やっぱり、こういう考え方がどんどん浸透していくと、いろいろと窮屈になって、お笑いなんかはいろいろ厳しいだろうなあと思う。
「いや、人を差別するような笑いはレベルの低い芸人のやることだ。人を傷つけない笑いはいくらでもできる」という人がいる。
だが、そういうことをいう人が「たとえば『笑点』が」とか言い出すとげんなりする。
笑点で昇太師匠の「独身いじり」するのと、童貞を笑うのと、構造は全く同じだろうが。
童貞を笑うのがマッチョイズムなら、未婚の男性を「不完全」「人格に問題がある」という立ち位置でバカにして笑うのはどうなんだ。
小遊三師匠は女性を徹底的に「性的欲望を満たす対象」として見ることで笑いを取っているようにしか見えないし、大月と秩父の争いは地方蔑視だ。
まあ、そもそも古典落語なんて、現代基準では結構な差別性をはらんだ笑いの世界なんだから、当たり前といえば当たり前なんだが。
出川哲郎の当たり企画に「出川イングリッシュ」という企画がある。
アメリカで、英語ができない出川哲郎が、片言の英語を駆使しながら街行く人に道を聞いて指示された目的地までいくというロケ企画だ。
必死に目茶苦茶な英語を駆使する出川に必死に耳を傾けて、思いのほか親切な人が出てきたりして、なかなかにハートウォーミングな企画だと思われているし、事実そうなのだろう。
「人を馬鹿にしていない笑い」として例に挙げる人もいる。
しかし、なぜこれがお笑いとして成立するかというと、有体に言えば、出川が常人の発想を超えたレベルの「バカ」だからだ。
それが証拠に、出川がトンチンカンなことを言うたびにテロップで強調されて、笑いを誘う仕組みになっている。
つまり、これは「バカ」を上から目線で笑おうという差別性がきちっと含まれている。
出川本人は誰もバカにしていないかもしれないが、番組と視聴者が協同して出川をバカにするのが基本構造だろう。
さて、ここで「『笑点』は差別的だから内容を改めろ!」とか「出川イングリッシュで出川哲郎を馬鹿にしてはいけない!」とか大声で主張する人たちがでてきて、しかも「私たちの主張に与しない人たちは遅れた差別主義者だ!」と騒ぎだしたらどうなるか?
みんな素直に「ああ、そうか。自分たちの中に潜む差別性に気づかなかったなあ。これからは考えを改めなきゃ」とは思わないだろう。
なんだか、うっとおしい住みにくい世の中になったなあ、と思う人も多いだろう。
その議論はすでに保毛尾田保毛男から周回遅れになってる気がする
ぐるぐる周回はしてるけど、とくに結論はでてないような。 ま、そもそもポリコレさんたちは「自分たちが正しいんだから、議論のよちなんてない」と思ってそうだけど。
「笑い飛ばす自由」はあると思う。 己のデブを、ハゲを、チビを、身体障害を、精神の病を、性的志向を、性経験の有無や多寡を。 笑い話にすることで楽になる自由は絶対にあると思う...
そうそう。その手の息苦しさはウーマンリブとかフェミニズムが台頭してきたあたりからそう。 まぁでも時代は簡単には戻らないよね。君のいうように反動みたいな形にならないと、戻...
だから俺はずっと女性はムスリムになるべきだと言ってんだけど