今になって思えばよくもまあネタが尽きないなと思うが、学校から帰宅して部屋に戻り、一心不乱に日記に日々の想いを綴っていたときは、それが「ネタとして成立するか」なんて何も考えていなかったし、感じたことや考えたあれやこれを文章として表現できることそれ自体に満足感を覚えていたのだと思う。詩を書いてみたり、絵を描いてみたり、時には他人への恨みつらみを書きなぐっていた。
そこには確かに表現の自由があり、自分が自分でいられる聖域だった。
その日記は14歳から始まり、述べ20冊ほどの思春期の秘密を溜め込んだノートを生み、大学に進学してからはmixiという別の形になっても続いた。
サークル活動、友人関係、バイト先での出来事、恋人への想い、就職活動中の葛藤はmixiに今も残っている。この頃から、誰が見るということを意識して文章を書いていたと思う。とはいえ繋がってるのは大学と高校の友人で総勢60人ほど。程度の差はあれど「近しい友人向けの文章」という意味では表現に大きな制約はなく、想うままの表現がまだそこには存在していた。むしろ、利害の関係ない友人に自分の感じていることを表現出来ることに喜びも感じていた。
就職し、転職や起業と生活が劇的に変わってく中でもmixiでの日記は細々と続いていたが、徐々にその表現も形を変えていくことになる。Twitterの台頭だ。
これまでと違って全く知らない、見ず知らずの人たちとの交流。そこから広がる新しい世界に僕は没頭していった。そこで出会った人たちと飲みに行ったり、遊びに行ったり、恋をしたり、喧嘩をしたり。
Twitterは1回の投稿が140文字という制限があり、うまく文章を考えないと意図しない解釈をされてしまったり、不要な誤解を生むことがある。
僕はTwitter上の人間関係や自分の立ち位置を意識し、140文字で効果的な表現をし、起業論や恋愛論をそれっぽく語った。
僕の表現はリツイートやお気に入り登録という形で承認され、それがより一層Twitterへの依存を促した。
そこから2~3年経ち、会社は理想的とは言えないが成長を遂げ、Twitterのフォロワーも3千を超えている。フォローが200人にということを考えればまあまあ悪くないアカウントだ。
そんな今、何をするにも息苦しい。
利害関係のある数多くの人間関係を抱え、無遠慮な数百の表現を日々タイムラインから浴び続け、表現したい気持ちはあっても、そもそも何を表現すれば良いのかもわからなくなってしまった。
いかに自分が優秀で、人生を正しく前進させているのか、それがどれだけ嫌味にならず効果的に伝わるか、そういったことに思案を巡らせることに疲れてしまった。その疲労は表現の源泉である感性を枯らし始めてさえいる。
「誰も見てないのに何を書けば良いのか・・・」と途方にくれてしまった。
自分一人の自由な表現から始まったはずなのに、今は誰かが見ている前提でないとアウトプットが出来なくなってしまった。
息苦しい。
もう一度戻りたい。
リツイートされるような面白いネタや、いいねされるような輝かしい毎日を表した写真のことを何も考えずに、ただ生きているだけでノートが埋まっていったあの頃に、もう一度戻りたい。