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はてなキーワード: アウトプットとは

2009-03-09

アウトプットの訓練

  • 学んだことをまとめる
    • 自分なりの考えを入れて書く
    • どんな本でもいいから、1冊読んだら感想を書く
    • 本をただ多く読んでも、アウトプットとしないと身につかない→つまり意味が無いということ
  • 人に話す
    • 同じことを3人ぐらいに話すと、自分のものになるそうだ
    • 人に教えると、自分が知らない部分が見えてくる

私はこう思ったんだけど

他にどんな方法があるか、偉い人教えて!

2009-03-02

居場所が何処にもない。居場所を作ろうと努力し続けてきた。何かをアウトプットしようと努力し続けてきた。何かをアウトプットすればきっと居場所は生まれる、そう信じて努力し続けてきた。

しかしその努力は報いられない。自分は何も出来ない。何もアウトプットできない。そのような人間存在する価値などあるのだろうか。

小説を書くのを諦めたのはこれで何度目になるだろう。本当に自分は何も出来ず、存在する価値がないのだと痛感する。

自分は何がしたいのか。分からない。

きっと分からないまま死んでゆくのだと思う。

2009-02-26

ゲームクリエイターになりたい

ゲームが作りたい。

着ている服のポケットにライターが入っていたことをふと思い出して、それを取り出してとりあえず火を点けてみたように、ほんの小さな、しかし確かな、そういう情熱が出てきた。

そんな風に思ったのは、かつて自分ゲーム好きであったからだろう。ゲーム好きが高じてゲームクリエイターを志望した人は、ゲーム開発者の7割がたであると推測している。

でも、(プロの)ゲーム開発者になって、一体どんなゲームを作りたいの?というと、答えが上手く出せない。
自分はこんなゲームをやりたいんだ!」と形にする、自分の中にある世界を表現する道具としてのゲーム、そういうのは売ることを考えずに同人で作るのが主流になっているようだけど、それは何か違う。好きなゲームジャンルは確かに持っているけど、自分受け手として満足をしてしまうほうなので、それにインスパイアされて似たようなゲームアウトプットをするなら、他人には素直に自分の好きなゲームを紹介したほうがいいように思える。そっちのほうが完成度が高い。ただのゲームマニアに本当に面白いゲームは作れないというのが持論で、自分も一介のただのゲームマニアに過ぎない。

(個人的には、ゲーム企画書システムそっちのけて世界観ストーリーをびっしり書くという輩が未だにいるという話が信じられないのだが、これはFFDQその他RPGに影響されたからなのだろうか)

ここ最近任天堂が推進している「新しい遊びを作る」という運動には共感しているのだけど、自分はそこに一助などできそうにない。「体重を量るだけで楽しい」「楽器演奏は難しいから簡単にできるようにしよう」「パラパラ漫画をみんなに紹介できる場を作ろう」という発想は自分の頭のどこをひねり出しても出てきそうには無い。一時期はファミリーベーシックみたいな感じで「専用のプログラム言語キャラを動かして寸劇みたいなのが出来たらクリエイティブで面白いのではないか」とか考えてたけど、具体性は出せなかったし、夢物語だろう。

プログラマデザイナー音楽など、専用のスキルは全く持っていないし素養もない。企画力もないように思う。あるのは半端なゲームの知識だけ。
最近だとアンサイクロペディア、昔からも言われている話だけど「ゲーム専門学校生はレベルが低い」、どうなのだろうか)

プロデューサーというのだろうか、商品としてゲームを売り込みたいのでもない。企画の失敗、スケジュールの問題、商売という制約によって仕方なくクソゲーを作ってしまうことにも恐怖を覚える。

こんな感じでゲームを作りたいという割にはゲームで何をしたいのか今ひとつ解せてない。自分子供の頃に「ゲームプログラマになりたい」とホザいていたけれど、結局プログラムに手を出すことはなかったし、自己分析をしてみて、ゲームを作る能力には欠けた適性ある人材ではないように思う。

ゲーム販売店に並べられたソフトゲーセンに並べられた大型筐体やビデオゲーム・・・そのラインナップに自分は何か貢献できないだろうか。昔ほどゲームが好きでもなくなったけれど、今はそう思っている。

ゲームを作るためには、具体的に何をすればいいのだろう?

2009-02-22

努力する自分をアピール

http://anond.hatelabo.jp/20090222170142

増田は俺と似てる気がするよ。 エゴグラムをやるとAとCPが強いんじゃないか? 留学するのにはもってこいだけど、ちょっと遅かったか・・・

増田は「で、それになんの価値があるの?」っていう疑問をもつことがあるのかもしれない。 俺も人に興味を持とうと思って、この問題にぶつかった。

市場価値も、学術価値もない。 じゃあ、無価値か? っていうと、多分人間価値が無いってところに行き着くんだろう。

人間価値が無い」ということが前提になっていると示唆するものはたくさんある。 でも人間は「あなたには価値がある、あなたが大切だ」ということが前提になっているものでしか生きていけない。 物理的にも。

技術も、金も、社会も、制度も、みんなある意味そうだとおもうんだ。

「あなたには価値がある」を前提としたやり取りをするには、増田も「俺には価値があると言ってほしい」と願ってる状態じゃないといけない。 しかも無自覚的に。

俺の論理に無理矢理当てはめてしまって悪いんだけど、増田は「俺には価値があると言ってほしい」っていうのを「これができるようになった。 これもできるようになった。」という形で実現してる。 「あなたは、自分価値を高めることで人を引きつけようとしている。」でも書いたけど、自己完結した世界

俺もこれでかなり救われてきたし、これを批判するのは馬鹿だとおもう。 でも、それにはまりきらない部分もあるんだと思ってる。 ・・・というかそう思いたいな。

俺は多分増田みたいにできがよくないから、いろいろ挫折したり、進展がみられなかったりすることがよくある。 そういうとき、↑のやり方だと次の成果を出すまで黙々と作業し続けることになるけど、多分応援してくれる人がたくさんいた方が自分アウトプットブーストされる。 ・・・・そういう仲間を作っておくコストを下げるという問題は、自分がそれを必要とすることであって・・・となんかまとまらないんだけど、

「それはすごく大切だと思う」とか、自分価値観で、相手を喜ばせられるポイントがあったら逃さないことで、コミュる手助けになる。 きっかけにはなる。

とりあえず相手は、聞きたいことを言ってくれて、聞きたくないことを言わなければ友達になれるし、増田みたいにコンペテンシーがあると自慢できる友達に慣れる。 あとは増田が楽しめるかどうかだとおもうし、最初は「それはすごく大事なことだと思う」「悪いんだけどそれの何が大切なのか今の俺にはわからない」とか言ってみるといいと思う。

2009-02-15

国家資格Webデザイン技能検定3級受けてきた

当方Web屋、小さい会社デザインHTMLCSSコーディング、暇あればPHPやってます。

新卒入社1年なるしそろそろまたスキルアップにとCGアーツ協会のWebデザイン検定3級取得に次いで

噂のWebデザイン技能検定(今期で4回目の開催)こっそり受けて来たよ。

Web上の過去問を見てこれは無勉でも受かるなと思ってすぐに申し込んで

前日薄っぺらい参考書をさっと眺め意気揚々と突撃。

これはもしかすると落ちたかも分からんね。

実技

Windows(XPSP2)かよ

JISキーボードかよ

エディタサクラエディタTeraPadのみかよ

学科

ネット上に流布した常識を鵜呑みにして直感的になりすぎた

総合的な敗因はどうみてもネットも含め便利ツールに頼り過ぎてた。

学科はともかく実技はそれが顕著で隣の人の作業速度に付いてけず序盤頭真っ白、回答よく見直す暇なく終了

何度試行錯誤のショートカットキーを試みて失敗したか。

ああもうやだやだ。

アウトプットする場所は数あれど、あえて頭の中に浮かんだ事を推敲せず増田で書きなぐってみた。

2009-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20090208141010

コミュニケーション下手な人ほどやりがちな勘違いだけど

とりあえず、日ごろからアウトプットできる話題とか、テンションの高い返しとか、

いろいろ準備しておかないとダメなんだろうな。

アウトプットスキルよりも、むしろインプット能力を磨いてください。相手の話に対して相槌するとかリアクションをとるとか。「会話に乗るために自分も何かうまいこと言わなきゃ」みたいな意識でいると、余計に浮くことになります。

女性同士のコミュニケーションを観察してると、聞き手が相手の話題に対して「うんうん」とか「へぇ~」みたいな感じで頻繁にフィードバックしてるのが分かると思います。そういうのだけでもだいぶ勉強になると思うよ。

話題・ノリ

周りの話題・ノリについていけない。

自分コミュニケーション能力が低いためか、周りについていけないことが多い。

一般的な受け答えは出来てる(つもり)けど、どれもつまらないし暗い雰囲気になる。

無理やり笑い顔作ったり、ボケにつっこみいれたりするけど、かなり無理してる。

とりあえず、日ごろからアウトプットできる話題とか、テンションの高い返しとか、

いろいろ準備しておかないとダメなんだろうな。

http://anond.hatelabo.jp/20090208002009

http://anond.hatelabo.jp/20090207235519 の増田です。

御返事ありがとう

モンパが溢れてる今教師にビクビクしてる子供なんてなおさらいない気がするんだけど。

違うんだな、教師にビクビクなんかしてない。

ビクビクしている相手は、具体的な誰かじゃなく、まさに「空気」なんだろうと。

空気に摺り合わせたアウトプットが求められてるから、それにあわせて感想文でもレポートでも書かないとならんので。

私立進学の意識がない公立小中の子ほど何事もやる気ない。

意識がない」のも「先が分る」ってことじゃない?

誤読してるかもしれないが、そこはたぶんどちらも同じなんじゃないかと思う。

2009-02-07

レポートコピペ問題の問題」

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20090206/1233931403

自分で考えて意見をまとめる」よりも「自分で考えたかのように意見を言う」ことの方が処世術としては対価・報酬ショートカットしてる感が強くてなんとなくいいかも的にレポート違和感なくコピペできちゃうんだろうなという話。

ブクマで「教育の問題」だとか「まずハウツーを教えるべき」だとか「文章の書き方教えてもらえなかった」とか言われてるけど、自分もそれなんとなくわかる気がする。教えてもらわなかったことで落胆されても知らねえよ!みたいな気分があるのかもしれない。

だけど結局、学生がこういうこと思っても特に反論なんかせずコピペ→提出しちゃうんだろうなと思うと、それはそれで変な感じ。だって、文章の書き方なんて、読書感想文やるくらいの年齢なら普通に会話で使ってるよな言葉で何かしら言えるんだし、「僕が読書感想文を書かない理由」くらいの感想文を書けばいいのに、とか思っちゃう。

でもそれをしない、というかできない、しようと思えない。そういう状況で「ハウツー」やら「書き方」やらを求めることは、自分には、単に評価される安全圏を求めてるだけに見える。それを求める気持ちもわかるけれども、そこで最終的に行き着くのは「内容も安全圏→優等生」か、「何が安全かわからない→コピペ」ってことだと思うわけ。要は、書ける書けない以前に「何を」書きたいかが重要なのであって、これを「ハウツー」と呼ぶのであれば、会話でも「ハウツー」を教えてやる必要があるくらいの、ものすごく基本的なことを自分は言っています。

もっと抽象的に、レポートコピペ問題の問題は、「精神の自由」みたいなものが、窮屈なところに押し込められ過ぎている点にあるんじゃなかろうかと提言してみる。日本が悪いのか、現代が悪いのか、両方が悪いのかは知らないけど、そのいずれにせよ教育が悪いとすれば、「自由に」と口では言いながら、実際は全然自由じゃないことは悪い。本当に自由であるべきなのは、結果の文章ではなく、文章を書く自分精神の動き(過程)であって、「ハウツー」やら「書き方」が生きるのも、その精神あってこそだということだと思う。逆説的だけど、そんなの教育しようと思っても、かなり難しいし、その難しいことが、教育なんだろうけど、とりあえずやっぱり、この精神が本領発揮してアウトプットするにも「コツ」はある。しかしこういう「書き方」とか「コツ」っていうのは、突き詰めて考えたら、やはり自分が書いていくことでしか得られないものだったりするわけで。

要するに書くってことは面倒くさい。嫌いな人は一生嫌いであるような類のものだと思う。書きたくない人がレポート出すことの方が間違ってるんだということで。

http://anond.hatelabo.jp/20090207031034

学生社会人じゃ求められているものが違うでしょうが.

学生は考える過程やら思考に至る道筋が重要なんであって,アウトプットコピペしてくればいいってものじゃないでしょうさ.

対して社会人定型フォーマットがなんたらとか,わけわからん時候の挨拶とか,体裁が重要視される系じゃないけ.

そんな社会人仕事に対してはコピペは全力役に立つよね.

でも,だから学生コピペレポート出していいのとは違うでしょ.

http://anond.hatelabo.jp/20090207031034

ネタマジレス

  

なんで学生コピペがだめか?

学生レポートを提出することが重要ではなくてレポートの内容を構築するための文献サーベイなり実験なり「アウトプットまでの手法」をトータルで訓練している。教授講師が求めているのはどうやって解にたどり着いたか。

  

なんで社会人コピペが許されるか?

「納品せよ」というオーダーに対して成果物に要求されるのは納期とプライスクオリティプロセスは問題とされない。だから産地偽装毒物混入が問題となっているともいえる。

  

学生コピペ社会人コピペは全く意味が違う。

2009-02-04

http://anond.hatelabo.jp/20090204142422

ああ、もう何か創りはじめてるんだ。それなら結構。パッションアウトプットがある限り、一生おもしろい人に不自由することは無いと思うよ。

もう走り始めてる人に特に言う必要もないんだけど、ずっと昔に大学時代を過ごしたものとしてつい口を挟ませてもらうと、どんなに学生時代に「すごいサークル」を作れたとしても、それは助走なんだということを心の片隅に止めておいてほしい。あなたが過ごすことになるであろう仲間との濃い時間は、そこで完結するものじゃない。その時得られる刺激や充実感は、それ自体あなたの生活に充分な活力をもたらしてくれるだろうけれども、それはほんの味見に過ぎないんだ。

おそらく大学時代の仲間は、いずれあちこちに散って行くだろう。職種的にも、地理的にも。そして10年、20年と経った時、かつての仲間がそれぞれの分野で素晴らしい仕事をしていることを、ニュースで知ることになるかもしれない。あるいは自分アウトプットを見てくれた仲間が、地球の裏側から連絡を寄越してくれるかもしれない。運が良ければ、またコラボレートすることができるかもしれない。今度はお互いプロフェッショナルとして。その時わかるんだ。大学時代のあの時間は、種蒔きにすぎなかったということが。本当の実は、そこから数十年の時間をかけて育ってゆくものだということが。

言い換えれば、あなたの「すごいサークル」が本当にすごいサークルになれるかどうかは、その仲間が散り散りになった後であなたがその種をどう育てるかにかかっているんだ。トキワ荘が、今私たちが知る「あの」トキワ荘である理由は、ただその時そこに若い漫画家才能が集まっていたというだけじゃない。その後何十年もかけてかれらが成し得たことが、事後的に「あの」トキワ荘を作ったんだ。

だから、一時の高揚感や充実感に満足して手を緩めたり、他人の評判に浮かれたりしないように気をつけて欲しい。どんな体験も、しっかり植えておけば遠い将来に実を結ぶ。妥協せず、自分アウトプットを冷静に見つめて、より良いアウトプットを目指すということを、とことんやるのがいい。増田で遊ぶのも程々にな。ぐっどらっく。

2009-02-01

つくづく何を書けばいいか分からん。というか書いてる場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。でも何かしなくちゃいけない気がする。そうそれは勉強のはずなんだ。するべきなのはテストに備えての勉強のはずなんだ。でもちっとも手をつけられない。どうしてか。かったるいからだ。めんどくさい。やってどうなるんだと思う。したって意味がないんじゃないか。単位を取って進級してそれでどうするってんだ。特に目標はなく惰性で進学しようとしているだけだ。それでどうする。何事か成し遂げたいことでもあるのか。しいて言えば楽をしたい。オタク趣味に興じていたい。できるならそれだけ突き詰めていきたい。でもそうしたい理由もかっちょ悪いもんだ。なるべく他人との接触をとらずに現実から目をそむけていたい。他人との直接的な接触を避けて生きてくことなどできないだろうし、完全に排してしまうことにも恐怖が募る。少しくらいは接点を持っていたいとも思う。だけどあまりべたべたとは嫌だし長い時間を共にするのも避けたい。空気を保ちきれない。会話していなくちゃいけないというのはつらい。しないでいてもなんともないってこともあるのだろうが、信じられない。前にそんな状況を味わった気もするけれど一時的なもんだ。長いこと一緒にいたせいでそういう嫌悪感麻痺していただけじゃないかと思う。だって寝て起きたらまた気まずさに心痛める他者との接触になるのだから。一時的なことなのだ。常に一緒に居続けることによって思考と感覚が雑になっているだけなのだ。というかこんなことを書きたいわけではない。書いてる場合じゃない。どうすれば勉強に積極的に向かえるかということを模索したいのだ。ついネットをしてしまう。英語なんぞ見たくもない。数学の演習を解く気にもなれない。でもやっておかないと今週のテスト地獄に対応できない。でもつい「勉強なんていやいややるもんではない、きちんとした理由を見出してこそ打ち込むべきだ」と自らを正当化しようとしてしまう。そのせいでこんな下らん現実逃避文を書いてしまうのだ。非常によろしくない。勉強をしたくないがしなくてはいけない状況に追い込まれたとき、いつもこんな風にして悩み解決のためという名目で何の意味もなく読み返す気にもなれない文を書いてしまう。いつからこんな癖がついてしまったのか。文章を書くようになってましになっている部分なんてあるのだろうか。客観的に自分を見つめられるようになるとかいうがそりゃまた個人差があるだろう。そんな気はしていない。というか内に向かう気質がさらに育まれている気がしてならない。それはまだ数をこなせていないからなのだろうか。わからない。もっと自分のようなやつがたくさんいるとわかれば安心するのだろう。だがそれではただ安堵を得るだけ得て何もしない自分が再び現れてくるだけではないか。それではいかんのだ。せめて少しずつ進歩していきたいからこそこうして書いているのだ。だがこのままだとある程度の文量を打ち込んだらわずかな達成感を胸に対して勉強もしていないのに明日を迎えてしまいそうだ。だが実際いま自分の中には達成感に似た充足感がにじみ出つつある。これでよいのだろうか。そんなことは分からない。いやよくない。とにかく眼前には来年楽をするためにも今のうちに多く単位を取る、それ以上に確実に進級するためにもテストに備えて勉強をするという目標があるのだ。だがそんな刹那的な生活の中に身を置いたままでいいのだろうかという逃げに似た思いが、こんなタイミング邪魔をする。一見すると正しいように見えるから困るのだ。もしテストの重圧に囚われていないものが目を輝かせて言ったならああ若いなこいつとそこそこの評価をいただけるのだろうが今の自分が言えばテストがいやな学生ごまかしに過ぎないのだ。それだけ分かっていて勉強せずにこんなことしてるのはなぜだろう。わかってると言いつつ全然わかってないのだろうか。口先だけ、言葉の上では意味をなしているが頭の中ではどうにかして勉強せずにすませる方法があるのだと信じ切ってしまっているのだろうか。濁していうことでもない、確実にそう思っている。中学高校とそうしてギリギリで進学してきた。ほんとにギリギリだ。本気でやったら底知れない力でも眠ってるんじゃないかと思ってしまうほどだ。でもそれは視野がせまっくるしいだけだ。実のところはそこらにいる大多数の大学生とどっこいかそれ以下だろう。でも自分の中の玉座には俺はなかなかにすごいという傲慢さが座っている。どうしても降りようとしない。おそらく本気で取り組んで打ち負かされたことというのがないからだろう。その点ばかりは覆せまい。本気でやったことがある気がしてない。ないだろう。自分の評価が低すぎるだけで、もう充分本気で生きてるのかもしれない。まさかこの状態が、この適当にやり過ごして生きてると思ってる状態が俺の本気なのだろうか。まさか。そんなことは考えたくもない。だってそれなら適当愚痴りつつそこそこに生きてまた愚痴りながら死ぬだけじゃないのか。それで人並みに幸せを感じていられればいいけれど今の俺はだいぶ抑圧されている気がしてならない。我慢ばっかだ。耐えるとかじゃなくてしなくていい我慢ばかりしている。心底楽しいと思ったことがこの4年近くない。一切ない。わけでもないかもしれないが、少なくとも生きててよかったと思えるほどの体験はない。最高だと思えた一日はない。とてつもなく広く思えた世界は思い出の中にしかなく、最近の視界は脳の反映でしかない。これ以上の成長を望める気がしない。世界は16歳で完結したのではないか。これ以上新しさを感じることもないのではないか。もしかするとそういうすばらしく思えた何かとか世界とか視界だとかいうのは思い出の中にしかないものなのだろうか。そんな気もしてくる。ではそんなものに囚われているこの日常もまた思い出してみたら適当に美化されていくのだろうか、どうなのだろうか。そんなことはわからない。事故は変化する。していなくてもそう思いこめばそうなる。きっと未来自分はそう思い込む。そんなことはどうでもいいのだ。今の自分がすべきことは眼前のことだけだ。勉強。この言葉が重くのしかかってくる。して良かったという実感もないのにしろと言われてするものそれが勉強だ。あくまで自分の中でだが。楽しくて自主的にやってる人もいるんだろう。といいつつもそういう人間存在を信じてはいない。というかいないだろう。いてたまるか。少しでいいから純粋にそうやって勉強できる心を分けてくれ。一瞬でいいから代わってくれ。どういう幻想なんだ。教えてくれよ。とにかく俺はしたくない。したいと思う理由も、そういう方向に導いてくれる趣味も考えも俺は持っていない。他人の考えにひたすら感化されて生きてきた俺にそんな自主的な思いなど湧いたことがあるのだろうか。自分で分からないのだから問いかけても無駄だろう。それでも問いかけてしまうのはなぜだろう。知らん。とにもかくにも単位を落とすだの赤点を取るだのというのは俺にとっては脅威だ。そんなことをしてみろ。また後々苦労が増える。そうだ。こうしていやいやながらにも勉強を向かおうとしてしまうのは未来邪魔な要素だけは増やすまいという消極的な希望によるのだろう。願望だ。別に何か得たいわけではない。むしろ減らしたいのだ。余計な不安要素を排除しておき、せめて明日歩くであろう道を整備して歩きやすくしておこうという意思だ。願望でもないな。回避だ。余計なことをしないで済むようにという回避だ。いやどうだろう。もっと何か理由がある。することがないのだ。何をしていいか分からない。したいことなどない。楽しいと言えることは思いつかない。でも楽なことはしていたい。それがゆえに勉強という辛いものから目をそむけ、それよりは楽なことに逃げているのだ。楽しいことがあるならそのために頑張れるかもしれない。しかし俺は楽しいは知らず楽しか知らない。楽しいと楽では積極性が死ぬほど違う。楽しさとは何だったかももう分からない。めんどくさいこととの比較で楽なことを導きだす筋しか分からない。どうしようもないクズだ。楽しさを求める努力はわずかにしている。しているはずだ、だが見つからない。まだ探し足りないのだろうか。いや気づけていないだけか。どうなのか。存在していないのか。理解できていないのか。んなこと分からん。昔楽しかったゲームをやってみるが今はすぐ飽きる。すでに飽きている状態でちょっと気が向いたのでやったからだろうか。そもそも飽きていたという。そんなことは承知済みだ。大体のことに飽きている。つまらんのだ。楽しむ努力が足りないのか。そもそも楽しいってなんだ。わからん。迷走している気がする。いや迷走しているな。こうしてどんどん時間を消費していく。これは楽しいかもしれない。どうだろう。だが意味はない。目の前には見ることすら嫌気がする英文が書かれた教科書があるがどうするわけでもない。ただキーをたたくだけだ。もう嫌だぜ。治療法を知っている人がいるなら教えてほしい。もうわけが分からない。単純に考えてみようと思ったが長続きしない。自分で心に決め込もうとしたことは一日たてば一気に冷える。そんでどっかに消え失せる。どこに行くやら。思考の端に姿が見えるがもう触る気がしないのだ。自分の手あかがついてる考えなど使う気になれない。そもそも内にこもりすぎなんだろうか。もっと交流をすればいいのか?んなこたずっと前にも思ったさ。しばらく触れてはいなかったが。しかし会話だとかなんてのはそもそも体力をすこぶる消費する行為だ。好き好んでする奴が信じられない。もしかしてそっち側にはそれだけする価値のある楽しさがあるのだろうか。どうなのだろう。概観を教えてほしい。体感させていただきたい。できないだろうが。長いことしゃべくるだけで何が楽しい自分が理解されていく感じ?寂しさが少なからず緩和されてく感じ?楽しい感じ?わかんねーって。そんなに思考の探り合いが楽しいか。俺はつかれたよそんなもん。いっそのこと会話するときなんて頭がパーになってくれりゃいいんだ。めんどくさい考慮なんぞしないでいられればいいんだ。人を傷つけたところでいに関さない心でいいんだ。そもそも傷つけてるかな、とかわざわざ思考する必要がないんだ。んなこた誰にも分からない。それでも考えてしまうのはなぜか?そうするのが快感なのか?だとしたら俺は相当のマゾだ。自分を傷つけて喜ぶ自傷馬鹿とおんなじじゃないか。失言か。どうでもいい。そんな理解できないもんを考える必要などないだろう。といいつつもやっぱりなあ。こうしためんどくさい行為を経てでも会話せざるを得ないんだろう俺は。みんながそうして苦しんでるってんなら喜んで同調しつつ繰り返すだろうが、そうしてるかなんてのもわかりゃしない。どんなにあがいても俺一人でやってんだろって気持ちは抜けない。他人の存在を信じきれない。いないんじゃね。ばかばかしい。なら好き勝手に生きればいいんだ。そうできない時点で何かを信じている。でも惰性かもしれないぞ。仕方なく生きちゃってるのかもしれないぞ。だとしてもそんな流れを断ち切るこたできない。どうでもいいんだもの。こうしているうちにもどっかでセックスしてるやつがいるのだろうか。しねよ。失言か。謝らないよ。聞いてないし。あーテストとかどうでもよくなってこない。思い出すと焦燥感は現われる。解消したいのかどうにかして取り組みたいのか自分でも分からない。ただそうだなやりたくないな。手をつけたくないな。たるいな。めんどいな。どうにもならんな。勉強することで俺の心が疲弊して擦り切れていく気がする。やりたくないことをすると自分が擦り切れて死にたくなりそうな気がする。言い訳なんだろうか。でもそうなんだ。やりたくないことはしなくていいとか誰かいってたな。でも自分が強情だとそういう言葉でも脳みそはほぐれないんだよ。なんだかなあ。わからん。五感意識自分オンオフできたらよかろうに。そしたらどうやってオンするんだっての。しんでるじゃん。せいぜい寝ることしかできないか。あーだったらずっと眠っていたいよ。つくづくそういうときはこの世界自分妄想説を支持したくなるよ。他人がいないなら俺が何かする必要ないじゃん。俺の妄想なんだから。あーひとりでいるときはそういう説が頭を占めるけれど他人をいるとどうしてもそんな考えに基づいて生きてなどいられない。そりゃそうだ。他人といるときそれなら狂人だ。どうあっても他者を意識してしまうんだろう。ほんと困るぜ。常に正攻法で生きていきたいらしい俺は。いやなのに。自分が嫌だ。何ともうまくいかんもんだ。ここまででどれくらい書いたか見てみたがいい感じに気持ち悪い。いいゴミを書けた。やはり文量を出せると気持ちがいい。優越感がわき出てくる。こんな長文書けるやつはいないだろうなっていう優越感。すてき。ばかばかしいけどそう感じてしまうんだから仕方がない。取り繕っても満足はないし、んなこと書いたところで満足するでもない。でもできれば正直に書きたくもあったりでめんどくさい。葛藤こそ人間本質というがあんまりややこしいのはどうかと思うぜ。3手ぐらいでクリアできる葛藤であってもらいたいものだ。なんでもかんでも。しかしどこでこれやめたもんか。参った。もっと書いて画面を埋め尽くしたいけど何か目的が変わっちゃう。そもそもそうしたかったのだろうか。何でもいいからアウトプットしたかったのだろうか。しかし時間は過ぎるのでますます月曜日テスト不安になる。でも不安をそのままにするスキルを持っちゃってるのだ。当たって砕けてなお反省しないでいやいや生きるというスタイルが定着している。そんなのやめたいという葛藤もやらないとまずいという不安も手を着けずにいられる怠惰を知ってしまった。どうすればいいのだ。といいつつ何もしない姿勢をだ。これは仕方がない。このままでいこう。とあきらめられればいいのだがこの性格の特性上見かけ上の抗いはふつふつ出てきてしまう。実にややこしい。意志の力でも高めて頑張ってみる?(笑)知らんがな。もういいよ。諦めようぜ。でも惰性の慣性力は消えないんだよなあ。めっちゃだるいぜ。ああ、人間メモリ拡張外付けHDD接続できればいいのに。うわーどうにもなんねー飯食って寝るなこのままだと・・・

2009-01-28

泣きたくないのに涙が出ちゃう

男の子なのに。

頭の中ではブチ切れてて、怒りゲージがMAXなのに

何故かアウトプットは悲しみで、涙が出そうになる。

感情が昂ぶると何故か全部悲しみ回路を経由してしまうみたいで

ホントちょっとした事で泣きそうになる。

多分子供の頃にそんな処世術で渡ってきたツケなんだろうけど

とっても困る。

泣きながら反論しちゃうと、きちんと論理立てて話していても

相手が納得する前に「あ、はいはい悪かった悪かった」みたいな感じになっちゃって

結局不完全燃焼なまま終っちゃう。

なんとかなんねーかなー。

2009-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20090119183204

同じことはテレビでもラジオでも本にも言えるよね。

本読むのがいいとは言っても、ワンパターン自己啓発みたいなのばっかり読んでも

その場で気持ちよくなるだけであとには大したものは残らないし、

くだらないと言われるテレビだって勉強になる番組はあるし、インターネット

も然り。インプットの少ない人間アウトプットしても、有意義なものが作れるとも

思えないし。

2009-01-17

http://anond.hatelabo.jp/20090117152744

その君の言う経歴こそ、ベース学問なんだよ。

社会に出てそりゃ学ぶ側から学んでそれを加工してアウトプットして金に変えてくわけだから学生仕事人とは色々乖離するだろーよ。

んでも感覚だけで人を納得させて、それがビジネスにできるカリスマはほんの一握りであって、大抵は第三者がどうすれば納得するか必死に考えて、そのツールとして推計学の知識から信憑性と可能性を数字で示したりするんじゃね?

自分であれこれ工夫したやり方が実は●●学の●●理論だったとかであれば、その発明力を褒めてよいかもしれないけど、仕事の出来る出来ないとかプロダクティビティに長けたやり方が出来るって、やっぱ基本的な数学物理国語とかにその味噌があるんだと思う。

2009-01-14

http://anond.hatelabo.jp/20090114010845

海外で暮らした後にこれこれこういったモノをアウトプットしたい、という部分が全く見えてこないので

単に海外にあこがれてるだけの子供と同レベルに見える

何が何でも目的を達成したい!というわけではなくて、目的を達成したいという建前を必死にかき集めてはいるが、

建前上手段であるはずの海外生活がその実目的であるということが簡単に透けて見えるほどに薄っぺらい建前しか

用意できてないあたりに稚拙さを感じる

2009-01-13

使えない奴

“使えない奴”を足切りする為の面接テクニックについて(d:id:p_shirokuma:20090111:p1)

まあそういうことなのだろうと思うので、採用担当はどんどん実践していただきたい。面接官のやってることがほとんど精神分析みたいなことなので興味を持った、という感じでしょうか。

かしここで語られるテクニックは、恐らく素人にも感覚的にわかるようなことであって、要するに、こいつなんかきめえ、一緒に仕事したくない、というのは世間話してればわかるじゃないですか。それを分析的に書くとこうなる、という点においては非常に参考になります。

回答から透けて見える、その人の価値観や生活状況。外部へのアウトプットや他人とのコミュニケーションよりも、自己満足を重視するような価値観の持ち主であれば、それが透けて見えやすい。

 こういうのは、面接直前に付け焼き刃的に勉強しただけでは身に付きにくく、日常生活の態度・経験多寡・素養しだいという部分が大きい。これから面接を受けるという人は、小手先の面接テクニック本を買い求めるよりも、その前に、自分自身の日頃の生活やコミュニケーションの態度を省みたり、自分の弱点に詳しくなっておいたほうが、得るところが大きいのではないかと思う。

という結論にも首肯せざるを得ないが、つまるところ過去二十年間とかそこらで形成されてきた志望者の思考パターンに依る、ということですから、さあ就活だという段になっても手遅れである、という意味だと思います。

それでこの話は「“使えない奴”を足切りする」話なのだが、足切りされる側としてはどうしようもないし、最低限の身だしなみを除けば、テクニックなんかないよね、ということになる。なので妙なテクニック本で儲けてる著者とかどうかと思う次第だが

まして疑問に思うのが、どうして「“使えない奴”を減らそう」という方向には向かわないのか、何故かお医者さんがいまさらこんな事書いてる、ってどうなんだろう、というあたりですが、私は医学も人事も専門外です。

ともあれ専門外なりに考えますと、この場合の必殺の面接テクはまさに幼少からの思考パターンの形成にかかっている、ということで、採用担当はお呼びじゃないとして、お医者さんができることはなんかあるんじゃなかろうか。ないのか。

というのも、ここで言われる「使えない奴」は、常に社会に一定数存在しているわけです。これを多少なりとも減らそう(というか使える奴にしよう)という方向性が見られないのは、これはもう社会に何らかのレイシズムがあるということですよね。そういう人らは浄化されるべきだみたいな。

で、この「使えない奴」には、ぶっちゃけ適応障害の人とか相当数含まれると思うのですが、こういう人の存在がさほど珍しくもないという場合に、こうした足切りテクニックが広まることでどこにも行き場がなく、一生使えない奴の烙印を押されるか、望まずして派遣の立場に甘んずるを得ず、現実もまたその通りである、という社会の歪について、君たち法律がこうだからこうなのだ以外の思考はないのかね?というのはもはや誰に向かって言ってることなのか全くわかりませんが、思うことですね。まあ浄化作用なわけですね。わかります

さて自分新卒就活した時を思い出してもそうだったが、どこも判で押したようにこういう意味深な、というかよくわからん質問をされたもんです。で、このよくわからん質問というのも、結構ダブルバインド的だなーと感じたので、これマジになったら自分がやばいなと。こうして妙に賢者モードになったせいで、その後えらい苦労しましたが(笑)やっと入れた最初の会社が、そんな採用活動をやっておきながら、蓋を開けたら営業戦略も何もないどえらい場所で、まさに精神的に死にかかったという、それはさておき

はっきり言うなら、この手の質問を繰り出す面接官は、“あなたが何を頑張ったのか”には殆ど興味を抱いていない。

というのは面接する技術としてはありだし、よく言われることでもありますが、面接される側がこれをコマンドとして受け取ってしまうと、多分ダブルバインドくさいと思います。まあダブルバインド言いたかっただけですが、この場合、要求されるのは過剰な空気読みであって、志望者の心理に重大な負荷を与えます。あるいは鉄面皮みたいなのだけが生き残ります。つか空気読みと鉄面皮の組み合わせって何だ。

ということで皆さん、空気読みとか鉄面皮が欲しいのでしょうが、それで現場がうまく回るかと言うと、そんなこともなくてですね。新卒が三年で辞めると言われた時代がありましたが、そんな折になぜ人事部門がクビにならず存在し得たのかも、今となっては大いなる謎です。使える奴採ってこい、って言ってるのにですよ。それこそ社長の心眼に一存、とかの方が遥かに真っ当だし、それは経営者の義務とも思いますよ。なんか採用活動に金かけすぎじゃないですかねー。いったい誰に踊らされてるんですかー。

あと心理検査ですよ。科学的にどれだけ有効性があるんだかわかりませんが、学校でも対策授業やってたり、今にして思うとアホかと。聞けば現在でもクレペリンやらその亜種が横行しているようで、これについてお医者さんとしてどう思われるのか、というのも大いに気になるところです。

あとネタモトであるところの「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された、というのは、面接官の微妙な反応(一種の圧迫だろう)に負けず、鉄面皮にも「何がすごいのか」を滔々と説明できればよかっただけだと思われます。すると、これのどこが意味深なんだろう。あれ??

敗因としてはただ一点、そこで自分を恥じたことだけだと思います。大丈夫大丈夫全然オッケー。

http://anond.hatelabo.jp/20090113110902

経験無しで知識をそのままアウトプットに活かすには、相当な思考力が必要だからね。

100人いたら少なくとも98人はできないと思う。

2009-01-09

http://anond.hatelabo.jp/20090109112033

鬱病に対する認識が本人も間違ってるね

明確な原因のあるようなのは鬱病とは言わない。それが引き金になる場合はあっても。

本当の鬱はその原因が解消しても完治しない。

2年も病院に通っていているとのことだが、こういう病気の本人の言葉はあてにならない。

担当医師に確認してみないと何とも言えない。

普通は2年も投薬治療を受けていれば改善の兆しがあるはず。

失恋系でこういう感じになってしまう人間は結構居ると思うが、

そういうタイプはもともと鬱病とは関係なく人格障害を抱えていたというケースがある。自己愛性、境界性などだ。

ネット界隈で見かけるメンヘラという言葉に該当するタイプ

こういう他人にアウトプットして構って欲しい的なオーラを出すタイプの鬱はろくな事がない。

ネットから断ち切って(このタイプの鬱に良くないとされる)実家カウンセリング等を受けながら治療しないと完治しないよ。

2009-01-07

http://anond.hatelabo.jp/20090107225955

おまえ、アウトプット病におちいってね?

ここ半年どこからかしらんが「アウトプット」「アウトプット」って

変なライフハック流行ってるが、あまりアウトプットが進むと精神崩壊するぞ。

ちなみに俺的には

「あー、サイバーえーじぇんとさんの誰かに(後省略)」

解釈

人間の神仕事

人間としては糞だけど、上げてくる仕事が神クオリティって奴が同僚にいる。

糞っていうのは、コミュニケーションスキル幼児レベルだということ。

自分の機嫌の良し悪しで、業務上の問い合わせに対する回答の仕方まで変わるみたいな、そういう感じ。

俺としては、

・個人事業でもない限りコミュニケーション仕事の一部なんだし、その仕事で食ってるんだから、きちんと成熟した大人としてのコミュニケーションをしろよ。それができないんなら辞めろよ。保育園からやり直せよ。人と関わるってことをどう考えてんだ、このブタ

というのと、

・いや、なんだかんだでお前はすげーわ。お前が人間として糞であるということは微塵も動かない事実だけど、このアウトプットクオリティは認めざるを得ない、よく練られてる、よく考えられてる。穴がない。すげーわ!

というのの、二つの立場が背反しあってて、なんだかよく分からない。

多分、結構、尊敬してる。

多分、結構、軽蔑してる。

2008-12-31

http://anond.hatelabo.jp/20081231121937

アウトプットへの焦燥感なんてもうネットにはないよ。

昔の方が「毎日更新しなければならない」みたいな決まりごとがあったせいでノイズに溢れていたよ。

今はそんな圧力ないからみんな書きたいときに書いてるだけだよ。

あなたのネットへのアウトプットノイズかも知れない

正直申し上げて、昨今のネットへのアウトプットに対する焦燥感は、ネット業界からの煽りに世間が乗せられているだけのような気がする。

人間の行動パターンとして、自分への利益にならないことは最終的にはやらない/やらなくなるというのがあるが、ネットへのアウトプットというのは、「書くことによるカタルシス」「書いたものが一定以上の人数に読まれることによる自己顕示欲」「書いたものに対する一定の反応に対する自己満足」以上のものではない。人類に対する微々たる貢献、という希望的観測もあるだろうが、ネット外のリアルで有名になれるくらいの人間が書いたものでなければ、それはほとんど無意味ノイズに近いと思われる。現時点の広大なネット空間のつまらなさというのは、そこから来ていると思う。

何をアウトプットするのか、何をアウトプットできるのか、というのは、人間が生きていく上での重要モチベーションであることは否定しない。しかし、それをネットアウトプットするということは、もしそのアウトプットが本当に重要なものなら、ほとんどボランティアであると思うし、ノイズに近いものなら、ただの趣味自己発散ということになろう。

僕が違和感を感じるのは、本当に重要情報を持っている人であっても、それを無償に近い形でネットに提供すべきである、そうすることが善である、という風潮だ。本当に重要情報ならば、それは有償で提供されてもいいはずだ。

ネット屋というのはコンテンツを持たなければならないわけで、今やコンテンツは無償で提供されるのが当たり前のご時世だ。ネット屋が自前で無償のコンテンツを提供していたら潰れるわけで、そこはユーザーさんを煽って面白いコンテンツコンスタントに無償で提供して貰う必要があるわけだ。その無償のコンテンツというのは99%が自己満足ノイズ的な内容だが、残り1%の充実したコンテンツを獲得できれば、ネット屋さんは満足できる収益を上げられる(かも知れない)。そのために、ネット屋さんは全ネットユーザを煽るわけだ。「あなたが生きている証をネットに示してください!」

しかし、それは少し前の自費出版ブームのような胡散臭さを感じる。「ほら、あなたは自己表現の出来る、普通の人よりも優れた人間なんですよ」と言って人間自己顕示欲を刺激し、自費出版させて儲けるスキームに近い。同じように、自己顕示欲を刺激して無償でものを書かせ、そのコンテンツに乗っかって収益を上げようとしているわけだから。

誰もが自分アウトプット社会的な意義があるという幻想を持たされているが、もう一度良く考えるべきだと思う。日記コンテンツはほとんどがただのノイズである。「なぜ自分が貴重な時間をかけて無償でコンテンツを作成しているのか」を問い直し、過剰な「アウトプット=善」的な考え方を見直すべき。

まあ、そういうノイズなんだけどね、この駄文も。

2008-12-29

anond:20081229111641

んー…個人的には逆に

アウトプットしやすいものしかインプットしてない」

って人が多いような。

流動食な情報収集ばっかだと噛み砕く力失うよ?

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