はてなキーワード: シンキングとは
面白かったッス。
資料まとめただけとか、主張がないとかいう批評が多いけど、おまいらどこに目をつけとるのかと。
著者は、中田英寿の「引退と旅立ち」から筆をたて、「あいのり」「須藤元気」「イラクの人質事件」といったアイコンから「現代特有の自分探し」の様相をつまびらかにする。
そして、自分探しのルーツをさまざまな資料をもちいて探し当て、現代にいたるまでの自分探しの変容を記していき、こうした自分探しが生まれた原因と、それを食いものにする産業構造を告発する。
労作だと思う。
ここまで資料と史料を駆使して、「自分探し」に切り込んだ本はなかった。
なぜ自分探しはとまらないのか。
それは、著者自身がふれているように、また大澤真幸の「不可能性の時代」でも指摘されているように、近代において「個性」であるとか「自己実現」「かけがえのない自分」といったものが異様なまでに称揚されてきたことにあると思う。
普通であることは凡庸とみなされ、多くの人が「何かになるよう」に「強要され」たえざる不安の中で生きることになった。
政治・財界、マスコミ、多くのリソースがそそぎこまれ「不安な個人」を形づくった。
そうした「不安な個人」はちょっとつつけばすぐに「自分探しという病」にからめとられる。
「自己啓発セミナー」や「我求館の杉村太郎」、「ワタミグループの労働スタイル」など、それぞれに自覚があるかないかはともかく、「不安な自己」をくじいて、過剰なポジティブシンキングで「どこかにいる自分」を目指して走らせるというスタンスは「自分さがし業者」に共通する。
この手法の始祖をニューエージやニューソートに求めた著者の指摘は概ねただしいだろう。
そう考えると、「自分探し」は近代の先進国に共通する宿痾といえるのかもしれない。
では、自分探しは悪なのか。
著者にはこうした自分探しにはまる若者を嘲笑するスタンスが見え隠れする。
私もそうだ。
でもちょっぴり羨ましかったりする。なんだか楽しそうだしね。あのテンションの高い人生は。
けど、「自分探しが悪」とは言い切れないと思う。
「自分探し」と「よりよく生きるための努力」は紙一重だからだ。
ただ、化粧やダイエットからはじめればいいのに、いきなり美容整形に手を出すような「自分探し」は危険だと思っている。
とりわけ悪徳業者にその「自分探しによる生きがい」をいいように利用されているな事態は問題だと思う。
手段である「自分探し」が目的化したとき、「自分探し」は病に転化するのだ。
著者はこうした自分探しへの処方箋として「前向きに生きること」なんてのを掲げている。
ちょっとそりゃないだろうって気がする。
多分「自分探し」のカーネルがなんだかを探求しつくせずに、自分探しの様相を総覧的にまとめあげ、そのルーツをニューエイジとかに局所化しすぎたからそんなしょぼい結論しかでてこなかったんじゃないかと思う。
アクセル全開に人生を突っ走り「無限遠の彼方にいる自分」を探すのでもなく、「そのままの君でいい」なんて甘言にのせられて「そのままの自分」を探しだすのでもない、「宙づりの自分」に我慢できる第三の道が、自分探しにからめとられない生き方のヒントだと思う。
それってなんだよ。
具体的にいえよといわれても、私も思索の途中です。
すいません。一生答えなんて出ない気もしますが。
けど、「闇金ウシジマくん」の<サラリーマンくん編>の主人公、医療営業の小堀が全てを失ったあとに達した境地がヒントになるような気がするんだけどね。
(あれって「小さな成熟(苦笑)」?・・・)
現実的に差別はどんな場所にもあるし、それとしらないで差別していることもよくある。
これは色々な理由があるにせよ仕方が無いとしか言えない。
だから、差別はあるものと考え、むしろ自分が置かれた環境でポジティブシンキングし
どうすれば自分がよい方向に持っていけるのかを考えたほうが良いと思う。
たとえば女性向けの商品を多く手がけている会社に入るとか、女性にかかわる政策を企画する部署に入るとか
ただまあ、いままでは認識できなかったのかもしれないが、どんな所にも差別されている人もいるという認識は持ってた方が良いし
嗅覚は鋭くしておくにこしたことはない。ただ、それを言う必要もないけれど。
かれこれ5年以上、恋人同士といえるような付き合いをしていない。
といっても、非モテではない(と、自分では思っている)。
別に女の子にコンプレックスがあるわけでもないし、容姿も特に問題があるわけでもないし。
あと、同性愛者というわけでもない。
時には女の子の愛情が欲しくなるときもあるし、ムラムラしてくればセックスしたいこともある。
でもね、面倒くさいのよ。
付き合いだすと、ほとんどの女の子は「恋人らしい振る舞い」を要求してくる。
一緒に歩くときに手を繋ぐとか、休みの日は人ごみにデートしにいくとか。
あと毎日電話したいって子もいたな。
でも実際のところ、毎日電話してきても、そんな刺激的な日常でも送ってない限り、話す内容なんてすぐ無くなるよなあ。
その子は「声が聞ければそれでいい」って言ってたけど。
こういう子たちはあれだ。手を繋ぐ、デートするって行為を通じて
「私はこの人と付き合ってる」って確認したいんだろうな。
相手の温もりが欲しいのも、もちろんあるんだろうけど、それ以上に「恋人同士は手を繋ぐもの」という認識が先に立つというか。
別に手を繋がない、ベタベタしないカップルがいたっていいじゃんか、と思うんだがなあ。
休日は家でゴロゴロして、ニコ動見たりして充実している人がいても、決して「リア充」って呼ばないよな。
リア充っていうのはつまり「『リアルで充実してる人がしそうなこと』をする人」のことであって。
本質的にはトートロジーに近いものがあるのだが。
ちょっと古い話だが、はてな界隈で「要は、勇気がないんでしょ?」でエントリが流行ったとき
エントリ主のことを「ポジティブ教信者」とする向きが多勢だったことを思い出す。
でもそれって、ちょっとニュアンスが違うんじゃないかと。
男はよく「出会いがないから」「忙しいから」って言い方をするけど、多くの場合、それはブラフなのですよ。
本人が自覚しているかいないかの違いはあれど、根底ではおおよそ「付き合うなんて面倒くさい」と思っているはず。
面倒くさいけど、それを口に出すのは憚れるから、言い訳を探すわけであって。
そうなると「とにかく一歩踏み出してやってみよう」というポジティブシンキングも、つまりは自分のケツを蹴り上げる方便になる。
本当のところ「勇気がないから」では決してない。
つまり、だ。
相手のことを純粋に好きという意欲よりも、その関係を維持する手間的コストの方が高いので
付き合うという行為を「面倒くさい」と感じてしまうのだろう。
もっとゆるやかに付き合えるような相手が見つかれば、少しは考え方も変わるかもしれない。
こう考えているのって、決して俺だけじゃないはず・・・だよな?
http://anond.hatelabo.jp/20080316210124
どんなものでも反応をもらえるのは、やっぱりうれしい。
読み返してみると、たしかに省略が多いかもしれないと思う。
かといって、続きを書く気力はないのだ。
続きに関しては、ちゃんとした書籍に任せたいと思う。
2冊挙げたので、興味の湧いた方はどうぞ。
・[新版] MBAクリティカル・シンキング/グロービス・マネジメント・インスティチュート
といったことへの理解も深まる。ハードカバーで値が張るのが玉に傷。
・創造の方法学/高根 正昭
社会科学の研究方法の、ごくごく基礎的な考え方を知るためにもいい。
すごく分かりやすいし、すぐ読める。そして安い。
けど、余談ながら、この本を読んでも「創造力」は身につかない。
タイトルがこんななのは、たぶん、この本が書かれた頃の日本では、
新しいものを一から作り出す「創造力」がない、
なんて議論が盛んだったせい。
要するにこの本のタイトルは売り込み過剰だってこと。
今となってはタイトルで損してる、掘り出しものな一冊なのだ。
テレビを見ようとしても、リモコンがなくなっているかもしれない
リモコンを見つけても、電池が切れているかもしれない
電池を買いにでかけたら、間違って単三電池を買ってきてしまうかもしれない
帰ってきたころには、見たい番組が終わっているかもしれない
次の日、友達の会話についていけないかもしれない
いつの間にか友達との距離が開いていくかもしれない
一人になった自分を、突然宇宙人が襲ってくるかもしれない
逃げようとして、転んでひざをすりむくかもしれない
痛い、痛いと泣いてすごすことになるかもしれない
そんなときに限って、家には誰もいないかもしれない
ここぞとばかりに冷凍庫の奥に隠してあったアイスを食べようとしたところ
ちょうど帰ってきた姉に見つかり、アイスを半分分けるはめになるかもしれない
ああ、ネガティブだ。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
これは同意。自己改革セミナーに踊らされたやつって、ポジティブというキーワードに酔って何も考えていなかったんだろ。
だけど俺としては最近はポジティブシンキングですら叩く病的なやつらの方が目について仕方ない。「頑張れば良くなる」という記事にやたら噛みつくが、実際には「頑張らないと決して良くならない」という現実から目を背けたいだけじゃないかと。汗を流す事を嫌って何かにしがみつく点で自己改革セミナーに踊らされたやつと変わらない。
何か悲痛に見えるんだよな。
いみじくも赤の女王が言ったように今の日本は「その場に止まりつづけたいなら全力で走るしかない」のさ。一生競争にさらされるし、一生努力と勉強が必要だぜ。早く受け入れろよ。
たしかにネガティブシンキングではないが、ネガティブから一周してポジティブになってる感じがするな。
デフォルトだとネガティブになってしまうので、そのネガティブを振り払うために強気になる。
本当に自信があるわけじゃないと思う。
自分を信じないと生きていけないんだろう、あのタイプは。
ちょいずれるが、ポジティブ教を批判しているid:y_arimやid:hokusyuがネガティブ・シンキングというわけではないんだよな。
あの人たちはあの人たちで、自分の意見に自信を持っている。
ポジティブ・シンキングって、本来「また失敗したらどうしよう」、「みんなの足を引っ張るくらいなら何もやらないほうがいい」、「自分は何もできない、生きてる価値がない」なんて思い込みやすいネガティブ・シンキングに対して、「自分を大切にできる」感情を作り上げていく方法だと思うんだよね。
それがいつの間にやら、「自分には何だってできる」、「自分が変われば、世界が変わる」みたいな呪術的思考を指すようになってしまっている。これがポジティブ教っていうことだと思う。
なんだか、このエントリも、ここで紹介されている
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080112/1200101006
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080109/1199875970
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891
をダシにして表出しているだけのように感じる。
「何かのせいにしない。」なんて、別に「今の状況を招いたのは自分がすべて悪いと思え」とか「社会や他人には全く問題が無い」とか、そんな意味じゃないと思うけどな。ひたすら自罰的になれとか言ってるんじゃなくて、とりあえず自分自身の範囲でコントロールできることをやってみませんか、ってだけだと思うけど。
他にも曲解が多いように感じる。元の文章の主張を過度に一般化して、本人が想定していなかったところまで言及範囲を広く見せておいてそれを批判しているというか。
自分は自分で「こつこつ」なり「効率的」なりに努力して、だけどその動機を調達するために不適切な自罰に陥らないように気をつけて、同時に他人や社会の問題も必要に応じて指摘していけばいいじゃん。そりゃあそもそも努力できるリソース、努力が成果に結びつくリソースの多寡は人によって違うかもしれないよ。でもだからといって、努力そのものが否定される訳じゃない。だいたい、他罰的で居続けることだって、結構努力のいることだよ。その実、しんどくない?
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51
「ちょっと」を毎日。
- 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
- 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
- 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。
- 大事なのは毎日(毎日じゃなくてもいいんだけど、常日頃)続けること。
- とにかく結果を焦らない。落ち着けって。
- 今日の努力が実を結ぶのは、だいたい1年後。のんびり行くしかないですよ。
- ちょっとだけやる。「ちょっと」が超大事。
- ダイエットしようと思って、いきなり5キロ走るから辛くなる。初日は着替えて玄関出るところで終了。
- だけど、やろうと思ったらその日のうちにやる。絶対やる。1歩踏み出すだけでいい。
- 今日行動を起こさないと、ゴールにつくのが1日遅れるよ。
- あんまり遅れると、そのうち門が閉まるよ。
バイオリズムに逆らわない。
最初にここまで読んだとき、よくあるポジティブ・シンキングのメソッドの一つだと思った。それで長すぎるので読むのやめたのが、何時の間にやら4桁に達するブクマがつくお化けエントリになっていたのであった。
実録・自己責任教の信者たち - HINAGIKU 『らめぇ』は元エントリも、それに異を唱えるd:id:fromdusktildawnもひとしく自己責任教であることには違いがないと喝破している。
なるほど、どちらも「成功するためには何をすればいいか」ということを問題としている。そして、guri_2の「地道な努力」とfromdusktildawnの「効率的な、正しい努力」のどちらが正しいのかはかなり哲学的な問題であって、一意の答えがありそうではない(というか、fromdusktildawnの言う努力も本人が考える以上に地道なものである。「最小の努力」などと言っておきながら、「意識を研ぎ澄まして」、「目を皿にして」チャンスを捕らえろ、などという。結局たゆまず努力するしかないのだ)。
さて、guri_2のエントリに戻って、先の引用の部分以降を読んでいくと、いきなり
気持ちよく過ごせないのは周りじゃなくて自分が原因です。
とあって、驚く。「イメージと現実をごっちゃにしない」はずではなかったのか。日照りが続くのは自分たちが神様に生贄を捧げていないことが原因、って原始人かよ!
その後の「何かのせいにしない」も、全ては自分のせい=自己責任ということになるだろう。
それにしても「とりあえず100万円は貯めておく。余裕が出る」と言っておきながら、y_arimのコメントに応答して、
ただ、月並みですが電気ガス水道をたびたび止められ、狭い部屋で共同生活しながらも夢を追いかけている友人を見ていると、デッドラインはいくらもで下げられるのでは、と思ったりします。
というのは何なのか(実は見当がついているのであるが、ここでは言わない)。そのほか、アドヴァイス間の矛盾が多々ある。
さて、それでもコメント欄やブクマには「勇気がでました」という反応が見られる。それ自体は良いことである。こうした自己責任教がどうして人をポジティブな気持ちにさせるのか。
アル・ゴアの『不都合な真実』を見た人は「不都合な真実」を見せ付けられたにも関わらず、絶望は感じなかったのではないか。それはゴアのエンカレッジメントの上手さがある。深刻な環境破壊の現実にも関わらず、ゴアはフランス人権宣言、リンカーンの奴隷解放、ロシアの農奴解放、ガンジーの非暴力主義による植民地解放運動などを引き合いに出し、「人間はこれまで不可能と思われてきたこともやってきたじゃないか」という。こうした楽観主義が観客を勇気付けるのだ。つまり、人間には環境問題に取り組む「責任」もあるが問題を克服する「能力」もちゃんと備わっている、「能力」があるからこそ、それに応じた「責任」を負うのだ、ということを指摘する。
同じような現象がguri_2のエントリにも見られる。つまり、エントリに勇気付けられた人は(エントリを見るまでは勇気がなかった人であり)、そこに自分の底力、潜在能力があることを発見したのである。「自分はまだまだ頑張れる」のだと。自分に自分の人生をコントロールする能力あるからこそ「人のせい」にはしないのだ。
逆に考えてみよう。自分のおかれている立場が自分以外の「何かのせい」だとすると、それをコントロールする能力はないし、そのことに本人が責任を負う必要は無い。誘拐犯に拉致され監禁された人間が、脱出できない自分が悪い、とか「もっと注意して歩いていれば」などと考える必要がないのと同じことである。
ところが、最近では(イラク邦人拉致事件で明らかになったように)上記のようなケースにすら、自己責任を適用しようとするのである(性犯罪被害者への「夜道を歩いていたのが悪い」というような、セカンドレイプはそのはるか以前からあったが)。
ここにguri_2の問題点がある。「何かのせいにしない」、「自分が原因です」は無前提に使用できる言葉ではないのだ。
何か重大な不幸がその人を襲ったとき、「自分が原因だ」、「自分が悪い」と考えること、それは普通ネガティブ・シンキングというのではないか。「自分の家族が不幸せなのは自分が原因だ」、「自分のチームが成果を出せないのは自分が足を引っ張っているから」、「子供が難病にかかったのは自分が墓参りを怠ったから」……。こういった思考法が容易にうつ病や自傷行為・自殺、カルト宗教への入信といったさらなる不幸をもたらすことは想像に難くない。もっとも、guri_2は「そんなときもあるさ」(これは明らかに失敗を何か運やツキのようなもののせいにしているのだが)とか「できないことが多くてもくじけない。続けていれば必ずできるようになる」、「だってオレも↑これの9割方できてないもん」という安全弁を用意してはいる。
しかし、無制限な自己責任論が過剰に自己処罰的な傾向を生み出すということにはもう少し敏感であるべきではなかったか。テレビドキュメンタリーに登場する若年ホームレスやネットカフェ難民が一様に抑うつ状態にあって「自分が悪かったからこうなった」と発言するのをguri_2はどう見ているのだろうか?
よこからごめんね。
非モテオタって「視野が狭い」んじゃないかなあ。その上で無駄にアンテナの感度が高いって言うか。だから女のちょっとした仕草から『好意を抱かれてるかも!』とか妄想したり、拒絶反応も視野の狭さが原因で『あと一押しで好きになってくれるかも!』とかどんどん勘違いしていく感じで。なんていうか、異性に飢える事でアンテナが過敏になって、経験がないことが視野の狭さにつながってるって言うか。
ほんと人によってはどうしようもないくらい間違った方向にポジティブシンキングなんだよね。「振られてもまた次の出会いがあるから良いさ!」とかなら問題ないんだけど、振られたことに気付けずに益々アグレッシブっていう。
※以下追記
非モテオタに限らず、ある程度以上惚れ込んじゃうと普通の人でもそうなるかもしれんよね。なんて言うか、そんな人が他人に迷惑かけるのは勘弁なんだけど、なんとかして冷静にさせることが出来れば変な事件とか少しは減るのかもね。
漫画家とかがさ。あとがきで「もう僕も27で、完全にオッサンで……」とか書いてたりさ。
他にもとある有名人を、掲示板上で、「28?オバサンじゃんw」とか言ってたりさ。
お前ら、おかしいだろって。
ちょっと冷静になってみろって。
20代だよ。明らかに若者。ていうか、この国では何?ティーンの次はオッサンおばさんなわけ?青年期とかそういう概念はなし?もしくは数年で終わるものなわけ?ティーンよりはええよ。
普通に考えてせめて50あたりからでいいだろ。ただでさえ俺ら、長生き国民なんだからさ。もうそんな早いうちから老け込んだこと言うなって話で。ほとんどの人生が中年期と老人期になっちゃうじゃんっていう。いやそりゃ冗談もあるんだろうけどさ。冗談なのか本気なのか分からないほどこういう感覚が広まりすぎてる。怖えーよ、この感覚。
ていうか逆にさ。そんな若造で、年季を重ねたものだけが取得できる「オッサンオバサン」という称号を得ちゃだめだろ。背伸びしすぎだろっていう。ある程度生きてから言えよって。謙遜のつもりかもしれないけど逆におこがましいだろって。じいちゃんとかばあちゃんとかいいたいなら70とかまで生きてから言えって。
なんでそう、自虐しまくりなんだと。自虐するだけならまだしもあまりに自虐しすぎて他虐までしちゃってるっつーの。こちとらまだまだ若い気でいてーんだよ。ていうか、若いんだよ。勝手にオッサンとかオバサンとか言うなって話だ。要するに。そんな老け込んだ事言って誰が得するんだって。もっと若々しい社会の方がいいじゃん。皆「もうオッサンだから」「オバサンだから」とか老け込んで元気ない社会より、「まだまだいけるぜ!」てな現役100%なフレッシュ社会の方がいいじゃん。なんでおまえらそれをわざわざ、一斉に老け込んでくわけ。しかも病気自慢の如く、「老け込み自慢」とかも始まるし、お前ら、どんだけネガティブ国民なんだっつーの。
アメリカなんてさ、まあ、あれだ。そう一概に褒められた国じゃねーけどさ。
でもお前らあの能天気さは見習っとくべきだ。あのご無体なほどのポジティブシンキングは見習っておくべきだ。ていうかお前ら、足して2で割れ。そしたらちょうどいいから。ほんとこの国のネガティブさ半端ねえ。アメリカのポジティブさも半端ねえ。極端にポジティブな国がGNP一位でネガティブな国がGNP二位ってのも面白れえ。極端すぎだからお前ら。笑えるから。もうくっついちまえば?ヒューヒュー!
で何がいいたいかっつーと、俺をおじさんと呼ぶな。俺がいいって言うまで呼んじゃだめだからマジで。言ったら地球の自転止めるから。
人月とは
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/mm.html
ろくに研修もしなかったしわよせがいよいよでてきて、
所謂標準的スキルというものを定義できないでいる。
もし彼らで定義したら、1yearsはかかるといいたいが、上は長くて3か月しか許さない。
それで結局中途か、当たりの新卒待ちというなんともていたらくである。
つまりちゃんと動くものを実装できる人が偉いという世界である。
しかし企業が大きくなり、人数が増えるとそうもいかなくなる。
さもなければ株価が大きく動き、お偉いさんの首をしめかねないからだ。
ただ出世した人間は結局、人月管理をしたことない、プログラマーだ。
そして多くのプログラマーは人月管理は意味のないものと思っている人が多い。
そのため部下に丸投げをし、専門用語を並べ知ったかぶりをするしかないのである。
この時点ではきづかづ、
開発の遅れを、ポジティブシンキングというマジックでひたすら働かせる。
そして、鬱になったり、倒れても、せいぜい休職に追い込まれそのまま辞めるるだけだ。
問題自体はそもそもの人月管理に問題があってもだ。
考えるし、実は反論もあったりする。
先を考える事が面倒で、
行動の大切さが分からず先送りしてしまう。
そんで、何度も対応が遅れて叱られる。
また、この叱ってくる人の言い方がきついんだ。
「だからお前は。」、
「僕はこう思うんだけどなー。どうしても理解できない。」、
「どうして出来ないか不思議でならないんだけど?」、
「そういうこと常識だろ?分かるよね?」、
「民間じゃ当たり前のことだから」。
あまり反論せず議論せず主張せずだった自分は、
二回りも年上(上司:52、俺:24)で、
まったく反論できない。
即座に反論を思いつくのも苦手だし、
なので、おとなしく頷くか、下を向いているだけ。
それでも挙句の果てに、
「お前が嫌いだから言ってるんじゃない」とか、
「素質があるから言ってあげてるんだよ」とか言われると、
ちょっとムカつくと同時に、その人の視野の狭さを感じる。
「伸ばしたいから、仕方なくお前を否定してるんだ。
でも、その辛さが成長には必要なんだ。」みたいに聞こえる。
えー。
辛いこと=成長の糧 なんですか?
というか、成長させるのにはそれが最も自分に効くんですか?
他の方法はないんですか?
だからこれは大切でミスはしない方がいいんだ。
俺はこんな風にして、ミスを防ごうとしたよ。
なんて言ってくれたら自分には明快なのに。
「お客さんとの信頼が一番重要だから。(後は分かるよね?)」
分かりません。いや、信頼が大切なのは分かりますよ?
でも、具体的な事例に鑑みて、不明なときもあるのです。
それで個々について聞きたいけど、
「後は分かるよね?」の圧倒的威圧感に潰されます。
あ、そう言えばカテゴライズされるのも苦手。
「やっぱりあなたはこんな人だから、こうなんでしょ?」
そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。
でも、一方的に決め付けるのはやめてくれ。
俺は反論できなくなる。
「俺は拒否したいんだけど…」な気持ちなんだ。
できれば察して欲しい。言えばいいだけなんだろうけどね…。
どんどん周りの人物をカテゴライズする人を見てると、
たまに見当違いに思えるカテゴライズをする。
んで、色んなトコをこじつけて、たいそう立派な考えを構築する。
んで、自信をもって自説を展開してらっしゃるんだけど、
ちょっとソコ、前提から違ってるよー。
でも自信たっぷりな様子を見てると、
指摘すると凹んだり怒ったりするんだろうな??、
で、何故もっと早く言わない!って言ってくるかもな??、
なんて思って指摘できない。
話は唐突に戻って、あなたの考えでは、
相手を否定することで、相手は成長するものだ、
となってると思うんだ。
でも、それは違う気がする。
確かに、否定から改善が始まる場合は多い。
でも、言い方とか分量とか相手とかにもよるでしょ。
あまりに多く否定されたとき、
真正面から受け止めると自分は潰れてしまう。
だから、へな??って受け流して適当に笑う。
上司は「こいつはコレぐらいじゃ凹まないというか、
心から受け止めないんじゃないか。ならもっとどんどん否定しよう」
ってさらに否定してくる。
違うんだよ。凹んでるからなんだよ。
さらに凹んでるんです。
反論できないんです。
んでもって、ずっと否定されてると、
そんな構造が分かってても、やっぱり心では思ってしまう。
結局、上司は「俺の行動に間違い無しぃぃ!」なんだろうし、
俺は「反論は相手の感情を逆なでするだけ」な人なんだろう。
あぁ、でも改善したい。
増田。どうすればいい?
パクったらそれなりに成立したwww
最近留年するのが流行ってるとかそうでないとかいう話も聞いたりして、特に何も考えずに留年しちゃう人とかもいるっぽいので、一応某大学で留年中の身として留年に向いてる人とそうでない人の違いとかを書いてみる。とりあえず向いてる人は留年考えてみてもいいかもしれませんが、向いてない人は即決で進級しましょう。ちなみにここでいう留年とは4年制の大学で留年という意味であって必修の授業を取りこぼすという意味じゃないです。再履修だけをしたい人はお金と暇があれば何も考えずにお好きにどうぞ。
留年に向いてる人は・・・
留年生とストレートは似てるところもたくさんありますが違うところもたくさんあります。違うところを気にせずそういうもんだと受け入れれるくらい心が広い人がいいです。日本の場合それなりのレベルの大学だとどこでも留年生がいて下手したら20年目くらいのご老体が寄り集まってたりしますが、彼らの文化がたとえ理解不能でも否定的にならず、気にせずまったり自分のやるべきことに集中できる人が良いです。
何事も適当な留年生でもtime managementは出来て当たり前のこと。レポートが出てたらちゃんと期限内に出し、タイトルシートが必要ならちゃんと記入して出す、といったことを人に言われなくてもちゃんと自分で調べて出来る人じゃないと大学生活やっていくのはキツイです。学事は適当ですが意外に融通が利かない時もあるので、大学の授業料を払い忘れちゃったりした日には即刻追い出されます。
留年生活は分からないことだらけ。人助け無しには生きていけないのでそれなりに外交的で誰とでもしゃべれる人がいいです。別にマイミク1000人いますくらいの外交度じゃなくて普通に人と接することが出来るくらいのコミュニケーション能力があれば問題なし。だから引き篭もりとか論外。
将来何かと苦労することが多いのでネガティブだとやってけません。
後輩と一緒に授業を受けるという事は想像以上にきついです(慣れればそうでもないけど・・・。)ちゃんと日々勉強しとかないとテストで点取れないし、進級条件不備が続けば大学追い出されます。大学は勉強する所とはっきり思ってる人じゃないとやってけません。
これらに該当する人は留年してもそれなりに生きていけると思います。
逆に留年に向いてない人は・・・
何か自分の思い通りにいかないことがあったらすぐにキレちゃう人は何事も適当がモットーの学事のやりとりでは地獄です。昔留年生仲間ですぐに学事にキレてた人がいたけどそいつはしばらくしたら消えてました。何事もまったりまったりが一番。
ちょっと語学の試験寝坊したらすぐに俺ダメなんじゃないか・・・とか思っちゃう人はダメです。へこむことなんて日常茶飯事。気分を切り替えていかないとやってけません。
自由や成功とは自分自身が努力して勝ち取るもんです。いちりゅうの大学生というフレーズに憧れてとりあえず留年すれば無条件でそこには成功が待ってるとか勘違いしてる人には無理。
上の項目に該当する人は、悪い事は言わないからかっこつけて俺ちょっと留年するからとか言わずおとなしく進級した方が身の為です。