共有したい話題はあり、日常で面白いことに出会い感動したりもする。
ネタツイのような笑わせる文章を思いつき、ニヤつきながらメモしたりもする。
勿体ない気がするのだ。
他人に見せるほど価値あるアイデアならば、どうせなら自分の評価に繋がる場所で披露したくはないか?
もしそのアイデアが評価されたとして、自分が何一つ褒めてもらえないならメモ用紙を破って捨てるのと変わらないではないか。SNSでは「これ面白いなー誰が書いたんだろう」とはなっても「その誰かはどんな人物なのかな?」とはならない。アカウントという私の代弁者はいても私ではない。
だからそのアカウントが評価されても私は何一つとして満たされないままなのだ。
一言で言ってしまえば"顔を出したい"。顔を出したうえで評価されたい。
私のX(旧Twitter)アカウントのフォロワーは200人。殆どは業者、フォロバ垢。
何もツイートしてないのでこの少なさは当然だ。
しかし、こんなアカウントでさえ自撮りを載せたいのに載せられない悔しさで悶々としている。
顔を出したら無限の引き出しを開けられるからである。絶対に面白いって言わせられるのに。
そうまさに、この“顔出し“という行為こそが「自分が評価されたい」気持ちの発露である気がしている。
絵師や実況者やら歌い手やら才能を評価された人間が、評価された後で顔を出す理由もこれで説明できる。
皆が憧れ敬意を抱く存在が「それ自分っす(照)」と公表するのが顔出しなのだ。
あわよくば顔も褒めてもらえたら嬉しいしな。
よーーーーく分かるよ気持ちは。
最近はネタツイッタラーも自撮りを載せるしな、みんな承認欲求に飢えているんだろう。
さて、こんなことを書いてはいるが本当は顔を出さずとも自己表現がしたいのだ。
処女作が名作になる人物はいない。だからいつか咲ける場所で咲くためにも、匿名で誰にも認識されない空間でも七転八起の精神で自分を磨くべきなのだ。アウトプットは大事なので、それは絶対に正しい。
けれどもイケア効果のように自分から生み出された発想、才能の断片が余りに美しく素晴らしすぎて、
それが、誰かに真似されて自分のものではなくなってしまうのを酷く恐れている。公共のものになることを酷く恐れている。今もスマホのメモ帳にルーズリーフに、無数のネタツイと小説のアイデアが窮屈そうに眠っている。
今すぐ、こいつらを解放してやりたいけどできない、何度も書いたように自分が評価されないので。
自己表現はむつかしい。自縄自縛なので頑張れば払拭できるくらいの難しさだが、むつかしい。
この文章を登録するときも指を押さえつけ歯を食いしばりながら悶々として5分、なんとか公開できた。
何かブログに書くべきだったか、そんなもの持ってないが、匿名で消費するには惜しすぎるな。
そんな価値がないなんてのは薄々知っていて、誰にも読まれなかった時に確信するのだが、