ハロワってPCもろくに使えないような底辺労働者(求職者)の行くところ、というイメージなんだけど、そうでもないのだろうか…。
こいつ怖い。
やっても罪悪感ゼロ。
ハロワってPCもろくに使えないような底辺労働者(求職者)の行くところ、というイメージなんだけど、そうでもないのだろうか…。
私は言われたくないな。
まあ、感覚は人それぞれだから一概にどうとは言えないよね。
相手との関係性とかその場の雰囲気にもよるし。
まだけっこう年齢制限あるよ。「特定の年齢層が少ないため」とか何とか言ってさ。
表向きなくても中ではねたりしてそうだしね。
補足:
年齢制限は基本禁止ってことになってるけど例外規定がある。
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=001263&__m=1
でもなー、いかにも若手多そうなベンチャーっぽい企業が「社内の年齢構成がいびつ」って理由で「30歳まで」とか年齢制限つけてるの見かけたりするんだよな。
http://anond.hatelabo.jp/20090523220328
重度障害者なら障害者年金が出るよね? 介護保険制度と合わせて、自立させることも出来ると思うんだけど、ご両親は「兄を自立させる」という方向には考えないの? いずれにしろ、子供に対して責任を持つのは「親」であって、「兄弟」には責任は無いよ。
ご両親が「面倒みてください。お願いします」というのなら、元増田に出来る範囲のことをすればいいよ。とりあえず、東京で就職して(給料が違うでしょ)、少しは仕送りするという約束をしてあげたら、それで充分じゃないかな。
子ども作る気満々だけどなかなかできないカップルが存在することを知らないのか?
30過ぎで本当に子どもが欲しいと思っている人にこそ「早く作った方がいいよ」なんて言ったらいけないと思うのだが。
http://anond.hatelabo.jp/20090525194058
そんなにストレートに迫らなくても「家族が欲しい」と相手が思うようなキッカケは掴めると思う。相手のご両親の具合が悪くなるとか、相手が病気して看病される必要が出てくるとか、共通の趣味を持って、ずっと話題を絶やさなければ、「話し相手が身近にいるっていいなあ」と思うかも知れない。彼の性格によって、攻め所は違うだろうけど、そんな「敗北」とかいって、力入れてるより、生活上の良いパートナーとしての自分をアピールすればいいんじゃないかなと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20090525175633
相手だって、良い大人。自分の言動には自分で責任を持つんだから、元増田が心配することない。「早く子供欲しいね~」というのが、実はパートナーに対する牽制だったりするかも知れないが、そういうことに気を回し始めたらきりがない。文句を面と向かって言わない相手は(友達じゃなかったんだな)と見切ってしまえばいいじゃんか。
写メってのは、場所を取らないから、案外、ねだるには手軽なもの。送っておけば大事に取っといてくれて、本当に元増田の子供に関心があれば、成長するたびに写メを要求してくるだろう。大事でなければ「ミスして消しちゃったゴメンね」と言ってきて終わりだから心配ないらん。
とにかく、知らないもの・人が怖い。
初対面の人とは上手くしゃべれないし、初めて行くお店にはなかなか入れない。何をするにしても、自分が何をすればいいかわからなくなると、とたんにしり込みしてしまう。勝手に想像して勝手に怖がってるだけなんだろうけど、どうしてもそうなってしまう。
結構そういう人多いのかなと思って適当に色々考えて一つ思ったのが、スイーツ(笑)に代表される「集団を勝手にカテゴライズして論ずる」ことって、「知らずもの怖い」というのが根底にあるのかもということ。「怖い」っていうのは言いすぎだと思うけど、知らないものに対する漠然とした不安みたいなものを、勝手に想像して決め付けて取り除くみたいな。
でも、わかんないな、本当にそんなことあるのか。わかんない・・・なにそれこわい。
いろいろと違和感を感じている者ですが、別の意見があればというお話のようなので、少し文章をまとめさせて頂きたいと思います。
一番違和感を感じたのは、「日本人女性の精神が~」というところでありまして、例えば私なら「日本人の精神が~」とするところです。それならば対して文章にひっかかりを感じないのです。なぜ「日本人女性」にこだわったのか、その辺りの考察は少し後回しにするとして。あと「軟弱」というのもこの場合、適当であるのか、ちょっと違う気もするのですが、おおよそ同じ意味で「軟弱」としておきます。
ディープな話にのってこないのは、いまや男性も女性も一緒だと思います。女性を「軟弱」と言うのであれば、男性も「軟弱」です。
男性だって不満を直截には言わず、臭わせるように言って、最終的には「あいつバカ」と他人に言うのは、書かれている「ネチネチしている」の例とまったく同じで、だた性別が男女逆転しているだけであると思います。
無理難題をふっかけて、それができないことをいつまでも他人に愚痴るというのは、なんというか自分の親を思い出してしまいます。その点で言えば、不満を臭わせる態度を見せ続けるのは、昨日今日出てきたものとも思えません。もうずっと以前から、不満を臭わせ、なんども臭わせ続け、最終的にその人格の否定するというのは、見てきていて知っています。
さてここでなぜ「日本人女性」としたかについての私の推測ですが、かつては「我慢するかより強く要求」していた女性が変わってしまったことに気が付いたのでしょうけれど、それは単に「女性」が「男性」の手法を真似るようになったからではないでしょうか。臭わせて臭わせて最終的に陰で人格否定するのは、そもそも「男性」の手法であったと思います。
さらに言えば、ただの模倣であることが「日本人女性」の異常性ととらえるほどになったのは、ようするに「男性」の手法が「女性」のコミュニティに合っていなかったということではないでしょうか。私は「女性」のコミュニティが年々小さくなり続けていることがその異常性というか違和感を、より大きなものにしていると思います。
ジェンダー論はとりあえず明るくないので、軽く言わせていただきますが、女性は女性であるというだけで、世の中とっても生きにくいのだと思っています。少なくともいろいろ男性よりはしんどいと思いますよ。
例えば核家族化とか、そうした環境のなかで生きていくと、どうしても横の繋がりができにくくて、主婦とかはかなりコミュニケーションレスな生活になるような気がします。身近なコミュニティはPTAであるとか限定的なもので、たくさんのバリエーションささえられているようには見えません。欧米ではご近所でのバーベキューとか、大小のコミュニティを作ってコミュニティ不足を補完しているように見えます。男性が「我慢するかより強く要求」ようになっているなら、それはよりコミュティにおいて充実しているからではないでしょうか。いまではネットを使うというコミュニティ参加もあるわけですが、これが「女性」たちにどれだけの充実感を与えているかは正直わかりません。充実感を与えていないのでしょう。
「人のせいにする」のはむしろ私は欧米の専売特許であったと思います。政治などを見る限り、バッシングは一つの手法であるますし、個人同士で使うなら、「人のせいにされる」「されかえす」というのが基本で、まだそれが一方通行なのであると思います。あるいは一方通行になってしまったか。その意味でいえば「軟弱」になったと言えるかも知れません。「男性」も「女性」も。タフでいることはすげーくるしいことです。フィリップ・マーロウではありませんが。不必要に我慢強くなるより、誰かのせいにするほうが、ずっとバランスのとれている人間だと思います。
私は「日本人女性」とはとらえず「日本人男性も女性も」ととらえますが、会話のからまわり感は非常に危惧しています。気心が知れていると思っていた連中が、突然空中分解を起こす恐怖は、何度味わってもいいものではありません。
そういう意味で言えば、女性のコミュニティの健全化やコミュニケーションの発達は、状況を大きく変えるのかもしれません。欧米化がいいとはなかなか言えない所ですが、牧場ぐらいやってもよかったんじゃないかと。
とりあえずざっくりと。
おまえに責任をとるっていう思考はないのか。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1031を読んで。
著者は富士通総研の方だが、こういう文章を読むと気になるのはシンクタンクに関する整理である。多様なことをしているので、こういった整理は一概には当てはまらないと思う。
但し、危機なのに肝心の「専門家」が知恵を持っていない状況が浮き彫りになっているという指摘は事実だろう。
なぜなら、コンサル部門は知らないが、調査・研究部門ということで言えば、シンクタンクが追っている問題は個別具体的な「今」の現象に関する調査に偏っているためだ。大抵調査部門は委託調査ではなく、マクロ経済調査のように独自に発信する形が取られているが、そこで必要とされているのは直近時点のマクロ経済に関する話題である。速報性が求められる中では、現象面の説明に終始するのがもっとも手早いやり方となる。理論的な枠組みに即していないため、その場限りの場当たり的解釈が横行することになり、結果として調査する人間自身も右往左往することになる。そして理屈に基づく説明は得てして分かりにくいので軽視される。(※)
調査・研究部門として金融系のシンクタンクが担っているのは官公庁・地方公共団体からの委託調査である。この場合、調査テーマは委託元から与えられ、指定された内容・スペックに基づいて調査が進められることが多い。例えばある政策を行うための調査であれば、それが重要なものであるほど政策の是非ではなく、政策を行うことでいかに有効な効果があるのかをひねり出すことが要求される。その過程の中で政策を行う際の周辺環境や経済動向といった事象についての整理・調査・既存研究に関して調査が行われる。当然ながらある政策を行うための調査なので、政策パッケージ全体を見通した場合の評価といった視点は必要とされない。
著者が指摘する企画立案能力の低さについてだが、仕事で業績を上げようとすると、与えられたテーマをいかに効率的かつ多くこなすかにかかっているので、自然と現実社会から乖離してひたすら仕事のみを行うことになる。関わっている仕事が現実社会から遊離するテーマであればあるほど、例えば経済を対象としているのに現実経済で何が生じているのか分かっていないことになる。これでは企画立案などできない。元々必要とされていないので別に良いのかもしれないが。
純粋に調査のみを行っている人間は、政策担当者との接点は皆無であるため、問題設定の仕様が無い。これがあやふやな研究が横行する理由である。先とも絡むが、そうすると現象を忠実に再現することしか仕様がないのは道理だろう。勿論、現象を正確に理解することは必要だが、先程も指摘したとおり、理解・解釈を支えるための理論が無いので一貫した形で解釈がなされない。海外経済動向は海外研究者の論説を読んだほうが数倍有用なのも道理である。程度の低い研究員になると海外雑誌・新聞の論調を集めて発信するのが研究だと思っている節もある。そういう人間の調査は信用できないのは道理である。
(※)ご存知の通り、経済学の場合の「理屈」とは、しばしば人の直感と相反するものがある。この意味で適度に大仰な物語(帝国主義とか何とか)を提示した上で、ポイントポイントにもっともらしい事実を織り交ぜて人の直感に訴えるようなお話を仕立てると世の中の人の多くは「そんなもんかぁ」と思ってしまう。その論理の中には(大げさにいうと)理論は存在しない。株価が上がったり下がったりすると海外投資家が構造改革を督促しているといった類の話が典型例である。