https://www.asahi.com/articles/ASM35675PM35UCLV00T.html
「恋愛もセックスもなくてもちゃんと生きていけるんだ」って話、これはわかるし大事
でも、「恋愛に意欲的な女性は自己の価値に自信がある」、この論調は問題がある
女性は家と家の贈り物であり、格上の人への貢物であったわけで、その贈り物が贈り物の役目を放棄して性に主体的であることは許されるわけがなかった
しかし、それは同じ人としておかしいよね、って考えが広まり、女性の自立が認められ、描かれるようになってきた歴史があるんだ
妾として囲われている女が、毎日家の前を通る学生のことが気になり、ある日意を決して囲われてる家に連れ込もうと計画する話
これは、決して、現在の我々が考える、「強くて性に奔放な女」ではなく、「人間として自立した女」でしかないのだけど、それがいかに意味があったか、ということを考えて欲しい
とすると、わかってもらえるかと思うんだけど、岡崎京子や安野モヨコの描く、自己の体の価値に自信を持ったカッコいい性に奔放な女、だけが、特別な存在というわけじゃない
性愛が苦手ながらも付き合わされる女性、性に消極的なことを否定される女性、男女の不平等により性を搾取されている女性、これらは全て、昔ながらの「性に主体性を持てていない女性」なわけだ
当然、積極的に性愛を嗜まず暮らす女性もおおい肯定されるべきだ
なので、この朝日の記事には、今までのいかにも女流作家が描く女性性がテーマな作品ではない作品、というのが、目新しい、性からの脱却かのように書かれているのだけど、それはおかしいことをわかってもらえると思う
女性が性に対して多様であることの肯定、これはまさに「女性の自立」そのものであり、岡崎京子や安野モヨコ、、、、というより、森鷗外の雁から始まる流れと全く同じ方向に向かっているからだ
つまり、どちらかというと目立つ行動をする性に意欲的な女性をことさらに特別視して、おとなしめの女性と対立させるような論調は不適切だ
現代の女性もまだまだ、鷗外以前の、性に主体性を持てない女性が多いということがクローズアップされてきたというだけで、つまり、漫画が、憧れの女性を見る娯楽から、私自身のことを見つめるものへと変質してきた、というだけであり、まだまだ我々は、昔と変わらず女性の自立を肯定して助け励ます必要がある、ということだ
全ての女性のあり方を肯定し、いや、全ての人間のあり方を肯定し、自分の生き方、自分の性に主体性を持てるようになること、これが理想だよね
責任も増えるんだけどねw