直接面識のある人ではなかったし、熱心なファンというわけでもなかった。でもwebで読むエッセイや人生相談の記事はいつも、心に染み渡るような優しさと、孤独を恐れず生きていく勇気を与えてくれた。FaceBookでは雨宮さんが「友だちの友だち」の位置にいたし、知人が仕事の関係者だったりもして、親近感は感じていた。もしどこかで会う機会があれば「あなたの書くテキストはどれも本当に素敵で、いつも救われています。ありがとう」と伝えたかった。だから、自分でもびっくりするくらい雨宮さんの訃報に打ちのめされた。昨日はずっと気を抜くとそのことを考えてしまっていたし、今朝起きても真っ先に雨宮さんがいないことを思い出してしまった。
雨宮さんは40歳、私よりひとつ年下だけど、気分としては「人生の先輩」あるいは「姐御」であった。東京で女性ひとりが生きる時に感じる生きづらさを優しく芯の通った文章で細やかに表現してくれた。モヤモヤと捉えどころのない不安や孤独を言葉にしてくれることは、それで全てが解決するわけではないにせよ、現状を把握するヒントになり、気持ちを整理することに繋がったのだ。あんなふうに強くしなやかに生きていけたら、そんなふうに思える憧れの先輩だったのだ。私は、私たちは、雨宮さんの背中についていけば良かった。時々衝動的に死にたくなる夜のことを書いた記事も、うんうんわかる、と思ったし、でも生きていかなきゃね、と思っていた。
死因の詳しいことは明かされていないが、事故だ、と出版社の発表にあった。事故なのだろう。もし衝動的に足を踏み外したとしても、衝動的に薬を飲みすぎたとしても、衝動的に手すりに手をかけたとしても、それは事故だ。あるいはご本人の意図しない事故としか言えない何かだったのかもしれない。事故、という言葉以上に、私たちが知り得ることはない。
だけど、雨宮まみさん、事故にせよ、あなたが死んではだめじゃないか。
私たちに生き抜く勇気をくれたあなたが、私たちを何度も救ってくれたあなたが、死んでしまってどうするんだ。
あなたの背中についていけば生きていける、とどこかで思っていたのに、目の前から急にあなたが消えてしまったら、私たちはこれからどこへ進んでいけばいいのだろう。これから50歳、60歳と年を重ねて感じるモヤモヤも不安も孤独も、あなたがすべてもらさずカタチにしてくれて、私たちは「そういうことか」と納得して前に進んでいけるのかと思っていたのに。
雨宮まみさんと共著もあったおかざき真里さんの漫画「サプリ」に、主人公の同僚女性が突然自殺してしまうエピソードがある。広告代理店でバリバリと働く女性がぷつりと糸が切れたように亡くなってしまう展開だ。漫画では「失恋」というわかりやすい理由があったが、今読むと過労死した電通女性の姿も重なってくる。いずれにせよ失恋はきっかけにすぎなくて、社会や仕事やいろんなものに削られて磨り減っていった末の「事故」だったのだろう。主人公やその同僚たちも自分の足元が危ういことに気づかされ、生きるためにそれぞれが「確かなもの」を得ようと舵を切り、大きな決断をしていく。死がさほど遠くない場所にあることを誰もが自覚しているのだ。
無性に人生を終わりにしてしまいたくなる夜、今までは心のどこかで雨宮まみさんのことを思っていた。「雨宮さんも頑張っているのだ。私ももう少しがんばってみよう。」はっきりと言葉でそう思ってるわけではないけれど、多分ぼんやりとそんなことを思っていた。だけどそれは終わりにしなければならない。
昨日、「雨宮さんはもういない」「ならば私も」そんなふうに思ってしまいそうな自分がいた。
私は、「サプリ」の主人公たちがしたように、亡くなった彼女と自分の間に線を引かなければならない。雨宮さんが今は安らかに穏やかな気持で眠っていることを祈りながらも、「先輩」「姐御」であった彼女の背中を追うことをきっぱりとやめなければならないのだ。