刃物を規制すれば殺傷事件が減るのなら、わたしを規制できたら祖母は死ななかったのだろうか。刃物が人を死に至らしめた時、いかなる法が血を浴びた鉄クズを罰するのだろうか。わたしは祖母を殺した。違う、祖母を殺したのは母だ。わたしはナイフとして産まれ(実際、帝王切開という形で母の子宮を切り裂きながら生まれた)、何年も掛けて研ぎ磨かれ、頃合いを見計らって祖母へと突き立てられた。咽頭ガンだったという。いや違う。殺したのはわたしだ。
二世帯住宅が建てられたのは十五年ほど前だった。足腰を弱くした祖母の世話で週末ごとに車を二時間半飛ばすのはつらい、と母が呻き声を上たからだ。わたしが物心をつける頃にはもう祖母は未亡人生活を満喫していたから、独断で実家を売り払って新居に移り住んだ。恐らく孫のわたしを溺愛していたのも大きな要因だろう。当時、わたしは「おやつやおもちゃをくれて大好きなおばあちゃんといっしょに住める」程度のことしか考えていない。
祖父のことは知らない。葬式の記憶がうっすらと残っているだけだ。妻に働かせて、自分は酒や賭け事で金を使い果たして、家で我が子二人に八つ当たりするろくでもない親父だった、と母がいう。その家の世帯主は祖母だった。新しく出来た競輪場の売り子として、家にもろくに帰れないまま、女だてらにかなり稼いだらしい。あの人の気が強いところは、自分で稼いだってプライドからなのよ。と母がいう。
母は小学校の給食が大好きだったそうだ。級友たちがまずいまずいと顔をしかめて先生に殴られない程度に残すなか(知っての通り、体罰が非難され出すのは元号が変わる辺りからだ)、母だけは他人の分までもらって食べていたそうだ。幸せの基準は相対的なものだとよく言われる。味の基準も、自分を殴ったり風呂を覗いたり身体をまさぐったりする父親が嫌々作った飯よりは相対的においしかったというわけだ。ちなみに、今ではあの給食はまずかったと笑っている。
同居し始めると母が泣いたり祖母と言い争ったりする場面によく出くわした。カップルは結婚前に同棲した方がよい、というのは長らく別居していた親子関係にも言えたのだろうか。長年の恨み辛みが無理に塞いで膿んだ瘡蓋を破って泥のように流れ出たのだと、今はこう客観的なものいいが出来る。だが、当時十一歳ほどのわたしはもっと大雑把に考え、布団の中で怯えた。どちらか一人を選んで、自分の居場所を確保しなければならない、と思った。
打算的なわたしは、今後の人生で長く付き合う方を選んだ。そのとき、母によるわたしの研磨が完了した。
そう決めた次の日から祖母の言うことを無視し続け、嫌いだったヘビの人形を押しやり、目の敵にするそぶりを続けた。作家のヴォネガットがいうには「あなたが演じているものこそが、あなたの本性」らしい。わたしの本性は、高齢者をいたぶるクズ鉄となった。
祖母は二年としないうちにガン病棟へ移り、息を引き取った。あれほどおしゃべりだった人が、入院が決まった頃には自室でひっそりと背中を丸めてうなだれるようになっていた。祖母の自室は二階角の畳部屋だった。南側の窓は目の前の公園の高い樹木で覆われ、東側は隣接したマンションでふさがれ、日当たりがさほど良い空間ではなかった。敷きっぱなしの布団の裏側には黴が生え、母は布団をそそくさと捨てて買い直した。新しい布団はろくに使われず、今ではお客様用として和室に格納されている。
誰かを恨む気持ちはない。そもそも、わたしに生来そうした素質があったのだろう。祖父は他人だからどうとも思えないが、かといって娘を見殺しにした祖母と、子どもを使って復讐した母のどちらがより悪いなどと裁くこともできそうにない。申し訳なさというより、単純に分からない。
陽が傾いてきた。猫背で文章を打ちすぎて、肩が凝った。そろそろやめにしておこう。結論、刃物だけを規制しても意味はないとわたしは思う。