(本人はジュヴィナイルくらいのつもりなんですけど面倒なのでそう名乗ることにしました)
文章を書いてデビューして商業で食べていくために、まずは第一に作品を書き上げ、それを続ける能力が必要だというのはよく言われる通りです。速度と持久力。文章書きとしての体力です。これは本当に先人の言う通りです。
しかし、もうひとつのそれと同じくらい重要な部分には十分な指摘がないように思います。この記事はそれについてのメモです。
日本社会では職人が尊敬を集めるために、妥協というのは悪であるかのように受け取られがちです。作家という職業は良くも悪くもクリエイター(職人とアーティストの間にある幅の狭い所に住む妖怪の一種)だと思われているらしく、その認識も妥協を許さないバイアスとして働きます。
そもそも志望者が何らかの作品を書き上げたとき「まあよかんべ力」が足りないと「こんなのおれの作品じゃねえよ、ビリビリビリ」と破いてしまうので、投稿もくそもできません。
つまりある作品にたいして完成OKをだすためには「まあよかんべ力」が必要なのです。
(脇道ながら捕捉しますと、この「まあよかんべ」と「俺の作品は世紀の傑作だと疑わない」というのは全く違うことです。「まあよかんべ」というのは、自分の実力や作品の出来不出来を見つめ、その美点欠点を理解しつつも、歩みを止めないという前提で、「今回はここで勘弁してやる」という態度や能力です)
この「まあよかんべ力」はデビュー作にのみ必要なわけではなく、いえむしろ、完成までに自由に好きなだけ時間をかけられたデビュー作などよりも、よほど商業創作では必要になってくる能力です。
担当、編集部、出版社、営業、広報、流通、書店というさまざまな利害関係の中で、作家は最上流に位置します。これは別にえらいという意味じゃないです。作家がボールをキックしない限りほかの人にでかい迷惑をかけるという意味です。その流れと関係の中で、自分が納得できない作品であっても「まあよかんべ」が必要になることは必ずあります。
そもそも作品に粗があるのは当たり前です。今完璧に見えたとしても数日すれば粗が見えてきます。粗が見えないとすれば作家として成長してなかった証拠です。
今年自分はこの「まあよかんべ力」の件で周囲に多少迷惑をかけてしまいました。もちろんそれで得たものもあるのですが、総合的に見てマイナスのほうが大きかったと判断しています。このことは反省し、来年はもうすこしゆるく周囲を見渡せるようになりたいと思います。