2020-06-08

anond:20200608131058

人は人と関わる時に必ずペルソナ(仮面)を被る。人には「親の前の顔」「恋人の前の顔」「友人の前の顔」「職場の顔」などがあり、それぞれを使い分けて生きている。

しかし、それらはいずれ同定されてしまうという恐怖もある。親に恋人を紹介した時。職場で友人と鉢合わせた時。使い分けていたはずのペルソナは、混ざり合って元に戻らなくなる。「彼らは同一人物」という型に嵌められてしまう。「裏の顔」は「本当の一面」などと、勝手レッテルを貼られてしまう。

ネット上の顔」は、比較的そういった融合が起こりにくい。バカな口調、アイコンハンドルネームで、バカ言葉を発するネタアカウントの持ち主が、会って見ると随分真面目で小綺麗な人だったとする。「純朴そうなあの顔で下ネタ!?」などとネタにすることはあっても、再びネット上での振る舞いを見て感じるのは「安心感」だろう。「自分が好きになったのはこっちの彼で、あっちは何かの間違い」と納得してしまう。もちろん、事実として彼らが同一人物であることは認識したまま。

Vtuberというのも結局その延長にある。なりきりチャットとしばしば表現されたりもするが、これは的を得ていると思う。

検索ボックス名前を入れれば、サジェスト上位には「中の人」と出る。しかし、「中の人」が表立って話題になることはまずない。おそらくみんな知っているのに。みんな、「いや別人格でしょ」くらいに納得している。実際、同じ中の人が別のVtuberとして「転生」する例などもあるが、それは公然の秘密として理解されている。Vtuber中の人は、「武藤敬司グレート・ムタくらい別人」なのだ

Vtuber文化はそういうところに気持ち良さがあり、安心感がある。R18に寛容な人が多いのも、そのキャラクター(=人格)は自分作品(すなわちフィクション)であって、自分自身ではない安心があるという面もあるだろう。

そうした絶対的に守られる一枚の壁を隔てながら交流ができるというのは、匿名ネット社会で散々続けてきた古い文化であり、それ自体は新しいものではない。新しいのは、そこに身体がついたこと。ハンドルネーム名前を、アイコンで顔を表現することはできても、身体がなければできないことが沢山ある。その点で、ネット社会でできることは現実社会に比べて限られた枠に収まっていた。しかコンピュータ技術の発展とともに、ネット社会存在感は日に日に肥大しつつもあった。「ネットしか場所がない」とはしばしば揶揄される対象だったが、今や「ネットに居場所がある」ことはそれだけで十分条件である

Vtuberという表現の形が受け入れられたのは、そういう背景もあるだろう。「0から1を産んだ」という意味での新しさというよりは、「0から9まで揃っていた中で、集大成として10が産まれた」という新しさ。

記事への反応 -
  • Vtuberをリアリティーショーと批判する人はそこがわかっていない。まず最初に2Dの立ち絵があって、そこに魂となる中の人が入る。この段階ではまだキャラクタは固まっていない。同僚と...

    • 人は人と関わる時に必ずペルソナ(仮面)を被る。人には「親の前の顔」「恋人の前の顔」「友人の前の顔」「職場の顔」などがあり、それぞれを使い分けて生きている。 しかし、それら...

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