私の家庭は両親が上手く行っていなかった。殴る、蹴るといった直接的な暴力は少なかったとはいえ、所謂父親から母親へDV行為が行われている家庭だった。
何か問題が起きた時、決まって母親から聞かされる言葉があった。「男は馬鹿だ」と。
今となってみればそこには男性そのものに対する批判性は少なかったと思うし、母親自身あまり異性経験の多い方では無かったそうで父親=男とするのも無理は無かったのかもしれない。
だが、幼い子供からすればそうはいかない。ただただ額面通りの言葉として受け取るしか術がなかった。母親への同情と同時に「この世の男は馬鹿でクズで、軽蔑すべき対象だ」という刷り込みが行われていった。
私が女性であったならばただ男性差別主義者、ミサンドリーとなっていただけだろう(勿論そういった主義を良しとする訳ではないが)。
しかし私は性自認を含め男性であるのだ。女性に生まれたかったと思う事は多々あるが、性自認の話とは別問題だろう。
これは男性に限った事ではないが、自己の性別を軽蔑するというのは大変生きづらい。
同性同士特有のノリ――異性関係における武勇伝であるとか、男性であるなら風俗やギャンブルの話であるとか、そういうものに対して特別嫌悪感がある。
女性に恋をする事だってあるし、性欲も人並みにはある。しかし、「馬鹿でクズな男性」である自分が女性に対してアプローチを掛けて良いのか?危害を加える可能性は?そんな事を考えると、男性嫌悪から飛躍して自己嫌悪にまで陥る。
男性批判を行う母親はこの文脈におけるところの女性だ。そんな女性に少なからず嫌悪感を覚えていたのだろう。
今でも、テレビ番組などで女性タレントが男性批判をしている時、嫌悪感と同時にどうしようもない居たたまれなさを覚える。
ここまで来ると男性も女性も嫌悪している自分は一体何者なのかが判らなくなる。
その事に対しては本当に同情しているし、その時々で思いつく限りはサポートしてきたつもりだ。一般的な母子関係よりも仲は良いとすら思う。
それでも、やはりこの刷り込みに対しては負の感情が大きい。これが無ければもう少し人生は変わっていたのだろうかと。
もしもこれから親となる方がこれを読んでいたなら、家庭環境が悪化した際にはできる事ならば拠り所は家庭の外に作ってほしい。