単純にいえば、もう疲れたのだ。
ある舞台作品を好きになり、そこにでていた俳優をいわゆる「推し」として応援し続けていた4年。色々あり、その俳優から降りて新しい推しを見つけて応援しだしてから1年。
世間からみても薄月給のなかトータル5年間、人は変われどよく頑張って応援していたと思う。
他にも化粧品とか服とか衝動買いしたあれこれとかにもお金を使っていたので、推しにすべてを捧げて応援している人の足元にも及ばない応援と現場数だったが、たしかに楽しかったし後悔は少しもない。
ただ、貯金もできず彼氏もいないこの5年間、楽しかった思い出が増えていくのとは裏腹に将来に対しての不安は大きくなるばかりだった。
「どうしてこうなってしまったんだろう」「私は何をしているのだろう」 次々と婚約、結婚をしていく友達を横目に虚無感と焦りがでてくるには十分な時間だった。
「それでも好きな舞台があって推しがいるから楽しい」と思っていたのでここまできてしまったが、ふとこれからも本当にこれでいいのかと思い返した。
山のようにある使い道のないグッズ、増えない通帳の桁数、チケットだけでも二桁だしてしまう財布の緩さエトセトラ。
楽しい時間は一瞬で、家に帰ってきてから虚無感で苦しんでいる時間が増えてきた。お金の余裕は心の余裕とはよくいったもので、あらゆるものを我慢して現場に通うには私の心は弱かった。
本当にキツかったときは、紫外線で黄ばんでしまったお気に入りの白い靴を見ては、その靴が汚れてしまったことへの怒りで人に当たり、泣き、玄関に靴を投げて、また泣き。自分でも追いつかない感情に振り回されてしまって、それなら元凶の靴を捨ててやろうとしたところでようやく我に返ったりもした。比較的穏やかな性格だと自負していただけに、こんなにヒステリックになってしまうほど何に追い詰められていたのかといえば、色々要素はあったと思うけどやっぱりお金のなさからくる心の余裕のなさだった。
今から思えば、私自身に何が足りなかったのかといえば、自制心と我慢だった。普通の人は普通にできているそれが私には欠けていた。私のそれは趣味ではなく一種の執着と意地になっていたのだと思う。
オタクなのに通ってないの、このイベント行ってないの、このグッズ持ってないの、あのときのエピソード知らないの…。実際に言われたことなどなかったが、界隈のみならずオタク文化では少なからずある風潮だ。この思想を意識していたわけではないが、きっとコレにかき回されていたのだと思う。
「自分のペースで応援」ができなかった。公演と推しに対して「知らないこと」があることが怖かった。見えない敵と毎日戦って、疲弊して、それでも楽しかったのに、やっぱり無理だった。それだけだ。
SNSでみる作品と俳優への愚痴を見るたびに心が疲弊していたし、そうなることが分かっているのに、怖いものみたさのように覗いては疲れていた。
でも、少しだけ我に返ったことで、オタクをやめようと思えるまでにきた。多分根本的にやめることはできないけれど、グッズを減らして、公演数減らして、イベントを減らして、自分のできる範囲で応援していこうと決めた。
自分の生活を切り崩してお金に余裕がないことは社会人としてどうなのかという思いと、自分の将来の計画性のなさに呆れたこともオタクをやめようと思った一因だ。
オタクをすぐにやめられるとは思わない。
推しは自分の人生になくてはならないものではない。私にとってはだけれども。
私の人生は間違いなく私しか描けないもので、後悔したくないのだ。
今が楽しければそれでいいなんて、いつまでも言っていられない。