はてなキーワード: 世界新とは
どうしても到達できない事もあるけど、頑張って100mで世界新出す!とかね。
身長とか生まれつきので無理な事もある。
でもこの世の大概のことはすぐには到達できないけど、
長期的にみて積み重ねていけば大体到達出来るモノばかりだと思うね。
対立利益の調整がとれさえすれば、余計な規制はいらないんじゃないの。
仮に目指すのだとしても、個人の尊厳からすれば、人権制約は必要最小限度であるべきで、それこそ公益の最大化じゃないのか。
国益なら、統治機構としての利益なのか、国民全体をも含む利益なのか。
公益なら、公の利益というのは何なのか。私益との対比に過ぎないのか。
それは最大到達地点を目的地と設定するからだろ。
だから、世界新記録じゃないと金メダルを貰えないのかということになる。
そちらが作った譬えを置き換えただけなんだが。
自分で作った譬えを理解してるのか?
だから違うって。
ダメではないが世界新記録を目指さないというスタンスは「無い」。
たとえば陸上競技において「早いほうが良い」という価値基準があった場合、何の制約もなければ最速を目指すのが順当だろう。
逆に言えば最速を目指さないとすれば、それは「早いほうが良い」という価値基準以外の何かが働いているからだ。
こちらがいってるのは、競技が行われた後の表彰などの段階での話。
存在している。が、要素が複数重なっているために単純にひとつの要素だけを最大化することができなくなっているだけだ。
なら、永住外国人地方参政権も、重国籍容認も同様じゃないのか。
何故、国益だけその最大化が求められることになるんよ。
コンセンサスがとれてないと、なんで不可能であるというニュアンスが必要となるの?
飛躍じゃないのか?
会社からあなたの年収を1万から1000万の間で自由に決めていいですよ、と言われて1000万を選ぶことが順当であることが理解できなかったら、俺には説明のしようがないかもしれない。
その例は不適切だろう。
それだと、「参政権がまったくないのと、地方までの選挙権、さらにその被選挙権、国政…との間で自由に決めていいですよ」ってなるんじゃないの。
権利の付与に対する要件がそもそもの論点のはず。
そうすると、経営者が従業員に対し、「賞与など基本給以外は最優秀者のみに支給する」といってるようなもんじゃないの。
成果を国益に置き換えたら。
違うね。オリンピックのたとえで言えば金メダルを目指すことはあり得ても、敢えて銀メダルや銅メダルを狙うというのはないだろうということだ。
(実力の関係で銀、銅あたりを現実的な目標に据えることはあるが、そういう場合でももし金が取れるなら取りにいくのは間違いない)
違うって。
通常は、優勝者であれば金メダルが授与される。
しかし、最大化ということは、世界新記録でなければダメっていってるのと同じ。
対戦競技など比較すべき記録のない競技であれば、優勝者は必然的に金メダルで過去との比較が一義的に決められないから、譬えを代表選考にしたけど。
評価軸が1つならば、その軸にそって最大化を目指すのが議論としては順当。
いや、だから何故最大化を目指さなければならないの?ってことなんだが。
順当っていうなら、ある水準を超えれば足りるって考える方が順当じゃないのか?
運転免許証は、一定の技量と交通法規の知識を有していれば与えられるだろ。
ここに最大化という概念は存在してるか?
「優越していれば足りる」と考えるのは自由だが、そう主張したいのならその「優越」の基準とともにコンセンサスを取ってからにすべきだ。
そっくりそのままお返しになるが。
何故最大化が順当でコンセンサスを得ていることになってるの?
日本語は気をつけて読んでくれ。
「足りない」ではなく『「足りている」と言えない』と書いている。
反対解釈すれば「足りない」と言ってるだろうに。
「『足りている』と言い切れない」なら、「『足りている』といえることもある」と解せるけど。
根拠もへったくれもない。国が行う行為の評価基準はすべて国益に集約されるのだから、これが「適当なところでいいじゃん」となったら、議論として寄って立つ足場がなくなる。国益の観点をおざなりにするのは、政治の話にみせかけた別の話だ。
いやだから、何故最大化でなければならないのかってこと。
そりゃ、国益よりも公共の福祉に反する事情の方が大きければ、実質的に国益がないのと同じであるってことはいえる。
でも、優越していれば足りると考えてもいいんじゃないのか?
議論の俎上にのせるべきだ、という意見なので必要となるのはむしろ「足りている根拠」のほう。
それをいうなら、最大化でなければ足りないとする根拠の方が必要だろ。
オリンピックで世界新記録でないと金メダルを授与しませんっていってるのと同じじゃないのか。
あるいは、そういった記録でないなら、優勝者以外は日本代表になれないっていうのと同じだよな。
枠が極端に狭い場合は、そうするのも合理的とはいえる。
しかし、そういった枠が設けられてもいないのに、最大化と極端に狭くすることの合理性はないんじゃないのか?
コンセンサスがとれてないなら、そもそも足りるとか足りないという話にならないのでは?
にもかかわらず、「足りない」と断言できるのがどうしてなのか不思議としか。
そして樺美智子さんの死から49年が経った
日米安保条約の空洞化、日米同盟の軽量化、来年は改定から半世紀
昭和三十五年六月十五日。アンポ改定に反対するデモ隊が国会をとりまいた。
樺美智子さんが死んだ。デモの隊列にあって、群衆に巻き込まれて圧死したのだ。左翼はこれを権力の謀殺と宣伝したが、だれも信用しなかった。この鮮烈な記憶があるのも、いまでは還暦をすぎた世代だろう。
昭和四十三年十月八日、佐藤首相のベトナム訪問に反対する左翼学生が騒ぎ、羽田で京大生山崎某が仲間の運転した車に轢かれて死んだ。機動隊は二十数名が瀕死の重傷だった。
昭和四十五年、安保条約の改定から十年が経って「70年安保決戦」が叫ばれた。前年の東大安田講堂と新宿騒乱で前哨戦が消え、左派の分裂は決定的になり、「革命ごっこ」は意気消沈していた。
70年は平穏に幕が開け、左翼は内ゲバに熱狂し、組織は壊滅に瀕し、窮状に陥った日本赤軍派のハイジャック事件と三島由紀夫の憂国の諌死事件で終わった。
いわゆる「80年アンポ」は左右対決の政治状況にはなく、あらかたは体制保守か革命の唄も謳わないサヨクに転じており、サヨク全学連OBは「同窓会」を、そして日米安保二十周年記念の日米シンポジウムが東京で開催され、ゲストのフォード元大統領が来日して「安保改定」を示唆した(筆者はそのおり、会場のホテルに泊まり込んで裏方。広報担当だった。シンポジウムの記録は『日米同盟の二十年』、自由社)。
60年安保の象徴だった唐牛健太郎氏は死去し、西部邁氏は保守の側にあり、江田五月氏は国会議長となり、清水幾太郎は「核の選択」を主張した。
情勢はめまぐるしく変わった。東西冷戦の終結は、なにを意味したか?
日米安保はソ連、中国、北朝鮮を仮想敵に防共の軍事同盟ではなかったのか?
ところが主要敵だったソ連が崩壊し、ワルシャワ条約機構は消滅し、NATOは性格をかえて、イランを囲む新型の防衛機構に早変わりし、中国は時代にふさわしい<?>「上海シックス」を主導して米国の金融秩序へ挑戦を始めた。
▲戦後秩序は劇的に風化した
英米同盟は軽くなり、NATO五十年式典は独仏国境で開催されたが、オバマが出席したものの、興奮状態にはなく、むしろチェコで『核廃絶』を訴えた。
ロシアはNATOのチェコとポーランドのレーダー基地化に反対を唱える。しかし、グルジア、アゼルバイジャン、ウクライナのNATO入りが時間の問題となっている。
イラク戦争のおりに、ロバート・ケーガンは「ネオコン」の論理を代弁し、世界の警察官としての軍事力にひいでた米国の一極体制が復活する。世界秩序は保たれると言い、ホッッブスの説いた「リバイアサン」という怪獣の「力と畏怖」のイメージに世界新秩序の基軸を置いた。
しかし現在の世界は、イラク戦争、アフガン空爆で復活した筈の米国リバイアサンが衰退し、G2という不思議な時代にはいった。
米国はこれまでの国家の性格をおおきく変貌させようとしている。もっと言えば、米国みずからがリバイアサンを峻拒し、「普通の国」になろうとしているかのようだ。
NATOの運用比重を独仏英主導に移管しつつあり、G2時代の到来は、次の日米関係を曇らせる。
こうした歴史のパラダイムのなかで、平成22年(2010)は、安保条約の改定から半世紀を迎える。日本の生命線と言われた日米同盟だった。生命線?
安保議論は風化し、「事前協議」条項はかるがると無視され、沖縄の海兵隊も横須賀の空母も、戦争地域に向かった。
そればかりか日本の自衛隊は「集団安全保障」「極東条項」の議論を忘れたかのようにPKOはカンボジア派遣から開始されて、いまではイラクのお隣、ゴラン高原、モザンビーク、スーダンへ向かった。役割を分担しながらも、陸海空全軍が出動した。
日米安保条約は風化した。というより事実上、性格を変えている。日米同盟の存在意義は、鰹節よりも軽くなりつつある。
吹き飛ばそうとしているのは日本ではなく米国である。アメリカは中国重視にかたむき、ヒラリーもガイトナーも中国に揉み手して、{G2}と言いだし、日本が期待した北朝鮮へのアプローチは曖昧、投げやりとなった。アメリカはこの問題から逃げた。
拉致問題に積極的ではなくなり、「それは日本の主権の問題であり」、北朝鮮の核武装は容認し、中国の出方をひたすら待つ。
これがオバマの米国、衰退途次の米国の姿である。(http://anond.hatelabo.jp/20090615232944に続く)
問題なのは、適切な賃金が支払われていないことなのですよ
そのルールを破ってまでコストを削減しようとするのはいけないことなのです
ほら、競泳でスキューバ用の足びれつけて世界新出しても意味ないでしょ?
いやまぁ、水泳やってないから本当に早くなるかどうかは知らんけどさ
そうじゃないならちょっと考えてみてください
ヤマダがタダ働きさせる
→ドミノ式に不況の連鎖が起こる
ほかにも競合店が同じようなことをせざるをえなくなったり、
中小の小売店の圧迫(それに伴う失業者の増加や資本の集中)があったりと、
ルールが定められているのはそれなりの理由があるのですよ
(中小の小売店に対して大資本が有利なのは”ある程度”仕方ないけどね)