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2015-10-19

http://anond.hatelabo.jp/20151018141202

ペペロンチーノ好きな人ニンニク唐辛子をそのまま囓った方が純粋な味を楽しめるのに理解出来ない。

と言ってるのと同じだな。

ニンニク唐辛子オリーブ油パスタの相乗効果で新しい味になるのに。

あとサツマイモ芋焼酎大麦ビール、米と日本酒が同じ味だと思ってる味覚障害と話しても平行線だ。

2013-01-15

http://anond.hatelabo.jp/20130114183054

重量あたりのカロリーだと、油脂はすごく優れているけど、土地あたりで考えると穀物にはかなわないと思う。

一見脂っぽく、豪勢にみえる肉食よりも、だれもが米を食べる日本のほうが自然環境の恵まれ方だとずっと上。

穀物家畜に与え始めたのはつい最近

米がとれない地域では小麦をつくり、小麦がとれない地域では大麦や粟や稗や蕎麦ヨーロッパならライ麦、それすら栽培できないところでは、牧草地で牛や羊を飼って食べていたはず。

貧しいから麦混ぜ飯とか、あれは半分は嘘みたいなもんだ。

そんな言い方をすると米はちょっとしか採れない贅沢な作物みたいだが、条件さえ整えば収量なら圧倒的に米。

米>小麦超えられない壁>その他

一粒から何倍の粒を収穫できるかだと、穂によっては1000倍、田んぼ全体でも100倍は多少のヘマしても下回らない。

小麦なんてアメリカだって20~25倍、ヨーロッパだと20倍を切る。

中世ヨーロッパなんて10倍を切ってたそうな。

どんなに働けど暮らしなんか楽になんねぇよ。

日本が貧しかったと言ったって、貧しさのレベルがぜんぜん違う。

ヨーロッパなんか疫病で人口が何割減ったとか、飢えで人口が何割減ったとか、一割二割当たり前にバッタバッタ死んでる。

日本人ちょっとの塩辛いもので白米ばかり食べて、脚気になった江戸時代、ほかの国は金持ち以外みんな飢えてた。

アメリカ大陸という広く肥沃な土地と、トウモロコシジャガイモ発見奴隷労働がなければ、ヨーロッパはずっと腹ペコだった。

穀物で腹を満たせないから、山で鳥をとったり、兎をとったりして食べてた。

食用油脂が高価だったのもあるけれども、脂っぽいもの(肉類、油脂類)を食べなかったのは、世界の平均からするとむしろ恵まれてたと言えるんじゃなかろうか。

2010-09-07

農法の進化

農法の進化の過程を見ていると、紀元前から続く農業肥料との戦いであったことに気づく。

ヨーロッパの原始的な農法として二圃制というのがある。

冬に小麦を育てるのだが、その後はなんと一年間放っておき、休耕地にする。

これは別に農家が怠慢だとかではなく、そうしないと小麦が育つ地力が回復しないからだ。

次に北ヨーロッパに農耕文明が伝わってしばらくすると、三圃制というのがでてくる。

二圃制に加えて夏に大麦を育て、大麦→小麦→休耕のローテーションにする。

これは当時としてはかなり便利だったらしく、長く続けられた。

ところで、別にそんな面倒なことをせんでも成り立つ非常に便利な農法が古代にもあった。

氾濫を利用する方法だ。

メソポタミア文明エジプト文明、その他いろいろの文明の発祥地ではこれが非常に便利に使われていた。

土が枯れたら雑草に癒して貰うのではなく、川に流してもらい、新しい土を持ってきてもらうのだ。

そうすれば毎年なんの憂いもなく農業に励める。

現在では大河の氾濫など、人間に害があるばかりでダムでも作って治水してしまうものだが、化学肥料がなかった時代は氾濫は農業にとって非常に重要であった。

ところで、農地の地力とは、主に窒素分のことである。

大気中に腐るほど存在している窒素も、窒素酸化物などの形で地面に入らなければ植物が利用できない。

日本では古来、カミナリのことを稲妻と呼んだ。雲中で大放電現象が起きることで空気が灼かれ、窒素酸化物ができそれが雨に乗って地上に落ちる。無論、稲妻最初に呼び始めた人たちはそんな現象は知らぬだろうが、その関係性は知っていたのだろう。

窒素を大量に固定してくれる植物は、マメ科植物だ。

大豆などが有名だが、大豆肥料として利用されていた。日本では満州大豆を大規模栽培し、油などを取った絞りカス日本に輸入して肥料にしたりしていた。

化学肥料がいくらでも手に入る現在では、行われていないが、日本田圃では収穫後の田圃レンゲソウマメ科)を植えた。

幻想的な風景だが、昔は田圃に一面のレンゲソウが咲いていることが日常風景であった。(その蓮華は枯れる前に花ごと地面に巻き込んで肥料にした)

ヨーロッパ農業革命と言われるノーフォーク農法(輪栽式農業)では、クローバーを栽培した。

クローバーマメ科であり、この時やっと人間が「肥料を作る」という現象が発生した。

これまではずっと「肥料はどこかから持ってくるもの」だったのだ。(たぶんこの辺の意識の違いが近代近世あたりの歴史認識重要になってくるんだろう)

ノーフォーク農法は大麦小麦クローバーの他に、あまり地力を必要としないカブを育て、そのカブ家畜に食わせることによって家畜を年中飼育することができた。

クローバー家畜の糞でようやく、紀元前から続いてきた慢性的肥料不足は改善されるようになったのだ。

その後の化学肥料農薬の現代農法が確立されるようになり、肥料の問題は(少なくとも量的な側面では)農業から消滅した。

今や肥料をえるために四苦八苦していたのは歴史の事柄である。

2010-08-17

お米ってほとんど糖質たんぱく質や脂質がかなり少ないけどなんで健康食扱いなの?

日本人の身体に合う」とかの理由以外で。

明らかに大麦アーモンドの方が完全栄養食に近い。

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327144334

歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。

以下、主要な長さの定義や起源wikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。

メートル(現在)

現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。

1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。

メートル(起源)

1791年フランスにおいて初めて規定された。

以下の3つの案が検討され第1案が採択された。

  1. 地球北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1
  2. 赤道の周長の4000万分の1
  3. 北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ

これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

キュビット

肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。

紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。

それ以外の多くの西洋の文化でもキュビットが使われた。

ヤード

0.9144メートル

キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤード起源とされる説は多数ある。

フィート

1/3ヤード

足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。

インチ

1/12フィート

男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。

これとは別に、イングランドエドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。

マイル

1,760ヤード

マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。

リーグ

3マイル

元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。

海里

元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。

現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。

10/33メートル

古代中国の殷の時代には既にあったとされている。

元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。

後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。

大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。

古代中国の周代に制定されたものである。

歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。

後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。

1/10尺。

当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。

周代に尺の10分の1とされるようになった。

漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。

6尺。

中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。

60間。

丁とも書く。

条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。

太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。

後に6尺を1間とする60間となった。

日本では36町、中国では500メートル

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。

日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。

律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。

ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

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