2014-09-02

究極のコミュニケーション能力

コミュニケーション能力を語る記事はいつもなんだかなーとなる。

社会的に優位になるという利己的な根拠を武器として振りかざすことが前提で、むしろ無い奴は駄目。

という、相互理解どころか同調圧力による排除を促進してるように見える。

それは本意ではないのは分かる。

そういう記事を書く人達は、別に同調圧力で何かを排除したいのではない。

自分に足りないから獲得したい。という自戒である

利己的になってはいけない。そうなれば幸せになれるはず。という願いである。

しかし、その自戒と願いが表出して誰かに伝達された時、まさにコミュニケーションが発生した時。

その伝達された誰かの内、ポジティブに望まない者は、それを疎外感として受け取る。

その状態を、彼らのいうコミュニケーション能力という定義にあてはめたならば

自分が言いたいことだけ言ってまわりの人間がどう感じ取るかも考えてない人。」

になるのではないか。まさに彼らが否定排除しようとする鈍感な人間象徴なのでは。と思ってしまう。

から、そうして、コミュニケーション能力ってなんだかな。という無力感にいつも襲われる。

じゃあ、みんな何も言わずに黙ってればいいのー?

でも、そうじゃないよね。例えばさー

高度に専門的な知識を持った人同士なら、互いのアウトプット歴史があれば

今その人が何を考えてるか、その人がどう思ってるかとか理解できるよね。

正確には、アウトプット歴史を、自分の持つ思考や知識で、深く噛み砕いて

相手の思考や感情類推して、相手を理解できたと思いこめる。

そういう瞬間って誰にでもあったと思うのよ。

高度な知識じゃなくてもいい。

あなたと誰かしか知らない秘密でも良い。

彼と我。その二人の間だけに伝わった何かに気付いた時。

それは時を超えてても良い。

昔の人が残した記録を、自分の中で噛み砕いたと確信した時。

人はその人を理解できたと幸せになれてね?

でも、それって所謂コミュニケーション能力が高いか?

しろ、そこには言いたい放題言ってる人間と、勝手に思い込んでる人間

自己満足な鈍感な人が二人いるだけだよね。

でも、良いじゃん。それで。

だって、それがクロスした時、その人達って相互理解どころじゃないよね。相互理解相互だよね。

って思うのよ。

コミュニケーション能力という力を使って

定義もばらばらな言葉の上澄みをなめあって、互いの奥底の理解を諦めながら

それでも数投げ合えば意思疎通できる。という共通幻想の強化よりも、よっぽど共感できる。

なあなあに合わせたその感情よりもよっぽど尊く感じるよね。

でも、そんな奇跡みたいなクロスはそう簡単に起きない。

それを信じて生きていけるほど、この世界は個人に優しくないことも分かる。

特に俺に。

でも、それは諦めたんだよ。諦めてこの世界と戦うために、折り合いを付けた技。

それがコミュニケーション能力だろ。


何尊いモノ風に語ってるんだよ。ふざけんなよ。って話ですよ。

本当に尊いものは、そんな上澄みじゃなねんだよ。

まとめると、コミュニケーション能力かい言葉見てると

俺がいらいらするから、それぐらい共感してみせろよ。

コミュニケーション能力高いんだろ。というそんな話。

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