社会学的に言うと、自分探しが生じるのは「選択の余地が増えたから」ということになる。
どういう職業に就くのか、結婚するか否か、するとすれば誰とか等々、自分で決めなくてはいけないことがすごく増えた。それらの選択がうまくいけば良いけど、うまくいかないと自分のせいになってしまう。自分が無能だから、自分に魅力がないから、みたいな話になるわけだ。なので、選択の余地が増えるほど「自分の存在価値を自分で証明する必要性」は高くなる。
なので、自分が特別な存在であることを示すためにも、良い選択をする必要がある。しかし、重大な選択にあたっては当然、とまどいが生じる。そこで選択そのものを先延ばしにするのがいわゆるモラトリアム。どんな職業に就くのがいま決めるのが怖いので、とりあえず大学に行こう、みたいな。しかも、選択したところで「もっと良い選択肢があったのでは…」という思いは消えない。そこで、もっと良い選択肢を探して彷徨するのが自分探し、ということになる。
多くの場合、こういう自己の存在価値についての悩みは中学、高校生あたりから出てくるようになる。リンク元では親からの承認が必要だという話になっていたけど、それだけではやがて物足りなくなる。「親が自分を承認してくれるのは親だからなのであって、自分に価値があるからではない」という話になる。そこで、手短に承認を得るための手段として彼氏、彼女をつくるというのが出てくる。「彼(彼女)が自分を好きでいてくれる」というのは自我の強力な安定材料になりうる。「職場で自分は不可欠な存在」だという思いを悪用したブラック企業による「やりがいの搾取」も同じ話。なので、親からの承認だけでは根本的な問題は解決しない。
とはいえ、それでも親による承認は無いよりもあったほうがいい、と思う。無論、存在価値の肯定を家族だけに委ねることが正しいか否かは別として。最初に書いたように、現代社会ではどうしても自己の存在価値は動揺しやすい。封建社会に戻すでもしないかぎり、それは不可避だ。そんななかで、自己の存在価値が見えなくなったとしても、無条件に自分を承認してくれる存在がどこかにいるというのは、やはり安心材料になるし、厳しい選別の過程に入っていくための足場になりうる。
子育ての観点から言うと、別に徹底的に甘やかせと言っているわけではなくて、自尊心の確立と躾とのバランスをうまく取っていく必要があるんだろう。テストの出来が悪くても、受験に失敗しても、「それでもお前は自分たちの大切な子どもなんだ」と言ってあげられる親であって欲しい。
宗教による自己承認の獲得は否定しないけど、食いものにされてしまう可能性はちゃんと考える必要がある。宗教に目覚めた人たちの迷いのなさは羨ましいような気もするが、怖くもある。外部社会や異教徒との闘いに自己の存在意義を見出すようになると手に負えなくなってしまう。
この問題に「こうすればいい」という万人に効く解決策はたぶん存在しない。個々人が自己の承認欲求と向い合って、その不安定さを受け入れていくしかないように思うのだが。
家族が家族の「承認欲求」を満たすなんて、 そもそも、無理があるんじゃないかな、と思ってる。 だって、「家族」なんて、自分では選べない人間関係の最たるものじゃん。 実親だっ...
anond:20130501212734 宗教による自己承認の獲得は否定しないけど、食いものにされてしまう可能性はちゃんと考える必要がある。宗教に目覚めた人たちの迷いのなさは羨ましいような気もす...
anond:20130501212734 宗教による自己承認の獲得は否定しないけど、食いものにされてしまう可能性はちゃんと考える必要がある。宗教に目覚めた人たちの迷いのなさは羨ましいような気もす...