事実を一部だけ切り取って見せるのは、時に嘘を吐くよりも罪深い。
今日は子虚烏有関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば「ビフィズス菌は、効果を発揮する前にほぼ死滅する」という話があるとしよう。
これだけ聞くと、「ビフィズス菌の摂っても意味がない」という印象を持つよな。
だが、ここに「生き残ったビフィズス菌は死んだビフィズス菌を糧にする」という情報があったら、ちょっと変わってくるだろう。
情報そのものの正しさは総合的に、論理的に判断すべきということさ。
……言葉通りだよ。
深読みするんじゃあない。
様々なものは知覚することで、初めてこの世に存在することができる。
君は私を知覚し、私は君の意識の一部として存在することが出来るというわけさ。
つまり私は君がそこに存在しているのと同じように、ここに存在している。
それは私にとっても同じことさ、私の意識の一部に君は存在する(他意はないからな)。
それらが積み重なってリアリティを感じ、リアルと混同し始めたとき、人は現実と非現実の境界が曖昧になっていく。
例えばネットに依存している人にとって、それは確かなリアルなのさ。
厳密には違う。
だが、それだけではまだ不十分だ。
いくら人格面で区別できないほどになっても、生物学的には機械は機械だ。
つまり、彼らの人間になるための最終プランは、人間との生物学的な融合なのだよ。
ゲーム『lain』でのヒロインは、最終的に生身を捨ててプレイヤーの意識の一部となって生きることになる。
そして『シーマン』では、長いコミュニケーションを積み重ねることをゲームの仕様としAIに人格を与えさせ、人とAIの境界を曖昧にさせた。
実際シーマン自身も、声をプレイヤーが聴いて知覚することで、自らが意識の一部として存在しているといったことを発言している。