パートナーと結婚を予定していて今後の生活について話す中で子どもの話も出てる。
自分はバイセクシャルで以前は同性と付き合ってたこともあるし、パートナーにはそのことも話していて、そういう話ができて理解してくれるパートナーだからこそ結婚して一緒にいたいと思ったんだけど
以前の同性の恋人がいたときにはできなかったこと(公然と手をつないだりイチャイチャする、色んな人に恋人を紹介する、結婚するとか)がどれも簡単にできてしまうこの格差が悔しくてしょうがない。
以前の恋人と別れた原因はそういうことができないからではないけど、同じ好きな人なのに相手の性別によってこうも違うのかよ、と今のパートナーとの結婚話が進むほどに悲しくなる。
もし子どもをもうけるとして、その子どもも自分のようにマイノリティ性のあるセクシャリティや属性を背負ったときのことを思うと、
自分が当事者としてしんどい思いをしてきて、そういう思いをせざを得ない社会だと分かっているのに子どもにこの社会で人生を送ることを強制させるのどうなんだよ、と、反出生の人らの言うことがすごい身にしみる。
パートナーと今後の生活の話や子供の話をするたびに自分がはぐらかしてばかりいたら「子どもいなくても全然かまわんよ」と言ってくれたので正直に自分の気持ちを伝えた。
パートナーいわく、
子どもがマイノリティではない可能性ももちろんあるけど、バイセクシャルである私のこれまでの苦労とか、パートナーにはゲイの友人もいるので彼の体験したことを聞いて、すごく辛いと思ったから、
自分の子どもがマジョリティ側だったとしても身近にいるマイノリティの苦労に接して悲しい思いをすることには変わりはないし
そうしたことが当たり前になっている社会にどんな子どもも「ようこそ」と言って迎えることはできないね、と言ってくれた。
大事な人を死ぬほどまずいと分かってるラーメン屋に黙ってつれていくみたい、とかも言ってた。
子ども産んでる人の大半は異性愛者のマジョリティ属性だと思われるけど、子どもがマイノリティである可能性(セクシャリティだけでなく病気や障害も含め)や、そういう子が生きていくときに感じる気持ちについてどのように自分に言い聞かせて産むにいたっているんだろう。
自分は社会に不満を言いつつ、子どもにはその不満のある社会で生きることを強要することに対する整合性(?)というか。
自分が生きてる間だけ味方してやりゃ親としての勤めは果たしてる、あとは本人次第やろ、はあまりにも、あまりにも自分勝手すぎるんじゃないかと思ってしまう。
自分がしんどい思いをするわけじゃないからそんな感じなんだろうか。っていうかそこまで考えてないものなんだろうか。センシティブすぎて他人に聞けない。
いまパートナーと話してるのは子どもはもうけない、仮に子育てにどうしても関わりたいと思ったら里子や養子にすること。
ただ、これも共働きだとできないことが多くて、お互い仕事は尊重しようと思ってるから難しいのかもしれない。
直接の子育てが難しい場合はマイノリティの子どもたちの支援を寄付とかなんか間接的にでもやっていこうと思う。
なんか悔しいことだらけだ。