はてなキーワード: 大塚とは
生あずまん見てきたよ。
講義にもぐった理由
・ネット☆スター見て興味を持ったから
・著作読んだら、えらく面白かったから
読んだ本
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
ホントは先週行こうと思ってたんだけど、腰が引けてた。
んで、行かないで家でぼやーっといつもどおりネットしてたら、はてなでなんかもめてた。
↓こんな感じで
東浩紀問題、または歴史修正主義問題について(開かれた学問・知識について:前編)
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20081213/1229172460
ああ、こりゃ早めに行っとかないとモグリ禁止もありうるなということで今日行ってきた。
講義に出ていろいろと思ったこと・感じたこと
1.
教室が小さい
講義に出る前は、てっきり大教室でやってるもんだと思ってた。
テレビに出てるくらいだし、そこそこ名前が売れてる批評家なので。
ところがどっこい、かなり小さい(と言ってしまうと失礼に当たるのかもしれませんが)教室です。
ふいんき(ryも、講義する人と学生の間に「関係」があるのを感じさせるアットホームな感じです。
簡単に言ってしまえば、人数多めのゼミみたいな感じ。
なので
次は、トラメガを持って東工大に行きます。
こんなこと書かれたら非常に迷惑だし、普通は怒るだろうなと。
確かに大学は開かれている「べき」だけど、mustではない。
時と場合によるし、あの「規模」だと開かれていなくてもしょうがないかなと。
歴史云々について
授業の前半30分くらい使って説明してた。
別に難しいことは言ってない。(以下はワタクシの解釈)
自分が体験したわけではない「歴史」というものは、物語でしかない。
その物語の「強度」によって人は「真実」であるとか「捏造」であるとか判断する。
常に更新可能であるし、閲覧した時点での記述が閲覧者にとっての「真実」となる。
また、「ソースがwikipedia(笑)」って感覚は「ソースが歴史学者(笑)」に通じるべきだ。
少なくともポストモダンな人は。
ってあずまんは考えてるんじゃないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
南京大虐殺論争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E8%AB%96%E4%BA%89
id:toledって人は、wikipediaで言うところの「ノート」で議論して、
らちがあかないから「みんなで編集合戦しようぜwwww」って言った様なものなのかな。
以下は生あずまんを見た後の、著作その他にかんする感想。
2.
http://watashinim.exblog.jp/8879908/
大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
あずまんはポストモダンの「判断の不可能性」についてわりと謙虚な立場。
それは『波状言論S改』にもよく現れている。
ただ、それは「批評家」としてはどうなのかなーってのは確かに思う。
まぁ、「ずるい」と言われてしまってもしょうがないかなと。
(ただ、「ずるい」と言ってしまえる人ばかりだとまずいので「逆張り」している可能性もある)
宮台氏とか大塚氏は「イエネェっつっても世の中良くするためには何か言わなきゃ」な人たち。
東氏は「なぜか」そこには触れたがらない人。
(『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』の序章で「生と実存の問題には触れていない」とはっきり書いてある。触れろよ!)
東 この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、
それはやめたほうがよろしいんじゃないかと……。
大塚「なんで自分の人格(判断)を晒さないの?馬鹿なの?死ぬの?」
あずまん「それは人格攻撃じゃ・・・」
んー、たぶん、「政治学」が好きじゃない?から言わないのかなぁと。
3.
あずまんって、『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』で明言している通り、
「政治学」に興味ないから(「僕は政治がわからない」発言より)あんまり「政治学上の定義」とかにこだわってない。
だからたまーに何言いたいのかわからなくなる。
「政治」っつっても、ウェーバーの「政治」とアリストテレスの「政治」とぜんぜん違う。
ロバート・ダール
の『現代政治分析』(岩波書店, 1999年)第1章「政治とは何か」とか読んでみればいいのにーって思う。
あずまんが言うところの「共感」とか「正義」って、ダールの言うところの「規範」かな。
デモクラシーって経験主義的に「正義(善)」とされてるから、そこは政治学では脱構築?しなくていいんだよね。
そこさえ乗り越えちゃえば、宮台氏みたいな「行動」をすることができるんじゃないかなぁ。
コントロール(支配力)control,影響力influence,権力power,権威authorityをかなりな程度含む人間関係の持続的なパターン
4.
さいごに
あずまんは笑顔がかわいい人でした。
男に好かれるのは判る気がする。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1199536.html
最近の邪気眼の傾向は学園異能バトルだけれど、そういう条件だからこそナヨ型主人公が成立するわけで、三十代や四十代のおっさんが主人公を取って頑張るシチュエーションはどこにもない。別に学園物でなくてもいいのだけれど、主人公側の成長と覚醒要素が入り込む能力バトル物に三十おっさんの出る幕がどこにあるんだろうか。子供が主人公を取れる理由は成長と覚醒要素があるからなわけであって、成長と覚醒要素もないお話に十代の主人公なんぞ出す必要はないじゃないか。そんなに三十代や四十代の男達が頑張る話を望むならば、今から戦場の兵士や任務遂行型の話を買いに走ればいいだろうに。何が不満なんだろうか。
少なくとも、FFに大塚ボイスのような主人公のキャラグラと設定を登場させるならば別物の戦闘システムになるはず。キャラグラや設定は話に合わせて使うから真価を発揮しているのであって、例えば異能バトル物の訓練シーンがアメリカソルジャーのような嫌にリアルに傾いている内容だったら邪気眼特有の面白さはなくなってしまう。ナヨ型主人公とゴツ型主人公は状況によって使い分けるようなもんだろう。キモヲタが主人公を取るとどこかシュールになってしまうのも同じような宿命だ。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。
http://ootsuka.livedoor.biz/archives/51688360.html
デサフィナードといっても、何か分からないと思うので、過去の関連エントリーをリンクするよ。
→はてブhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/911139.html
→はてブhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50753736.html
→はてブhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.j-cast.com/2007/02/03005314.html
→はてブhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20070205/1170614325
控訴審の判決文は、一番上に書いた大塚氏のブログのエントリー中に、裁判所の判決文のpdfがリンクしてあるよ。
ピアノの撤去は認められたんだから、上記の痛いニュースをブクマしたブックマーカーは、控訴審判決も「これはひどい」とタグを早く付けないと!!!
via アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
まあ、どのくらいの数のNHKアニオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないNHKアニメの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、NHKアニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にNHKアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う4期、10分×14年のアニメは避けたい。
できれば2クール、長くても70話にとどめたい。
あと、いくらNHKアニメ的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
朝ドラ好きが『おはなはん』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
NHK知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、さわやか3組程度は見ていた
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「CCさくら以前」を濃縮しきっていて、「CCさくら以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも70話だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなNHKアニメ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「NHKアニオタとしてはこの二つは“コメディ”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のファンタジーアニメオタが持ってる古代中国への憧憬と、小野不由美のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも小野不由美な
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「攻殻機動隊だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、
ハリウッドなら3D実写映画になって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
NHKでこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりアニメは少年少女のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「無人惑星サヴァイヴ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける伊藤和典の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも2部構成、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
前半・田菜編を俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
押井や富野だったらきっちり横浜編だけにしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて田菜編を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ伊藤がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でナディア見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
エヴァよりも前の段階で、庵野の哲学とかアニメ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がテレビアニメでこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくアニメ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるエヴァンゲリオンでしか庵野を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
佐藤の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない学校祭を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『学園アリス』最終話は追試以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はムリョウにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうギャルゲー風味の育成をこういうかたちでアニメ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にNHKを選んだ。
CCさくらから始まってNHKで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のひきこもり時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで回らないんです。
で、垂れ幕下げて、症例によって順番が前後します、とか書いておきました。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、GW後が混むからって普段来てない緊急に来てんじゃねーよ、ボケが。
緊急だよ?緊急。
なんか親子連れとかもいるし。子供元気に走り回って緊急か。おめでてーな。
よーしパパ救急車で出直しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、ロキソニンとクラビット1Tやるからその席空けろと。
緊急ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
診察室の扉越しにいつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。感冒は、すっこんでろ。
で、やっと落ち着いたかと思ったら、重度外傷到着、とか言ってくるんです。
そこで待合いまたぶち切れですよ。
あのな、待合いのおまえら多分朝まで待ってもらうから。取りあえず点滴なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、点滴一本、だ。
お前は本当に点滴を食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、針刺したいたいだけちゃうんかと。
点滴通の俺から言わせてもらえば今、点滴通の間での最新流行はやっぱり、
500mlってのは多めに入ってる。そん代わり料金が高め。これ。
で、無添加。これ最強。
ヤバいネタ満載ってんで評判の、葵せきな『生徒会の一存』読んだ。
自分で感想書く気力まで吸い取られるぐらいゲンナリ。
なんで以下は引用。
話は飛ぶけど、この10年ぐらいぼくは若い子の書くものに妙に伏せ字が多いのが気になっていた。同人誌とかファンレターの類とか「某」とか「××」といった言い回しが盛んに登場するのだ。伏せ字にされるのはまんが家の名前や企業名・商品名なのだけど彼らは固有の名詞をまるでそうしなくてはならないと思っている節さえある。
問題なのはそのタブーの「プチさ加減」で、しかも変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、このプチ・タブーを自作する側にある種の積極性を感じうるのだ。何かちまちました「禁忌」を必死でこらえているというか。
その共同体が一つの世界としてもっと閉じるために今やプチ禁忌を自作自演しているのではなかろうか。共同体って禁忌があって始めて成り立つものであり、そう考えると若い子の文章の伏せ字好きも、禁忌が存在すると信じることでプチ共同体を求めていたのか君たちは、と納得がいく。
以上、大塚英志の「プチプチプチ・・・プチ禁忌」(『戦後民主主義のリハビリテーション』)から
親会社同じところのレーベルまで伏せ字にしようとする――上に肝心のネタもヌルい――小説のどこがヤバイの?
「気がついた! どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかしら! アニキが気に入らないんだったら自分で作ればいいのよ!」
「何を」
とか
「こんちわー! コンプ編のみなさーん! 連載作家一式、いただきに来ましたー!」
ぐらいやってくれ
追記。
<Live door>
塩野誠 慶應義塾大学法学部 シティバンク→ゴールドマンサックス証券→Live door
熊谷史人 横浜市立大学商学部 みらい証券→Live door
<弁護士>
猪木俊宏 慶應義塾大学法学部 Live door側弁護士→辞任
桂木明夫 東京大学法学部 Lehman Brothers在日代表
鹿内宏明 東京大学法学部 日本興行銀行→フジサンケイグループ議長→追放
1 NTTドコモ (9437) 119428.40 東京大学工学部卒(立川敬二)
2 トヨタ (7203) 101260.43 東京大学法学部卒(張富士夫)
3 NTT (9432) 68894.70 京都大学経済学部卒(和田紀夫)
4 武田薬品 (4502) 40906.53 早稲田大学政治経済学部卒(長谷川閑史)
5 ソニー (6758) 40720.05 東京大学経済学部卒(安藤国威)
6 ホンダ (7267) 40438.19 早稲田大学理工学部卒(福井威夫)
7 キヤノン (7751) 37890.83 中央大学法学部卒(御手洗富士夫)
8 日産自 (7201) 36997.15 仏理工学校鉱業学校卒(カルロス・ゴーン)
9 東電 (9501) 31386.53 東京大学経済学部卒(勝俣恒久)
10 三菱東京FG (8306) 29887.1 東京大学法学部卒(三木繁光)
11 セブンイレブ (8183) 26908.50 東北大学法学部卒(工藤健)
12 松下 (6752) 26119.34 大阪大学経済学部卒(中村邦夫)
13 野村 (8604) 25930.48 東京大学法学部卒(古賀信行)
14 JR東日本 (9020) 20840.00 東京大学法学部卒(大塚陸毅)
15 富士写 (4901) 19298.46 東京大学経済学部卒(古森重隆)
16 関西電 (9503) 17761.79 京都大学工学部卒(藤洋作)
17 信越化 (4063) 16353.22 東京大学法学部卒(金川千尋)
18 JR東海 (9022) 16217.60 東京大学法学部卒(葛西敬之)
19 デンソー (6902) 16098.89 名古屋大学経済学部卒(岡部弘)
20 中部電 (9502) 16026.64 早稲田大学商学部卒(川口文夫)
順位 大学学部名 人数
2. 東大 法 87
3. 慶應 法 86
4. 慶應 商 57
5. 早稲田 理工 43
8. 早稲田 商 37
9. 東大 工 35
11. 慶應 理工 27
特集によって読者層が違うのではないかと推定される。セックス特集と、半年に一度の占い特集はよく売れる。
木村拓哉が抱かれたい男ランキング12連覇をしたところから考えて、メイン読者は10年前から変わってないのではないかとも感じる。
20代OLとかが読む雑誌。たまに就活におけるマナーとかファッションとかも載ってるので、大学3、4回生くらいも取り込んでいるのかも。
結婚かセックスかPMSの記事は毎号ある。割とそこらへんの読者の声が生々しい。
ギャル寄りお姉系。巻き髪がっつり。ゆるふわとか、ブランドとかの単語多し。エビちゃんとか押切もえとかが目標。
知り合いの男性(22)は、グラビア誌代わりに毎月買ってるって言ってた。確かに露出度も高いしモデル美人だしな。
正式な表記は「nonno」。ハイティーンが対象。女子大学生や、高校生が読む。割と男性受の良さを意識したファッション特集とか組むんじゃないかな。
「絶対役立つ!チープコスメ」みたいな特集も多く、コスト意識の高い人も取り込めるようになってる。主流の流行はぜったいおさえる。
個性派ファッション。安野モヨコや、矢沢あいのような漫画家がオサレな漫画を連載するスペースが確保されている。
このあたりの年齢層以下から雑誌に平仮名カタカナが増えてくる。得意な言葉は「安カワ服/やすカワ小物(やすくてカワイイ服・小物の略)」
正式表記「nicola」。ローティーン対象。女子小中学生向け。誌面の配色が目に痛い。広告に、カラーペンとかキティ文房具とかが載ってる。
可愛い制服の高校特集とかが組まれてる。あと手紙の可愛い折り方とか可愛いメールの打ち方とか。巻末の方には生理用品の使い方。
こちらもニコラと同年齢層対象。女子中学生向けとうたっている雑誌は、よく中学生に憧れる女子小学生が好む気がする。
これも誌面の配色が目に痛い。これら女子小中学生向け雑誌は、読者モデルがその他の雑誌よりも多く登場する印象。
正式表記「KERA!」。ゴシックやロリータ、パンク風ファッションがメイン。ビジュアル系バンドのインタビューとか載ってる。
ゴスロリメイクとか、浴衣をゴシック風に手作りでリメイクとか、涙を誘うようなちんまりした工夫をするための特集が多い。
聞いたことない。Layは見たことあるかも。外人とか表紙になってるやつだったか。
どんだけ読んでるんすか。疲れたわ。ていうかニコラとKERA!とJJって貴女、相容れないじゃないですか。
そりゃ知識でしかなくなるわ。きっと女性誌以外にもたくさん雑誌を読む人だ。
でもこれだけ読んでたら楽しそうだなー。たとえば着る服の参考にするのはどれ?めっちゃ聞いてみたい。
會川昇 浅羽通明 東浩紀 庵野秀明 石@森プロVS宝島問題 石@森プロVSマンガ夜話問題 伊集院光 エヴァ現象 大塚英志 大塚VS岡田問題 大月隆寛 大月アニメ 岡田斗司夫 落合信彦
加藤典洋 ギャルゲー 切通理作 桑島法子 呉智英 小林治 小林よしのり 小林よしのりVS宅八郎 小森まなみ 小谷野敦(つづき)
サイコ版権引き上げ騒動 齋藤環 桜井亜美 白倉由美 白倉VS桑島問題 セカイ系
大地丙太郎 田中芳樹 富野由悠季 富野伝説 永井豪VSマンガ夜話事件 永江朗 波乗り! アニメジャーナル
ブンガク 宮崎哲弥 宮崎駿 宮台真司 村上春樹 福田和也 藤岡信勝 安彦良和 SFである・ない論争 TVゲーム
そんなときには大塚図ですよ!
大塚図は、恋愛感情を「愛情」「友情」「欲情」の三つの感情に分けてみようという試みです。これらの組み合わせで恋愛感情を以下のような7つの状態に分けています。恋愛で不安を感じたときは、大塚図を思い出してみてはいかがでしょうか。
大塚図について他の方が言及している場面あまりみかけないのですが、これってあんまり有用じゃないのかな? 非常に役立つと思うんだけどなー。
取り上げている題材、着眼点が面白い本なのは確かなのだけれど、第二部においてメタフィクション論を展開するにあたって、既存の批評理論をほとんど参照していないのが気になってしょうがない。『ファウスト』に掲載された上遠野浩平論で佐藤俊樹がドイツ・ロマン主義文学を東の議論に接続していたはずだし、東のひとつのホームグラウンドであるSFにおいても、平行世界論や可能世界論については繊細な議論が行われてきたのではなかったのか。新しい概念を創造するのが哲学者の仕事なのだ、と東はどこかで発言していたように思うが、既存の理論との格闘がないままにいきなり概念が提出されるのは、どうにも知的緊張感を欠いているように感じられてしまう(その意味で、第一部の大塚、新城、稲葉らの緒論との接合までは面白いのだけれど)。また東の昔の発言を参照するが、東は「アカデミズム/ジャーナリズム」という対比を日本の論壇を分析する際に言説に持ち込んでいて、その中間で仕事をすることが大切だ、と以前どこかで述べていた。その対比をそのまま用いるとするなら、ちょっと今の東は「ジャーナリズム」に近寄りすぎてはいないか。在野の一ファンとしてはちょっと残念だ。とはいえ、我ながら無責任な期待だと思うので、こうして匿名ダイアリーに書いておく。お目汚し失礼。
JASRAC以外の権利団体が育たんことにはよくないなと思っているのでe-Licenseの成長に期待している。
http://tail.s68.xrea.com/blog/2007/02/jasrac_1.html
これを読んでね、あー e-Licenseかーーと、
でも、どんなアーティストが登録しているのかいまいちわからんので検索してみた。
https://ssl.elicense.co.jp/piece/retrieval/
ここからアーティスト一覧検索。
知ってる人がいねぇ…。
上戸 彩
MCU feat. 宮沢 和史
大塚 愛 (3曲だけ
大槻 ケンヂ (やっぱり移動したのかw 3曲だけ
クレイジーケンバンド( 1曲だけ
倖田 來未 (8曲だけか
齊藤 義典
中森 明菜
猫ひろし (・・・歌?
ぴちょんくん (?
みうらじゅん & 安齊肇 (勝手に観光協会とは別に登録されているのか
山田 タマル
渡瀬 マキ
有名どころだとこんなもんか。今のシーンでも影響を与えそうなアーティストについては登録楽曲についても調べてみたけど数は登録されてないね。
なんか何人か苗字と名前の間に全角スペースがあるかないかで分かれてたりして気になった。