自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か(斎藤 環) | 現代ビジネス | 講談社(1/5) https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/72994
id:wschldrn 違うと思う。リアリティショーの演出とは演技強要やキャラ誘導ではなく「編集」によるもの(スタジオ出演者の言動含む)。これはドキュメンタリーや、報道ですら共通する問題。だからこそ解決が難しい。
もし斉藤氏が想定する、撮影現場における「強化子の投入」ではなく、wschldrn氏が想定するように、すべて事後的な編集によって出演者のキャラクター付けが行われているならば、斎藤氏の論が成り立たなくなる部分はあると思う。というより、斎藤氏が編集による「キャラ付け」をほとんど考慮していないのは、重大な見落としに思える。
ほとんどのリアリティショーはシリーズとして放映される。最初の撮影時には「キャラ付け」が存在しなかったとしても、放映された番組の視聴やSNSを通じて演者は「編集によって造られたキャラ」を把握するとこになる。そこに「キャラ」と「リアルな自分」の間にねじれが生じ、これが演者に精神的な負荷をもたらす。さらに「キャラ」に基づく批判やひどい場合は誹謗中傷がSNSを通じて演者に追い打ちをかける、そんな機序が想定できそうだ。さらに言えば、ここにSNS上での「キャラ付け」が番組制作側にフィードバックされるルートも考慮すべきかもしれない。
一方で私は、「撮れ高」を意識しない撮影スタッフという存在をにわかには想定できない。撮影現場において「いい画が撮れた」というような、スタッフの素朴な喜びや高揚が演者に伝わることはある程度想定するべきではないか。つまり斉藤氏が想定する、強化子の提示による条件付け(キャラの誘導)も「ごく自然に」起こりうるように見える。
最後に、解決策として斎藤氏が提示する「虚構度の向上」(視聴者にフィクションであると思い起こさせる要素の強化)はドキュメンタリーや報道番組ではなしえない解だろう。
無限のリヴァイアスはアニメだからできた