2019-04-30

友人が亡くなった

どこかで吐き出さなければいつまでも気持ちの整理がつかないので書く。

先日友人が亡くなった。部屋で自分で首を吊ったらしい。大学卒業後、最初に入った会社で心を病んでしまい長年実家に引きこもった末のことだった。

家族支援センター等に相談しながら解決の糸口を探していて、本人も社会復帰をしようと週に数回の非正規仕事をしたりしていたので、良くなるかなぁ、良くなればいいなぁと思っていたが、こういう結果になってしまったのが残念でならない。

葬式では、棺に入った友人を見ても現実味がなく、ただ、友人の家族が「助けてあげられなくてごめんね」と友人に向かって話しかけていたのが印象に残っている。

亡くなる数週間前、友人から「本を貰ってくれ」とLINEが来た。僕は「おーありがと、近いうちに取り行くよ。でも貰ってばかりじゃアレだから俺も〇〇が気に入りそうな本持って行くわ」と返事をした。結局、仕事が忙しく取りに行けなかったが、葬式で坊さんのお経を聴きながらその時初めて、あれは身辺整理だったんだと気づき自分能天気さと馬鹿さ加減を恨んだ。友人の家族は友人の変化を感じていたものの、きっと良くなる兆しだろうと思ったらしい。客観的に見ると、あ、死ぬな、と分かるのに、本当に気づけなかった。無意識に最悪の事態を避けるのか、もしくは希望が目を曇らせるんだと思う。

葬式が終わってから、数日色々考えて会社辞表を出した。理由は、友人の引きこもるきっかけが仕事職場の辛さ・ブラック労働環境だったことだ。

僕が今勤めている会社地方零細企業で、社長が白だと言えばカラス白鳥になるような、いわゆるワンマン経営会社だ。社員に対する社長の当たりが強く、そのせいで職場雰囲気がかなり悪い。離職率もその分高く、胃をやられたり、ストレスから病気になったりして辞めて行く人が後を立たないような職場だが、自分は割と受け流せる性格だったのでヘラヘラしながら長年勤めていた。ただ、葬式の後に「ウチみたいな会社が友人を死に追いやったのかなぁ」と思ったら、そんな会社で働きそんな会社を存続させる一旦を担っている自分も、友人を死に追いやった一人になった気がして急に何もかもが無理になってしまった。零細企業だと経営者の大変さや会社継続させる凄さも近くで見えるので、自分の考えが甘いというのは重々承知だけど、社員を不幸にする会社は潰れてくれと思ってしまった。

また、世間の「当たり前」や「こうすべき」といったものに対しても拒否感が出るようになった。働かざるもの食うべからず、とか結婚って普通するよね、とか、男は強くあらねばならないとか。そんな単純な話じゃないんだろうし完全に想像だけど、そういう「当たり前」や「こうすべき」がなければ、友人は今でも生きていたんじゃないかと思う。

仕事の忙しさなんて構わず、本を取りに行けばよかった。

友人の安息と、友人家族の悲しみが早く癒えるのを願う。

  • なんか間違ってるな、と思って行動に移せんのは普通に偉いと思う きっかけは悲しいことだけどそれはそれで故人の死を昇華する一手段なんじゃないかな がんばってというのもなんか違...

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