久しぶりに松任谷由実の曲を聴きながらこれを書いている。明け方の夢のなかに松任谷由実が出てきたからだ。
ゆうべ私は、エイジングとアンチエイジングについて書籍や文献を整理していた。だから寝しなまで、健全に年を取ってゆくとは何か、思春期が終わって中年期が始まって、それから老年期に至るとはどういった変化なのか、自分自身のことや家族のことや友人のことを考え続けていた。そうしていたら、今朝、悲しい夢を見て目が醒めたのだった。
夢は、どんなに意味不明な内容でも、夢を見た本人には意味が直観されることがよくある。今朝の夢もそうで、とりとめない日常生活の連続からなるシーンの最後に、私は無意識からメッセージを叩きつけられた。
古いスケジュール帳と、今は亡きはてなダイアリーの画面が夢のなかに現れて、そのとき、松任谷由実『リフレインが叫んでいる』が頭のなかに響いた。その瞬間、私は今という時間が過去になりつつあることを悲しく思っていること、今を手放したくないけれども時間が押し流していってしまうことを直観してブルーな気持ちになった。
今が終わりに向かっていること、時間が流れていくことを、私は怖いと思う。
たぶん私は幸福な中年だ。私が、今の私でいられることをうれしく思っている。仕事はそれなり充実し、長く連れ添った嫁さんとの仲も良いほうだと思う。日本人の夫婦はセックスレスになっていくというけれども自分たちはそんなことはない。回数は減ったけれども、若い頃よりお互いのことをよく知っているから幸せな時間を過ごせていると思う。そして嫁さんはまだまだ綺麗だとも思う。
けれども、そんな夫婦の今さえ永遠のものではない。時間が押し流していく。
10代や20代の頃は無尽蔵に思えた性欲と精液が30代にはそうとも言いきれなくなり、40代になって更年期の足音が聞こえてきた。インポテンツには遠いけれども、自分の性欲や精液を慈しむように、丁寧に取り扱わなければならなくなった。性欲や精液をどこに差し向けるのか、宛先が嫁さんなのか、アドマイヤベガなのか、かわいすぎる涼宮ハルヒなのか、ともかく、貴重な資源として分配しなければならないものになってしまった。性欲はもう、川から汲んでこれる水のようなものじゃない。いつか枯れる化石燃料のような資源だ。昔どこかの本に書いてあった「精液をケチる中年男性」というフレーズの意味が今は実感を伴ってわかる。若かった頃は、そんなバカなと思っていたものだが。
そうでなくても、私も、家族も友人や知人も諸共に年を取ってゆく。体力や思考力にも限界がやって来る。時代だって変わってゆく。それが定めだ。時間に逆らうのは無駄だ。すべてを変えてゆき、すべてを押し流していく時間法則には絶対性が伴う。私たちは変化する存在で、変化する存在だから、変わっていかなければならない:真実としてのそれを、私は学習と経験と文献をとおして理解はしている。
けれどもその理解に対して、私の無意識はそんなのは悲しいと叫び声をあげた。夢に松任谷由実を登場させる、というかたちで。ああ、本当は変わりたくないし、今がいとおしくてたまらないんだなとわかった。これまでの人生でずっと変わり続けてきたし、変わり続けることを良しとしてきたけれども、変わり続けることに不安や辛さを覚えながら、少し無理をして人生のモードを切り替えてきていたのかもしれない。それでうまくいっているつもりだった。客観的にはうまくいっているほうだろう。これからだってそうするしかないことを知っているつもりだった。知っている。それでも無意識は、本能は、年を取って変わっていくことを悲しんでいる。
そういう気持ちで松任谷由実を久しぶりに聴いているなかで、今という季節が失われても、その思い出は甘く残るという予感が得られたのは小さな救いだった。今のこの幸福を、二十年後の私が松任谷由実を聴くような気持ちで思い出せるとしたら、それ以上を望むのは欲深に違いない。だけどああ、今朝は、若さが失われて老いにとってかわる過程に痛みをおぼえる。10年や20年なんてあっという間だ。その頃の私は、もう今の私ではなくなっているだろう。
まだしばらく、このままでいられたらいいのにな。いられないのだけど。