はてなキーワード: オアシスとは
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
海外でね、「日本で普通に食べられるクオリティー」の飯を提供するレストランって希有なのさ。
だからベルリンのカント通りにある「へのへの」っちう牛丼屋はこっちに暮らす日本人にとっては心のオアシス。
すでに他の人がブログに書いてるけれど、「普通に旨い」のよここの牛丼は。それがどれだけ有り難い事か!
http://berlinhbf.exblog.jp/8344361/
http://diary.jp.aol.com/ky5quyzaedzk/219.html
こっちで良く見かける妙にコジャレたきしょい「アジアンオリエンタルエキゾチックワンダフルダイニングエクスペリエンス」でも、
「米と魚を海苔に巻きゃSUSHIなんだろ」なんていうインチキ日本料理でもない。普通に食える日本食。
HENO HENO
Kantstr. 65
10627 Berlin
彼女や妻というパートナーがいるのに非モテと自称する人たちは、そのパートナーたちに対しても失礼だが、それプラス「本気で非モテ」な人たちに失礼ではないかと思う。
なんつーのかな。いざとなったら、パートナーもちの非モテは「あ、でも俺、一応(この一応がニクいわけだが)彼女・妻いるし」みたいな感じで逃げられるんだよね。立ち位置を自由に変えられる。非モテの話って一口に言っても、本気で悲しんでるわけじゃない、悲しんでるポーズだけ決めたお遊びみたいなのってあるじゃん。クリスマスは中止ですとかああいうノリ。ああいうノリには「非モテでーす」つってちゃっかり参加しておいて、でも本気で「非モテってダメだよな」って話題になれば「あ、でも俺一応彼女・妻いるんで」って逃げられる。そういう逃げられる立場なら立場で最初から入ってこなければいいのに、のうのうと「非モテ」の楽しい部分だけは味わっていく感じ。ああそうだ、非モテの苦さ辛さは味わわずに、楽しいところだけ、美味しいところだけもっていっちゃう感じがなんかセコくて卑怯くさく感じるんだよ。ガチ非モテに失礼だろう、と。マジでモテなくて、あぁモテねーなあと鬱々してて、それでもモテない者同士せめてもの遊びで「クリスマス中止だ!」とかなんか言ってちょっと切なく楽しんでみてる、普段悲しい中の唯一のオアシスみたいなものへさ、いざとなれば「あでも彼女いるけどね」って逃げられる隠し玉持った奴が、「あ、俺もモテねーっすわーw」なんて暢気に入ってきたらそりゃムカつくっつーの。うん。言い過ぎた。
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PerfumeのGAMEが届いたからここんとこ移動中よく聞いている。いいアルバムだ。ネットでも面白い感想がたくさん出てきて読むのが非常に楽しい。一部のアイドルだった状態からお茶の間に進出しまくりな時期なわけで、そういう時期に湧き出まくった感想が面白くないわけないよなー
どれも面白いんだけどid:acidtankさんとid:inumashさんのやりとりが面白い。
で、ここで期待されたアルバムの常として必ずよかった/よくなかったという感想なり評価なりが出てきてて、これが楽しいんだけど、で、その中でinumashさんがかなり煽動的な釣りエントリをあげてるので反応する。俺は、(いいアルバムだとは思うけど)GAMEは「失敗」側かな、と思ってて、で、エレクトロ好きなので。
つうか、そもそも成功/失敗みたいな話ってどこに評価軸を置くかってとこが大事で、まあ文脈的に右肩上がりのストーリーを残せたら成功なんだと思う。
売り上げでも、お茶の間インパクトでも、ファンの中の評価でも。
で、定量的に見えない評価なんて個人的な文脈でどー判断したかという話になるわけで、サウンドがどうのーっていってても視点がミクロにいったりマクロにいったり、いやそれはそれで面白いんだけど釈然としない。ジャンル云々とか引用云々とかって水掛け論になりがちだなあと。いや、水掛け論もいいかげんにやってない限りすごい朝まで生テレビで面白いんだけど。
で俺はPerfumeって史上最強のテクノ歌謡だと思ってたから、アニソン的+電グル的な濃さとモー娘的なプロレス的幻想+αで凄い高い水準で楽しませてもらってたから、オアシスの1stがコンプリートベストで次はモーニンググローリーが来ると思ってたから、それで考えるとちょっと肩をすかされた感じがあるので失敗かなあ、と。
で、具体的に曲でいうとGAMEとtake me take meとButterflyのこの3曲微妙でしょと思った。ポリリズムとかチョコレイトディスコとかあるのに中途半端なインスト比重高い曲いらないでしょと思った。とくにGAME、ブリブリしててカッコいい曲だとは思う。でも名曲を量産してきたPerfumeの初オリジナルアルバムのタイトルトラックがカイリーのWowのB面曲のCherry Bombヌルくしたような、JUSTICE安易にパクったっていわれそうな、そんな曲じゃ悲しすぎるでしょと。NEXTステップのPerfume象徴させるにはどう考えてもヌルいでしょ。歌メロでPSPSぐらいの歌謡つっこんでくれなきゃ嘘でしょと。作業時間がなくてそういう曲が間に合わなかったとしても、その3曲をモーニンググローリーのタイトル無し間奏曲みたいにもっと2分以内にしちゃってよかったでしょと。逆に既発だらけになったとしても3曲抜いちゃってセブンスヘブンとか既発入れといてもよかったんじゃないのと。
アイドル歌謡のフィールドでは十分実験的なのか、マスにアピールするために敢えてヌルくしたのか、どっちにしても言い訳になるくらいのクオリティじゃないと思う。何ゆえystkのゆるウンコ入れてきたの。失敗でしょ。
書いてるうちにカッとなって言い過ぎた。キモオタまるだしじゃないか。
冒頭で書いたとおり、いいアルバムだと思う。ただその3曲はなんでこんなことになっているのか腑に落ちない。
でも混乱してるわけで、でも道夏大陸とか見て入れ込み強くしてきたわけで、3人を責めることなんかできるわけなくて、中田のアホ、っていって溜飲下げるのが落としどころになるわけで。今は言わせて。中田のアホ。そしてこれからもいい曲書いてください。
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主だったところから地方都市の新星堂じゃ見ねえぞ置いてねえぞそれっていうところまでさっきidを出したお二方とも洋楽での比較対照をあげてくれてるんだけど、俺がPerfumeを(新星堂レベルの)洋楽と比較してパっと思いつくのは現在進行形ってことだとちょい古でAnnieなんだけど、ググっても比較の話がみあたらなかった。なぜだ。すげえ的はずしてるのか。
http://www.youtube.com/watch?v=f9Wf46tLonM
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つうか、J-POP抜きでPerfumeを語るのはあまりに部分的すぎんじゃないのとも思う。
http://www2.plala.or.jp/wasteofpops/
その辺この人とかすげえな、といつも思う。
同じようにJ-POP語らせたら毎回すげえ面白いのにパーリスの人はペルフメ?なんすか?みたいな態度だし。
なんにしても俺は期待しすぎだわ
じゃあ、そういう女の子と、いわゆる非モテ男子がくっつけばいいと思うよ!ってなるかと思うと、やっぱりならない訳で。
そういう女の子の「多分、私は(自発的に色々頑張って手を伸ばせば、恋愛に手が)届かないわけじゃないけど、そんなに恋愛というモノにエネルギーを消費したいと思えないし、別にいーや」って感じで非モテ女子で居る、というのと、
いわゆる自分で非モテとか喪男とか言っちゃう男子の「多分、俺って一生恋愛とかいうモノに縁が無いまま死ぬんだろうな(それでいて近づけば近づこうとするほど恥をかいて傷が大きくなるし)」っていう絶望と諦観を持って非モテで居る、ってのと、
同じ非モテでも両者は残念なくらい似て非なるモノって感じがする。
その辺が「女の子は非モテでも可愛い子がいたりする(けど、男でそういうのは稀だよね)」って感想になってたりするんだろうし。
だから実際、多分そちらのエントリーには「そんな女の子が好きだby非モテ男子」なコメントやトラバがズラッと届くけど、それ自体がもうイヤでしょ?
男子はチャンスがあれば付き合いたくて仕方ないけど、女子は付き合いたくないから付き合ってないのに、フリーだと勘違いして軽ーくアタックかけられちゃ。
ってな事を思った。
(それでもどうしてもそういう女の子と付き合いたければ、自分もそういう男の子になればいいんだと思う。
少なくとも非モテとか喪男的なメンタリティーとは120度くらい違う、浅野いにおの『ソラニン』に出てくる種田みたいな感じの。
・・・なれねーなぁ。)
だから非モテ男子は時々そっちの方向にオアシスがあると思って駆け出しそうになるけど、間違っちゃいけない。
・・・ほら、すげー嫌でしょ?w
これみたいなもんか。
1 名前: 水先案名無い人 投稿日: 03/11/23 12:08 ID:+Ciz7U4v
しぶいところではサザンなんかもきっちり押さえてますよ。
ロック以外でもいろいろ聴いてるなあ。浜崎とか林檎とか好きだし。
宇多田も倉木も両方好きだし。意外に思われるかもしれないけど、
でも近頃はオアシスとかも好きになってきた。
あと落ち込んだ時なんかにはレディヘとか聴いたりして・・・
まあモーニング娘を聴いてるような人とは音楽の話はしたくないね(笑)http://that.2ch.net/gline/kako/1069/10695/1069556884.html
1.ミーハーな人、2.ミーハーな人を叩いている(けど実体はミーハーな)人、
3.それを叩く人、4.俺、5.お前、6.大(略)
この「蜘蛛の巣」に喩えられたネットの中には、私が出会うべきコンテンツが必ずどこかにあるはずなのだ。そのページは、リンクという名の見えない糸を密かに張り巡らせて、私が手繰るのを待っている。私の目の前のマシンのメモリにロードされる日を待っている。私も、偶然、若しくは必然として、そんなページに辿り着くことを期待しつつ、自らも見えない糸の網を広げつつ、クリックというたぐり寄せ作業を続ける。
でも、辿り着かないんだ。あるとき見つけた、心に傷を負った女の子のサイトは、私の探しているものにとても近いものだった。そのときはまさにそれだと思ったし、事実、あの短い期間だけを考えればまさにそれだった。私たちは恋をし、求め合い、触れあって、やがて傷を深め、別れた。ほんのひととき、半年ほどのオアシス。結果論でいえば、そこは私の探していたものではなかったし、結果論でいえば、私は辿り着いていなかった。
たぶん、そこはきっと、とても近いところにある。実は毎日毎日足繁く通っているサイトの隠しリンクから行けるのかもしれない。もしかするとなんとなくクリックすることを避けているその先に扉があるのかもしれない。わからないけど、近い気がする。2,3クリックで行ける気がする。その先にあるのは恋かもしれないし、恋ではない出会いかもしれない。仕事かもしれないし、一生の学問かもしれない。あるいは何かのダークサイドかもしれないし、スピリチュアルな何かかもしれない。何かはわからないが私にとって重要な何か。既に近くにある何か。でも、辿り着けなければいくら近くても意味がない。
ひょっとしたら今晩、うとうとした拍子に偶然クリックしたそのリンク先に、それはあるのかもしれない。その確率はしかし、一体どれほど天文学的な数字になるのだろうといぶかしがりつつも、パソコンの前からなかなか離れることができない。
それは学校で痛いほど身にしみてる。
俺より5歳も年下のやつが・・・
ある日学校から電車に乗って行かないと間に合わない所で大切な学校行事があったんだけど
そいつが「今月はお金無いから歩いて行くわ、皆先行っといて(笑顔)」って言って、俺は迷った。
お金を貸せば一件落着だろうけど
どうしても貸したくなかった。
俺のお金じゃないから。
死ぬほど情けな過ぎて
俺も一緒に歩いて行った。
数時間後先生や先輩にとことん怒られた。
そいつは返事せずに俯いてた。
俺はそいつより遥かに子供だろう。
遥かに発達不足だろう。
情けない。
情けない情けないと話していると先生が言う。
「情けなくて可哀相な自分に逃げ込んでも前には進まない」確かに。
俺の周りは逃げ場だらけ。
皆はその地獄がどれだけ辛いかをわかってるから俺に忠告してくれる。
俺は地獄を知らないからわからない。
地獄は本当に今よりも辛いのだろうかとすら思ってる。
ツマラナイ人生しか送れない
ツマラナイ死に方しか出来ない。
いつまでも実感が得られない。
渇きを羨ましがるなんて愚かの極みだろう。
食べ物がたくさんある。
船出しないと。
私は運動が出来ないからというかなり陳腐な理由で美術部に入ったんだけど、まさにそこは腐女子のターミナル・オアシスなのよ。
腐女子という言葉や存在を知らなかった入部当時の私にとって、彼女たちが話している風景はアニメ好きの女たちのオタク話にしか聞こえなかった。
私は当時アニメだとか漫画とかそういうのは興味なく、ただ教科書に書いてあるシャガールだとか黒田清輝の絵を模写していた。
私が腐女子の存在を知ったのは2chのVIP板の801板をアータラコータラするという祭り。
そこには腐女子すげえだとかいう腐女子を皮肉る書き込みがあった。
私は腐女子の存在と腐女子というネーミングにいろんな意味で衝撃的でった。
だって、他人の作った漫画のキャラで同性愛という味付けにして、それでピュアのハートを刺激するというその行動の快感を私には理解できない。
理解するつもりもさらさらない。
彼女たちは、本家である同性愛者に嫌われている。それは何故か。
それは彼女達の同性愛はこうあるべきという新しい固定観念にあると思う。
新しい固定観念というのは、彼女たちはこういうストーリーに毒する前は一般人と同じ同性愛者の固定観念を持っていたと思う。黒いレザーの服にくそみそテクニックの阿部高和みたいな変な積極力を持っている人のような。
しかし、今時こんな恋愛ねーよwwwwwwというような恋愛に同性愛という禁断の要素を取り入れたそのストーリーは彼女たちを魅了した、それとともに理想が出来た、その理想が固定観念になった。
そういう固定観念を持たない腐女子もいると思う、むしろそれが半分以上だと思う。
追---
http://anond.hatelabo.jp/20070509110509
マジかよおおおっ?!知らなかった。
さすが象様。やってくれるぜ!
http://anond.hatelabo.jp/20070509142649
牙じゃなくて?
キャッ(〃ノωノ)ゾウの掘った穴があったら入りたいわ。
それ以外の穴はもちろんお断りだけどね!!
http://anond.hatelabo.jp/20070215125511
返答は「あんまり一緒にいない方がいいと思う」し「sexはそれほどしたいとは思わない」でした。
あー、この感覚分かる分かる。ベタベタしたくないんだよね。いつも一緒にいてベタベタする相手は友達。恋人は、実生活面ではあまり互いに干渉しあわなくてドライ気味だけど、話すとリラックスできて信頼しあえてる関係、ってのが理想。互いが互いの心のよりどころ、みたいな? SEXは常にはしたくはないけど、たまにしたくなった時に遠慮なくそういうおねだりができる相手がいるってのも重要。根本的にそういう、ある意味で便利な、でもとても重要な……オアシスや静養地みたいな相手、という風に恋人を定義しているから、一緒にあれもしてこれもして、なんてのは求めてないんだ。求めてないどころか負担。まあ、あなたの彼女がこんな考え方をしてるかは分からないけど、こういう奴もいるってことで。
参考記事→anond:20070205220152
でも上の記事探して今見てみたらたしかに色々な主題があるんだってわかったので
あんまり恋愛一辺倒じゃなくて他の主題も雑多に入り乱れて議論だとかネタだとかが飛び交うようなカオスな増田がいいってことだろうか、と思いもしつつ
たしかにテレビ、音楽、映画、哲学、現代思想、物理、化学、生物学、社会学etc...とかの主題がどうにか出てこないかなぁと思ったり。
でも~~~っていうアーティストのあの新曲!、とかこの~~~って映画よかったよ!、とかはあまり増田民のある一定度の範囲に係る話題ではないからその意であまり反応がないしそれほど…という感じだなぁ。
だったら、テレビ学とか音楽学、映画評論。または科学の最近の話題だとか。ちょっと後ろに「~学・~評論・~批評」だとかいうような感じであるような話だったら食いつくのかなぁと思ったり。
とりあえず今日も暖冬。なんかもっと寒いのがいいなぁと思ったりする今日この頃。という感じで以上。
追記