今日、dankogaiのエントリがGoogleReaderに飛び込んできたわけですよ。「赤木智弘たちに足りないもの」。
そしたらなんか精神論を振りまいていて、文章の意味がわかんないんです、これが。
で、よく見たらなんか下のほうに「嗤うな、笑え。」とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。内容のない文章馬鹿かと。
dankogaiよ、いつも他人を嗤ってセコくアクセス稼いでんのに「この前は団塊批判したし、今度は若者の批判をして
バランスとっとくか、これでまた書評屋としての印象度アップだな。ウヒヒヒ。」って政治屋やってんじゃねーよ、ボケが。
「笑い」だよ、笑い。(嗤)
なんか誰も知らねーようなSFから引用してるし。火星人に育てられた地球人か。おめでてーな。
よーしパパたくさん笑っちゃうぞ??、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、いいエントリ教えてやるからちょっと「赤木智弘たちに足りないもの」をブックマークするのは待っとけ。
いいか、人生戦略ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。書評野郎は、すっこんでろ。
で、やっと読み終えたかと思ったら、コメント欄で「「嗤う」より笑わねばならないと思います。」とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
得意げな顔して何が「嗤うな、笑え。」だ。
お前は本当に若者に手を差し伸べてやりたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、他人の穴を探して嗤って優越感に浸りたいだけちゃうんかと。
氷河期世代の俺から言わせてもらえば今、氷河期世代の間での最新流行はやっぱり、
「無学歴、無職歴、無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法」。これ最強。
今まで労働問題に関わってきた学者全ての発言よりも最強、世界のどこに行っても向こう100年にわたって通用する
ほどの超実用的スーパーエントリ。文科省は教科書検定して高校生の国語の教科書全てに掲載しろってこった。
久々に増田に書いてみる。空気は読んでない。ていうか増田読んでない。
だった、というのは正確じゃないかも。今も生理的にそう感じてる部分はあるし、程度問題もある。いわゆる「悪しき日教組の洗脳教育の影響」ってやつ? 母親が小学校教師だからしょがない。
まぁ自分語りはいいや。
でさ、不思議だったわけ。ネットに本格的にコミットしはじめた2002年ごろ。ちょっと見回すとみんな再軍備派。気分だの「真実の暴露」だのに酔ってレイシズムに嵌ってる有象無象の雑魚はどうでもいいとして、尊敬できる知性の持ち主であってもけっこうそうだった。切込隊長とかな(失笑した人は年代に注意)。
「なんでいい大人がこんなコト言えるんだろう」「死ぬのが怖くないんだろうか」「殺すのが怖くないんだろうか」って。思った。
違うんだ。最近やっと分かった。
「いい大人」になっちゃったから言うんだ。
赤木智弘の言うこともわかるんだよ。よくある「違う時代に生まれていたら」ってやつ。ヒロイックファンタジー志向の妥協策。でもいまオレは27。常識的に考えて、27歳会社員は、戦場で死なないし殺すことにならない。さらに、現状で総力戦の気配は毛ほどもないのだから、事態がもし順調に推移したとしても殴り合いが始まるのは数年先だ。よほど戦況が悪化しても、オレの前線配属はあり得ない。残念ながら!
っていうのに最近気づいた。
つまり上の世代が言う「(もちろん戦争も視野に入れた)自衛隊改正論」は、要するに元万年補欠野球部員だったオッサンが地元甲子園球児に向けるまなざしに似てるんじゃねぇのかなぁ。あるいは「時かけ」なり「耳すま」なりを観て、賛否いずれにしろ過剰な反応を示すオッサンに。その欲望の三角形に、見事に当事者たる世代が嵌っちゃう、という図。もちろん自分の死と殺傷を度外視していいから、現実的(!)な判断ができるようになったッてーのもあるんだろう。
なんだろう。うぜーなぁ。
そうやって既得権益者同士が若者の溜飲を下げてもらうためにやってる興業なんだよ。
WIRED VISION / 小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 / 第1回 気分はもう戦争・そのI
いやぁ、じつに(アダム・スミス的な意味で、だが)同感できる話だ。ぼくは既得権益をもった大人なので、ぜんぜん共感は出来ないが、31歳でフリーターだったら結構そう思うのかもしれないね。「閉塞感+リセット=戦争」かぁ、黄金の公式だね。ただし、この公式は、それこそ大学紛争にもオウム真理教にもみられたような気がするから、べつに新しいものじゃない。そういえば、大学紛争でも丸山は攻撃対象になったのだった。まこと歴史はまわるものである。
ところで暇な方、
不肖小田中がない頭をふりしぼって考えた、かの「気分はもう戦争」くんに対する個人主義的で出羽守的な回答……そのヒントは
「モロッコ」
沖縄戦で自決がどうのこうので揉めているのは、反日とか左翼とかじゃなくて「俺達の歴史を東京者が決めるんじゃねえ」ということなのか。
当時の本土の人間からしたら、沖縄なんか植民地みたいなもんだったのだろう。今もだけど。
沖縄に移住しようとしている奴なんか植民地主義の糞野郎だと思いますが、どうか。本土でうまくやって行けなかった奴が遥か遠くに離れた沖縄に仕事もなく行ったってうまくいくわけねえじゃん。銭金に出てくる離島移住貧乏なんかも同じ違和感を感じる。というか、あの人たち貧乏じゃないし。
離島や田舎が本当にいい所ならふるさと納税なんて話は出てこないだろうが。じゃあ都会の貧乏さんはというと今やただ単に悲惨なだけだしな。そんなもん夕飯時に見せられても困るっちゅーの。ネットカフェ貧乏さんとかな。
雨宮処凛とか赤木智弘とかの言ってることは正しいんだけど、そのベクトルは間違ってると思うがどうか。正直今はフリーターなりの当事者である若年者にしか届いていないのではないか。もっと言えば単なる自己憐憫にすぎねえんじゃねえの。俺も若年者のフリーターだけどそう思う。
もっと色々書きたいけれど昼飯を食うのでこれで終わり。