はてなキーワード: 耳すまとは
感想だから別に反論とかもいらんのかなと思ったんだけど、ていうか反論ある?とかクソダサって感じだけどなんかブコメいっぱいもらえそうだし!
https://anond.hatelabo.jp/20231024235209
宮崎映画は人並み程度には見てきたけど、あらためて自分なりに評価するとどうかなってのを書いてみる。
熱心なファンじゃないので見たことないやつも結構あるし、千と千尋以降はnot for meなのであくまでも増田の一意見としてみてくれるといいんじゃないカナ!
反論は別にいらんけど、いろんな短評が出てきたら面白いから読みたいカナ!
ストーリーはちゃんとあるんだけど、全体的にシリアスすぎる。シリアスな中の静・動でストーリーが進んでいくので子供の頃は静のところで飽きた。そしてストーリーが全体的に難しい。大人にはよい映画だと思うが子供向けではないな。ちなみにストーリーは独創的だし十分名作だと思います。
特筆すべきはどこで停止しても構図が完璧なところ。あれはまじですごいと思う。宮崎駿はレイアウトの天才らしいけど、ナウシカが一番絵作りという意味では自由だしうまかったのでは。ふるさはあるが音楽は悪くない
ストーリーは貴種流離譚の系譜にあり、演出も悪くない。ナウシカに比べれば静・動の静のところがかなり明るい・コミカルになっているので冒険活劇としてかなり良くなっていると思う。静かつシリアスな場面はやはり子供に飽きられると思うが(暗いし)ナウシカに比べると全年齢向けになったのでは。あとラピュタは背景画がほんとうにいいよね。レイアウトもちょっとどうしたレベルでよいし、音楽もいい
原作があるのでストーリーがかなりちゃんとまとまってる。主人公の成長譚として堅実な作りかと。ただストーリー全体でみるとキキがしんどい状況に置かれてる時間が長めな感じがする(ただしシリアスなところをコミカルに演出したりして緩和している)のと、キキというキャラクター造形が現代人の価値観とは相容れないので、現代で見るとちょっと厳しいものがあるかもしれない。背景画・レイアウトともにすばらしく、宮崎駿の全盛期はここでは、という感じ。音楽もよかった
ストーリーは惚れた女を取り合って喧嘩するというだけ。あってないようなものだけど、とにかく飛んでればかっこいい、危機がおとずれれば手に汗握るって感じで頭空っぽにして見られる娯楽映画の傑作。飛行機の機内上映用だったって話だけど、たしかに機内って結構忙しい(食いたくない飯出されたり飲みたくない飲み物出されたり電気消されたりつけられたり)ので、映画館で見るより集中力ない感じで見ることを考えて作られたのか?というかんじ。絵もきれいだし絵の中のものの動きに重さがあるので多分アニメーションとしてもすごく良い。音楽も好き。
ストーリーは二部制で一部が異郷訪問譚、二部がお母さんも妹もいなくなっちゃったどうしようからの全解決という構成になっているが、なんとなく予定してそうなったのではなく行き当たりばったりでたまたまうまく行った感がある(配分が良くない)。これくらいからストーリーの刈り込みをちゃんとやらなくなったのでは。
キャラクター造形はキャッチーで良いと思うし、メイちゃんのキャラ作りは新鮮でよかったのでは。一部はあくまでもコミカル、二部はシリアスが多めなので、ちょっと温度差で風邪ひきそうだが、一部で味方につけた小さなお友達はがんばえーって応援してくれそう。背景画はほんとうにすばらしい。音楽良いよね
原作があるとはいえ前半はオーソドックスな恋愛もの、後半両思いになってからは主人公の成長譚に分断されており、ストーリーのバランスは良くない。あと前半で地道に積み重ねてきた日常の演出が後半になってバロンが破壊し尽くすのがいただけない。
ストーリーは貴種流離譚と父殺しのかけあわせで前半はきちんと進行しているが、後半のたたみ方が雑なせいでテーマが露出しすぎてる。演出のちからでなんとか一つの話としてまとまった、という感じ。背景画は言うまでもなくすばらしいし、冒頭のタタリ神との戦いも非常に良いのだが、後半になると画が窮屈に感じられたりレイアウトがちょっと?と思えたりする。宮崎駿の衰えを感じる。音楽にすごみがある。
ストーリーとしては異郷訪問譚+主人公の成長譚なのだが、演出にあまりに時間をかけすぎ、ストーリーがおざなりになっているため非常にバランスが悪い。割と取ってつけたエピソードも多いし、思いついたエピソードを適当に配置して、なんとか繋げた、みたいな映画。レイアウト力が明らかに落ちている。
ストーリーより演出を優先した映画なのでストーリーの刈り込みがきちんと行われず、結果よくわからん映画になってしまっている。現代の映画は情報過多気味のほうが好まれるのでそれに合わせようとしたのかもしれないが、完全に失敗している。レイアウトもちょっとなぁ…となる
ストーリーがとても単純になり、ぽにょそーすけすきーだけになった。ストーリーに合わせて絵も簡略化されたが、簡略化されたことによりたっぷりとした演出に違和感がなくなり逆にバランスが良くなった。嫌いではないがもう少し推敲しても良かったのではとも思う
以降は見てません。
あと全体的に気になるのが、作画の都合上とはいえ服簡素すぎん…?基本無地の貫頭衣かな?みたいな衣装かつ色がダサい。ナウシカの頃はまだ細かくデザインされてたが、ラピュタ以降は紅の豚以外基本貫頭衣かそれに類似する簡素な衣服のイメージがある。コクリコとか風立ちぬは柄ものも着てるっぽいけど…
ジブリはモノローグを入れないので、某刃映画みたいに敵倒すまで何キロ走んねん!みたいなことにはならないが、そのせいでアニメしか見てない層にはわかりにくいと思われそう(一般的な映画と比較すると違和感ない)。たぶんストーリーを考えるのが苦手なんだと思うけど、千と千尋以後はストーリーから逃げて細かな演出に固執(むしろ演出メイン)していて、映画としての質は下がっているのでは(アニメーションとしての質は上がっているかもしれないがアニメ評論家ではないので知らん)。
バイト仲間のAさんに、
「最近、中高年に大人気の『スキップとローファー』を私も観たんですよ~」
と言ったら、
「うわー、出たー! 増田さんもかよー」
とAさんは言った。
Aさんの叔母さんも最近『スキップとローファー』にハマっているらしいのだが、彼女にそれを勧めたのもまた職場の同僚の40歳女性だったのだそうだ。
おばさんやおじさんの心を謎に鷲掴みにする理由がわからない、Aさん(ギリギリ20代)は叔母さんと一緒に視聴してみるも感想は「つまんねー」のみ。
「この間、叔母がうちに来るなり『なんとかとローファーってやつ観れる!?』って言うんで、大画面でアマプラ見せてあげたんですけど、キャプション見ただけで『きゃー! 面白そ~!』なんていうんですよ。キャプションだけで心を掴まれるってなんなんですかね」
「さぁ」
改めて聞かれるとよくわかんないけど、
「オーソドックスさが良いんじゃないですかね。ほら、20年前に世のおばさま方が『冬のソナタ』にどハマりしてた時も、そんな風なこと言われてましたよ。奇をてらわず、普通っぽいところが良いって。昔の少女漫画みたいなんですよ、たぶん」
とは言ったものの、思えば私はあんまり少女漫画を読まずに生きてきたので……オーソドックスな少女漫画の具体例を挙げろと言われても思い浮かばない。
私の場合、購読していた雑誌が『なかよし』で、ちょうど当時はセーラームーンや魔法騎士レイアースなど、どんどん奇をてらってくスタイルの漫画が連載されており、そういう華々しいタイトルに目を奪われていて、他に何を読んだのかさっぱり覚えていない。きっと当時も、読み切り作品などはごく普通の? 少女漫画だったはずなのに。
覚えているのは、『なかよし』の購読をやめた後に何となく手に取った『耳をすませば』の原作漫画とか、高校生くらいの頃に好きで読んでいた望月花梨の短編とか。
耳すまはともかく、望月花梨は少女漫画としてオーソドックスなのか? 心にグッサリと抜きがたい棘が刺さる感じなのは、高松美咲に通ずるものがあったりするのだろうか。
・音の方向がわからないから、味方の「あっちから音した」が分からない。
・複数の情報が受け取れず視覚情報の処理で手一杯でボイチャやSEが聞こえない。
・対面でビビってガバエイムするのが直らずカモにされて即落ち。
・脳のキャパオーバーで直近の記憶もあやふや。何が起きたか記憶してない。
結果「敵どこ?音する?あ、耳すませてたら味方移動してる!追いつく前に戦闘始まって参加遅れて味方負けたし自分も勝てない…」
「えなんで皆そっちいるの?え?移動するって言ってた?いつ?聞いてないんだけど!」
「よくわかんないけど死んだ!理由?覚えてない」
とかあって共闘以前のポンコツさだと理解したのでその手のゲーム諦めたよ。
足引っ張りたい訳じゃないけど役に立たないし、こっちが認識できなくて相手と齟齬(言っただろ/聞いてないetcetc)からの揉め事も減らなくて疲れた。
妻は耳すまのが1番いいって言ってた
こないだ50代女性(大学で講義もってる)が他の大人と雑談してたんだけど
わりと空いてる映画館で男性が一人でみててカップルでもないので気持ち悪いとおもったそうな
それを大学生男子の群れにいっちゃったら「先生それ差別ですよ!」ってつっこみ入ったそうな
コピーしながら全部聞こえちゃった自分はアラジンはアニメ版は見てるけど実写版そのものは見てないので何とも言えない
ただこの人には今後は連れ立ってプィキュアの映画みにいく大きいお友だちの話だしてはいかんとはおもったけど
きみならどうする
追記1
「おばさん1人もキモイ」
コンテンツに全く目がいって無くて気の毒じゃん
そこまでいわれるってことは彼女にとってどういう映画だったんだろ?
パパと同時にみてると気まずくなるような
彼女にとっての「女の夢のかたまり」みたいな映画だったんだろうか?
実際3次元ジャスミン姫がナイスバディでハーレム衣装きてるんだろうしな
ディズニーで言えばシンデレラと同じディズニープリンセス部類なんだよな
でもそこまでのものを作る気はしないんだが
正直実写はエマ・ワトソンの美女と野獣も金ローでちら見したレベルだしわかんね
追記2
「判定って何」
実写版アラジン見た人→「映画の表現方法がアニメに比べても一般的にも○○だった。したがって、その「気持ち悪い」コメントはアリ/ナシ」みたいの知りたかった。
俺(女性)にとって「耳をすませば」を映画館の自分の2つ向こうくらいで異性の一人客が食い入る様に見てたら
「やめろ!これは中学生のときの俺の妄想だ!直視するな!みなくていい!もうこれは夢だってわかったんだ!」
っていいたくなるくらい恥ずかしいだろうとは思う(実際には何も言わないのも彼女と同じだろう)。
翌朝以降に人に話すときには手短にいって「気持ち悪い」までいわなくても「男性はあれは見に来なくていいのに」って表現になってるかもしれない。
実写版アラジンが「耳すま」レベルの夢女映画かもしれないとおもうと余計に気になってきた。
異性が一人で食い入る様に「男の夢」みたいな映画を見てたらへんな気分にならない?
腐女子のつづ井さんて漫画があって「恋愛から縁遠い人生おくってきたから男女の恋愛もの見れない」→「全部ファンタジーだと思うことにしたら楽しめるようになった」みたいな話があるんだけど、そんな感じ。
実際時かけは「リアルな青春(自分はリアルかわかんないけど多分リアル)」に「SF」を足したことで、自分の過去という「現実」から多少距離をとって「フィクション」感を楽しめるという私みたいなのにも多少優しめで面白かったです。
でもあれがリアルに思える人は「あの時こうしてればなーとか思うことあるよね」とか「昔仲良かったけど疎遠になった異性いたなー」とか少し切なくなるんやろ!!!!その人が送ってきた人生によって感想が変わるいい映画だよ!!!!悔しい!!!!!!!!
セーラームーンは初の女子による女子の為の戦隊アクションものだったから、男子がセーラームーンの事で口を挟んで来るのには拒否感あったのは否めない。お前ら侵略してくんなよ的な。女子が戦隊ものなんか見るなっていう時代だったからなぁ。
あずきちゃんはよく分からん。初期は友人が熱心に見ていたが段々女子の間であずきちゃんヘイトの声が強くなって、女の私でも外で話題に出す事がなくなったという記憶がある。
耳すまは普通に男子も好きだったし別に女も男もとやかく言わなかった様な覚えがある。原作はもろ少女漫画だがアニメ版はジブリだしあの画風だからかな。
今我が家には未就学女児がいるけど、女の子は何観たって文句言われないし、親がガチガチに性別に固執して女の子に戦隊ヒーローや仮面ライダーを見せないという家庭の女の子は憐れまれる。
だけど男の子の親が「うちの子プリキュアばっかり見てて将来オカマになったらどうしよう」なんて言ってても、別にプリキュア好きでも良いじゃないと言う人は少なく、うんうん、心配だよねーなんて肯定する人ばかり。
ただ主役には合ってなかったってだけで。
アンノが駄目というよりもキャスティングが駄目だったと思う。
トトロのオヤジとか耳すまのおやじとかあそこらへんのセリフ少なくて棒が目立たないとこだったらこんなに叩かれなかっただろうなあと思う程度の演技。
あと全体的に中途半端な気がした。
さぞパヤオの趣味全開の飛行機系のあれこれがあるんだろうと思ったらそこまで濃くもなく。
かといって恋愛要素もありきたりで深みもなく。
趣味だけだとアレだから恋愛要素入れろって鈴木敏夫がねじこんだんじゃねーのかと邪推してしまう。
そーゆー意味では趣味と恋愛要素がうまくバランスとれててエンタメ性も高かった紅の豚はよかったなあと思ってしまう。
長い割に内容がすっげー薄かった。
最後に誰々に捧げるみたいなのが出て、あーそーゆーモデルっぽいのがいたのねと思って、それによってつまらなさの理由の一端がわかった気がしたのは、
ついこないだ見たアメリカンスナイパーのラストの感覚とまったく同じだった。
あれもクリント・イーストウッドの映画って割にはいまいちで、最後に原作あるんだよみたいなのが出てすっげー脱力した覚えがあるから。
mixiに限らず徒然なるままに。
思いついたまま書いてます。見返してません。
だいたい10年前
アルバイトをしていて店長からmixiしてる?と聞かれたのがmixiを知ったきっかけ。
そこはかとなく興味を惹かれつつも、頼み込んでまで利用したいと思っていなかったし実際に使わなかった。
友だちの間では、携帯サイト制作が流行っていて、バンドの紹介サイトや個人サイトが乱立し、みんな思い出を日記やアルバムでアップしまくっていた。
更新のモチベーションは「俺らの青春天晴れ」という、周囲へのリア充アピール。
友だち(当時は"仲間"って感じだったけど)とのコミュニティを楽しむのと
女子と交流するきっかけを掴みたいという淡い期待が8対2くらい。
mixiは、登録をしたものの携帯サイトのほうがデザインを自由に変えれる点を面白く感じていて、気まぐれで更新する程度だった。
学校は、電車で30分くらいかかる県内で一番大きな駅が最寄りで
登下校を毎日おこなう内に、他校学生が見知った顔になり少しづづ繋がりができる。
そういう友だちは、メアドを教えるよりも早く向こうからマイミク申請が来たりする。
今でいうLINEでいきなり連絡がくる感じ。
mixiは、マイミク数が露出されていて「自分はリア充だ!」というのをPRするために数増やしのために活動する人たちがいる。
■友だちの友だちの知らない女子
友人のページから女子が経由してページに来てくれるので、次第にmixiでの更新回数が増えていく。
そんな感じで、携帯サイトで培っていたコミュニティが集落ごとmixiに引っ越し始めた時期があった。
友人のページから女子は、足あとで確認するし日記をチェックしてくれるのは知っているけど互いに話しかけない残像のような存在だったりする。
仲の良い友だちとは、面白い写真や日記をアップし、互いにコメントをしあう猿の毛づくろい的な関係が続く。
1日のメールが200通、300通になり送信制限に引っかかるなど携帯が主人格のような時期はこの辺りがピーク。
■メル友
話はずれるんだけど、高校時代にはメル友交流が盛んで、他校の女子とメールしては会ってメールしては会ってをひたすら繰り返していた。
みんなwebで表立ってそういうことは書かないから、気づいたら他校の彼女がいるとかザラにある。
2人のホームページをシコシコつくって
(耳すまの最後で「こいつら絶対すぐ別れる」 と直感する感じ。)
こういうのは電車通学で様々な地方の学生が一箇所に集う環境ならでの感じもするけど、どうなんだろう。
■mixiを触らなくなる
「地元でのテンションが伝わらない」というカルチャーショックに打ちのめされる。
新しく作られたコミュニティ向けに文章を書くのがあまり楽しくなく感じる。
でも、それ自体はコミュニティの成長のためには関係ないものだった。
それで少しづつ
「日記書くのがバカらしい」という気持ちと
「ネットでわざわざコミュニケーションとらなくてもいーじゃん!」という気持ちが
相まってmixiに触らなくなっていった。
■蛇足
mixiのコミュニティで、「○○年度入学生集まれ〜〜*」というコミュニティがあった。
「入学式DOKIDOKIです!」「みなさんはバイトしますか〜〜☆」みたいな、
エネルギッシュな文章を予想外な人が書いていたりして卒業後に眺めるとめちゃくちゃ面白い。
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適当に。
・mixiが流行った背景は自分の感覚で上みたいな感じで、mixiの衰退には
機能が使いにくくなったとかTwitterの影響とか関係なく、コミュニティの開放と一緒に自分もmixiから開放された感じ。
・mixiは「マイミク」という単語を使わなくなった? 女子受けするデザインはmixiの流行に欠かせないものでワードセンテンスも大事だと思う。
・facebookが日本で流行らないと言われていたときに、「テーマ」を導入すれば流行るんじゃねって思ってた。SNSは頻繁に使うものだからオッサン臭いインターフェイスは嫌なんじゃないかな。
勉強会を探したり趣味友が欲しいときにmixiのコミュニティ機能は最適だと思います。
管理されないコミュニティは、ノイズが増えすぎて利用者は減る。
コミュニティの管理人にインセンティブを与える仕組みを作れないのかな。
金を絡ませるとまとめサイトみたいのが増えんのかな。
うざいかもな。
アンサイクロペディアとか攻略wikiとかさ。
・友人間コミュニティのためのSNSというポジションは諦めていただいて
コミュニティ機能を使用させるのに特化させればいけるんじゃないでしょうか。
発信したい人は発信するし、勝手に繋がるので友だち機能は消さないでいいと思うけど。
どうでもいい。でも儲かっているようなので存続のために続けてください。
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質問が2つ
・mixiの流行った時期、ビジネスマンはどんな使い方をしていた?
ビジネスマンはどういう使い方をしていたんだろう。
出会い系?
観た人のなかには「死にたい」とか「つらい」とかいう感想が生まれるんじゃない?
深夜アニメのようなギトギトした虚構らしさが薄い。アニメに「現実的」って形容するのも変な話だが。
増田仮説を支持したい。
その上で、ネタとして繰り返されるうちに本当につらくなる人が出ているのではないか。
ネタだったのにいつの間にかマジになっている、ってケース増えている気がする。
ネタなのかマジなのかを調べたわけではないので裏付けは無い。
俺もテレビで何度か観てるけど、多くの人があれを観て殊更に死にたいと騒ぐ理由がよく分からないので教えて下さい。皮肉じゃなく。
TLとか見てると「ハイスペックイケメンがキラッキラした青春を送ってるのを見るのがつらい」ってことなのかなと思うけど、でもそれって他のアニメマンガラノベエロゲも大体同じじゃね?
「イケメンの青春見るのつれーわ」の類義語として「壁ドン」という言葉はある。日頃から「壁が抜けた」とか「キリトさんイケメンすぎてマジ爆発してほしい」とか言ってる人が耳すまを観て死にたいって言うのはわかる。
でも普段そんなこと全く気にしないで無邪気にアニメとかを楽しんでるように見える人も、耳すまを観る時に限って死にたいと言っているのが謎。
一応仮説としては、ニコニコの「壁ドン」と同じように「とりあえず死にたいって言って皆で盛り上がるか」みたいな動機があるのかなと思うんだけど、どうもそこそこ本気でつらさを感じてる人も結構いるように見えるし結局よくわからない。どうなんでしょうか。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。