はてなキーワード: 哲学者とは
そういう当たり前のことであってもなんでもかんでも根本から問うてみてる自分、哲学者みたいでカッコイイ!みたいな感じで哲学病に陥る時期ってあるよな……
論理的思考力というのもそうなんだが要するに集中力と持続力ですよ。
だから、1年かけて絵を仕上げたとか、不利な対局でも投了を認めざるを得ないとこまで
がんばるとか、そういう事と等価な部分はあるでしょう。うんざりするような単純作業を、
完成形をイメージしてこつこつ進めるという事は、「すぐに結果を出すこと」とは矛盾するし、
頭のよい人ほど安直に結果を出すことを求められがちになるけど、みんながそれをやったら
責任のなすりつけあいと業績のかすめとりあいで社会が貧しくなるので。
ただし特に数学をやっときゃよかったと思うのは「数式の読み方」がわからないことです。
オイラー(理系、数学者/天文学者、有神論者)が無意味な数式をディドロ(文系、哲学者、
無神論者)に突きつけて、「ゆえに神は存在する、返答せよ!」と恫喝した、という
ネタがありますが(ちなみに実話ではないそうです)こういう不安感は一介の文系としては
いつも持っています。そうすると、ちょっと数学を知っている人が tips 的なものを書い
たり、最新科学の業績について「わかりやすく」解説した本とかを買って読んで何の役にも
立たないといったことにもなるわけで、そういうのが嫌なら少し勉強したほうがいいです。
まぁなんというか工学的制御の結果として「一定速度」とかを実現している電車の
到着時刻を考えるのに微分方程式は要りませんよね(時刻表を見ればいい)。で、最短
ルートを求めるという「組み合わせ最適化」についていえば数学ができることは
それほど強力ではないし。エンジニアリングがうまくいって世の中に人工物が溢れた
結果が、数学があんまり役に立たない、という現状をもたらしたともいえます。
http://anond.hatelabo.jp/20080122184151
残念ながら氏の事は全く知らなかったけどさ、
須原一秀氏の著作についてざっくりネットでしらべてみたよ。哲学者としての評価はどうだか知らないけれど、著書はどれも、とても面白そうだ…!かつ、読み易いらしいし。
単なる大学時代の一般教養の講義の先生を、「知人」とまで言ってしまう気持ちが分かる気がした。
早速注文してみた。
http://www.shinhyoron.co.jp/books/newb/0473-3.htm
http://www.amazon.co.jp/dp/4794804733
〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した―
http://www.junkudo.co.jp/syohyo200503/syohyo3-tyosho.htm
http://www.amazon.co.jp/dp/4794806523
氏のはてダ →http://d.hatena.ne.jp/KANTAN/
須原一秀とは→http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%DC%B8%B6%B0%EC%BD%A8
というか、自殺してた。
今日、いつもは新刊とかはAmazonでチェックしてるんだけど、なんとなくbk1に行ったら、
トップにこんな言葉があったんだ。??
で、気になってクリックしたらこんな本が出てきた。
http://www.bk1.jp/product/02957714
あれ?須原一秀?この名前なんか見覚えあるぞ、って
俺この人知ってるじゃん!! 龍谷大で教えてもらってた先生じゃん!!
えー、なに自殺? わけわかんねー!! なんだよこれ!
ぼくと彼とのつながりは、数年前にぼくが龍谷大学に在籍してたときに彼が非常勤講師として勤めてて、
彼の担当する講義を一般教養で受けた、というものだけなんだけど、けっこうショックだった。
いま思えば、ぼくは彼のことをなにも知らない。
妻帯者だったのか独り者だったのか、子供がいたのかどうかさえ知らない。でも、ショックだった。
そんなわけで、当時龍谷大学か立命館大学に通ってた人、なんでもいいから彼のことを教えてくれませんか?
当時のキャンパスの様子とか、ほんとなんでもいいから。
それはなぜなのか。
だから、哲学をすると大病を患うという考え方は第三者的発言である。
彼らは身を滅ぼすほどに苦しい立場にいたが彼らはこの不運を自ら楽しんだ。
苦労を考えるという方法を使って。
彼らは人生を楽しみ生きるというとの醍醐味を味わったに違いない。
by kaeru
言葉というのは、ときにゆかいな気分にさせてくれることのあるものだし、(これはほんとうのことだが)人生を歩むために必要な勇気をあたえてくれることすらある。SF小説のなかの人物が語る、ほろ苦い感傷に満ちた言葉が好きだし、ロシア小説の人物がつかう奇妙な言葉遣いも好きだ。科学者がつかう飾り気はないが力強い言葉も、哲学者のつかうすこし大げさだが確固たる価値観を持った言葉も、ともに勇気をあたえてくれる。こういった言葉の使い手たちは、読むもののこころを高みへいざなってくれる。言葉をつうじて、見たことはおろか、想像もしなかったような世界を見ることができる。ほかではけっして味わえないであろう、独特の興奮に満ちた体験を与えてくれる。だから、言葉が好きだ。
しかしながら、おれの目から世間を見ていると、逆に、言葉にむなしさを覚えることも多々ある。そんなに軽く言葉をつかって、むなしくならないのかと思うような、空虚な言葉に満ち満ちている。
言葉が価値を持つための必須の条件のひとつに、「使ってるやつが、それを本気で信じている」というのがあると思う。あるいは、すくなくとも、「本当かもしれないと信じている」でもいいが。「おまえそれほんとに思ってるのか?」とか、「おまえぜったいそんなの自分でも信じてないだろ」と疑わざるを得ないような状況というのが、ほんとうに多い。おれに言わせれば、世の中の多くの人間は、言葉を軽く使いすぎる。
もちろん、日常生活で冗談を言うなとか、そういうことではない。そういうレベルの話ではないのだ。おれだって、日常ではナンセンスな軽口を叩くことはあるし、そういうやりとりは嫌いじゃない。でも、冗談言う場面と、ほんとうのことを言う場面の区別っていうのは、なければならないもののはずだ。しかしどうにも、本気な顔して冗談みたいなこと言ってる連中が多すぎるように思える。
今日は、そういう彼らや彼女らのことを考えた。いったい何を考えているんだろう。その言葉になんの意味があると思っているんだろう。もっとも素直な回答は、彼/彼女らが言葉を軽視しているという説だ。彼/彼女らは、本当のことを言わないことに慣れているし、そのことをなんとも思っていない。きっと彼・彼女らは、「ほんとう」ということ自体に、価値を見出していないのだろう。実際、数は少ないが、これまでの人生で、何人かそういう人物に遭遇したことがある。そのうちのひとりは、あからさまに嫌なやつだったので、単に無視していれば済んだのだが、なかには、悪いやつには思えないようなやつもいた。そう、言葉を軽んじているにもかかわらず、いいやつというのが、存在するのだ。
べつの回答もある。もしかすると、ああいった人たちは、自分でも、「自分がそれを信じている」と思い込んでいるのではないだろうか。つまり、かれらは、自分がほんとうに何を考えているのかということが、自分でわかっていないような人々なのではないか。これは、あまりに人を馬鹿にしすぎた考えだが、たまに、こうでも考えるほかないのではないかと思えるようなときがある。しかし、これはこれで、しあわせなことなのかもしれない。けっきょく、人は、自分自身の価値を信じて生きていくしかない。
ともかく、ひとつ言えることは、言葉を軽んじ過ぎるような連中には、こっちだって、ほんとうのことは言ってやらないということだ。
やぁみんな、元気?
今日僕は、15歳のころからずっと探し求めてたモノについに出会ったんだ。
あんまり嬉しかったから、ここでそれについて軽く報告させてもらうよ。
さて、僕がずっと探し求めてたモノ。それって一体なんだと思う?
勘のいい人なら題名を見た瞬間にピンと来ただろうね。
今日の午後の話だよ。
そうだね、あれは確かランチを食べた後だったから、1時かそのくらいだったと思う。
いつも通りその約30分後に便意を感じ、
けど、そこで僕が対面したウンコは決して「いつも通り」なんて言葉じゃ片付けられないシロモノだったんだ。
完璧だったのさ。
何がって?
ウンコだよ。
ウンコがだよ。
あまりに完璧すぎたから僕、思わず半ケツでつぶやいちゃったよ。
「パーフェクト・・」ってね。
それは実際、ネスカフェのメグ・ライアンもびっくりするくらいのパーフェクトっぷりだった。
その瞬間確かに僕は感じたんだ。
いつも見慣れた薄汚い灰色の密閉空間が、朝日が燦燦とさしこみカーテンが朝の爽やかな風に揺れる
あのリビングへと一瞬で様変わりするのを。
さて、あまりに興奮してたからかな、ここまで一息で書いちゃったんだけど、今読み返してみたら、
上の文章がいくらか読者のみんなに対して不親切だったかなという感が否めない。
というのも、みんなと「完璧なウンコ」という概念についてコンセンサスを築くことが出来ているのかどうか、
確認することを怠っていたからだ。
そこで以下では、みんなに僕がどれだけ興奮したかをもっとよくわかってもらうためにも、
僕がここで「完璧なウンコ」と呼ぶものが一体どのようなウンコを指すのかを簡単に説明しておきたいと思う。
この概念を一番最初に提唱したのは、イタリアの哲学者、フンバルト・エーコだ。
みんなも名前くらいは聞いたことがあるだろう。
彼は記号論の分野で世界的な名声を得ているんだけど、同時に小説家としての顔も持っていて、
多くの人はむしろ彼を哲学者ではなく小説家として認識しているかもしれない。
処女作「ウンコの名前」は世界24カ国で大ベストセラーになって(当然日本でもだ)、
ハリウッドで映画化もされたし、なんと主演のショウン・コネリーはアカデミー賞までとってる。
そしてその彼が初めて「完璧なウンコ」について言及したのが、第2作「フーコーのウンコ」だ。
彼はその中で、こう語っている。
「世の中には二種類のウンコしかない。すなわち、完璧なウンコとそれ以外のウンコだ。ここで私がいう完璧とは必ずしも形而上学的な意味ではなく、ただ単純に、ウンコがいかにウンコらしくあるかという意味での完全性のことを指す。(中略)そして、ウンコがこのように自同律的であるためにはいくつかの条件を満たしている必要がある。臭気、色艶、フォーマット、コンテクスト、訴求力、含有物。これらがウンコが完璧であるための必要条件となることは言うまでもないだろう。だが実はこれらはあくまでも前提にすぎない。真に重要な条件はその先にある。そしてそれが限りなく実現不可能に近いために世の中のほとんどすべてのウンコは完璧となることができないのだ。その条件とは、『肛門にまったくその残骸を残さない』ということだ。そう、完璧なウンコとはそれだけで自己完結しているウンコのことを指すのである。」
ごめんよ、少し引用が長くなってしまったね。
全文引用するのが無理だったから、ちょっとわかりづらい文章になってしまってるかもしれない。
理解できなかった人のために、一応僕が簡単に補足説明しておこう。
エーコがここで言ってる「完璧なウンコ」っていうのは、まず第一に、ニオイも色艶も形もウンコらしくなきゃいけない。
普通の人は完璧なウンコって言ったら無味無臭で誰にも迷惑をかけない、そんなウンコのことを指すのかななんて
想像するだろうけど、エーコの主張はそれとはまったく違うものなんだ。
おもしろいよね。
ウンコが完璧であるためには、一目でそれとわかるような形であり、色艶であり、鼻から一息吸い込んだだけで
それがウンコであると理解できるようなニオイも持ってなきゃいけない。
エーコはこう言ってるんだ。
「コンテクスト」っていうのは、果たしてそれがどのような場面でなされたウンコかっていうような意味だと思う。
エーコ曰く、完璧なウンコはある程度の緊張感が隣り合わせとなっている場面でなされなければならないらしい。
これについては、今回僕が中略した箇所で詳しく述べられてるんだけど、これを説明してたらあと1000文字は
くだらないだろうから、ここでは遠慮させてもらうよ。
「訴求力」っていうのは、ウンコがどれだけその行為者の心を動かすことが出来るかっていう意味だ。
実は彼、「完璧なウンコというものはその行為者がそれを食べてしまいたいと思わせるほどに魅力的でなくてはならない」
とまで言ってるんだけど、ちょっとこれは変態っぽいからさすがに省略したよ。
けど彼が言いたいこと、なんとなくわかるだろ?
もう見るからにウンコで、ニオイもウンコでしかないんだけど、なぜか、「おいしそうだな、ちょっとかじってみようかな」
「含有物」については説明する必要はないだろう。
ニンジンやコーンのことだ。
そして彼が言う、最終にして最大、最重要の条件が、肛門に一切残骸を残さないということ。
これはつまり、ウンコをしたあとにトイレットペーパーでお尻を拭いても、そこに何もつかないってことを意味している。
確かにウンコをしたはずなのに、菊門にはそれが存在していたような形跡がまったくない。
(余談だけど、昔の人はこれを「紙隠し」って呼んだらしい。そう、これが神隠しの語源さ。)
今まで一度でもウンコをしたことがある人なら、これがどんなに難しいことか、容易に想像がつくだろうと思う。
だからこそ、エーコはこんな本を書いてしまうほどに、完璧なウンコというものに魅了されたんだろうね。
さて、ずいぶん長くなってしまったね。
何はともあれ、僕がどれだけ興奮しているかはわかってもらえたんじゃないだろうか。
だって15歳のころからだよ?
15歳のころから、僕はずっと完璧なウンコに出会いたくて仕方なかったんだ。
ちなみに、僕が完璧なウンコの存在を知ったのは、東野幸治がテレビ番組でそれについて喋っていたからだ。
彼には感謝しなくてはいけないね。
僕にこんな素晴らしい体験をさせてくれたんだから。
一哲学者の持論を持ち出されてたところで何の意味があるか分からないが,
異性(もしくは同性)への外見アピールという面があることから考えると,
飯の種(=金と仮定)のためだけではないのはわかるよな。
その哲学者はファッションの何について語っているかはわからないが,
ファッション自体は遠い昔から存在するものだし,文化が発達していない
帰結としての飯の種ならあるかもしれないが,それを言うならあらゆる
分野でも同じ結論になってしまう。人間は食べるために稼ぐのだし。
キョーダインだかイーグルなんとかだか、そういう戦隊ヒーローみたいな奴は知らんが、それはいつ頃気付くって話なんだ?
一億と二千年後ぐらいか?
そうだって云いましたよね、「俺ルール」だって。押し付けてるんだって。
最初はお互いの俺ルールを出さないと、相手がどんな俺ルール持ってるのかわからないじゃないですか?
あ、ここで云う「お互いの俺ルールを出す」ってのは、「"俺ルールを提示する"俺ルール」ではないですよ。…ややこしいですねw
「正解があると思ってる」訳ではないんですよ。そうも云ってないですし。また乱文長文で面倒くさいんで、「そんな感じです」ってはしょっちゃったんですけどね。
それにそんなん云ったら、世界中の哲学者(哲学学者もいっぱいいますけど)に怒られますってw
ニコニコ動画に対して「きもい」と仰る方々の数が増えています。以前は西洋と日本の顔の差に関する単純な文化的な差異が原因かと思ってましたが、理由はもっと深いところにあるようです。
ニコニコ動画で「嫌だ」とか「きもい」と言われて来た内容は当初、以下の文脈で説明されていました。
この問題は参加者の多くの女性達から指摘され、「日本的なリカチャン顔」風に初音ミクを押し出すことによって殆ど解決しました。
でもニコニコ動画が「きもい」と言う批判の内容はそれだけでは無く、初音ミクを好むDTM業界でも出ています。
そこでどうもおたくと初音ミクの文化差異論だけでは浅い理解と考えられる為、真面目に検討することにしました。
ニコニコ動画「きもい」論は最初、IT系の人々からのものが多かったのですが、最近は一般の人々(参加者の夫や妻まで)から「ニコ動はきもい」と言う言い方をされていると言う話を良く聞くからです。
「おたくなんてきもい・・・まるで牡丹灯篭の怖い話のように彼氏彼女をさらって行く・・・」 これ、まことしやかですよね。うーん困ったもんです。全く。
さて哲学者のミッシェル・フーコーは「物と言葉」の中で建物や言葉の持つ「表象=イメージ」の研究を行ない、「表象=イメージ」は時代によって移り変わると言いました。
例えばパリのエッフェル塔は登場した時、「グロテスクな鉄の塊」「スキャンダル」=きもい!!と騒がれました。画家マネも「草の上の昼食」に始まる一連の絵も「スキャンダラス」=きもいと言われました。鉄道はフランスで・・・・「怖い鉄の塊」=きもいと表現されました。
判り易く言えば時代が大きく変わる時には、社会の規範や人々の美意識が大きく変わると申せましょう。
だから古い一般常識や美意識に囚われている人々から見ればニコニコ動画に「何か異様な・・・」と言う印象を持つ人々の方が普通だとも考えられます。
でも今ではエッフェル塔も東京タワーもマネの絵も鉄道も市民に親しみをこめられて眺められています。時代による規範の変化、美意識の変化とはそんなものです。面白いですね。
江戸末期にフランスの軍服を着た最後の将軍、徳川慶喜さんなどはさぞや「きもい」と一部から批判されたことでしょう。でも明治になれば当たり前の感覚になった訳です。
ニコニコ動画=「きもい論」は何か廃刀例が出た時の明治初期の武士の怒りに似ているような気がします。まあYouTubeの新しい著作権の考え方もJASRACを含む音楽レーベルの「怒り!!」と「きもい、非常識だ!!」と言った批判で迎えられた訳ですが。
ニコニコ動画が「きもい」とかセカンドライフが「きもい」とは「ニコニコ動画やセカンドライフは社会を変える何か」と言う時代のシグナルでもあります。
やっぱりニコニコ動画は既存のネット参加者の美意識や社会規範の感覚に手を触れ、怒らせる怖いものなんですね。昔のインターネット批判と同じですよ、これは。
それにしても10月初のサンノゼのVIRTUAL WORLD 2007の会議は面白かったです。グーグルとセカンドライフにIBMやソニーまで含んだアバターなどの標準化、オープンソース化の協議会設立が決まったし、動きは早いです。
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!」 ジミ・ヘンドリックス
「世界ぜんたいが幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」 宮沢賢治
「相手がどう反撃していいか、わからないような戦法で、ぼくは権力と戦いたい」 ジョン・レノン
「不思議なことだ、いつの時代においても悪人は自分の下劣な行為に、
宗教や道徳や愛国心のために奉仕したのだという仮面を着せようとつとめている」
byハイネ
byジミ・ヘンドリックス(“伝説”のギタリスト)
「愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ」
byバートランド・ラッセル(哲学者、ノーベル文学賞受賞)
「恐怖心や愛国心によって人を殺すのは、怒りや貪欲によって人を殺すのとまったく同じく悪い」
byヘンリー・ミラー
byモーパッサン
byサミュエル・ジョンソン(イギリスの文豪)
「ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹(はしか)である」
by アルベルト・アインシュタイン(物理学者、ノーベル物理学賞受賞)
「人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう」
byバーナード・ショウ(戯曲家、劇作家、ノーベル文学賞受賞)
byチャールズ・スペンサー・チャップリン(喜劇王、俳優・映画監督)
・極右利権政治家やネットウヨクが唱える愛国心=時の政権与党への絶対服従
国費と国富をいいように喰い散らかし、私腹を肥やしていることを受け入れ、我慢する心。それが「愛国心」)
(ちなみに、ウヨ厨の理想は、北朝鮮またはナチスドイツ型の言論統制全体主義国家)
『現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。』」
「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーはうそぶく
『国民の自業自得(自己責任)。国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ。』
by サミュエル・ジョンソン(イギリスの文豪)
◆「“愛国心”とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。」
by バートランド・ラッセル(哲学者、ノーベル賞受賞)
内容はこんな感じ。
「戦争は富裕層の利益のために行われる。実際に戦場に赴くのは貧困層の若者。
http://anond.hatelabo.jp/20071008230240
数学も、現実に応用可能な分野と、純粋に理論的な「数学のための数学」では、説明の難易度に違いがありそうだ。もっとも前者も「それを数学的に表現すると」から先は聞いてもらえない可能性があるけどな。
非数学サイドの私としては、数学が「人間の思考の一部を記述する言語」などという寝言は寝てから言ってもらいたいのだが、そんな考え方を持つ哲学者も世の中には存在する。
なぜなら、哲学というのは「他の学問」と「人間」との関係を思索する、間接的な学問だからだ。逆に、数学が「人間の思考の一部を記述する言語」と考える君は、哲学の世界に足を踏み入れたと言えるだろう。
東浩紀・桜坂洋の「キャラクターズ」(新潮10月号掲載)を読んだ。論壇へのスキャンダラスな興味で読むぶんには面白いのだけれど、宣言した「キャラクター小説」としては失敗だと思う。文芸誌に載るキャラクター小説とはいかなるものか、そこにしか興味はなかった。オタク哲学者とラノベ作家の共作ということで期待したのだが、残念ながら期待は裏切られた。これはキャラクター小説ではない。この作品のどこら辺がキャラクター小説だと考えているんだろうか。私小説が「この作品の私は作者としての私ではありません」と説明することと何が違うというのか。東浩紀の虚構話を書くこととキャラクターとしての東浩紀を書くことは違うのだ。この作品には標題に反してキャラクターなんて一人も描かれてはいない。
100歩譲って、この作品の登場人物はキャラクターである、という説明を受け入れたとしよう。それでもこの作品はキャラクター小説としては駄作だと思う。簡単な話だ。この作品の登場人物はどれもキャラが立っていないじゃないか。例えば作品の中では東浩紀が東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iの3人に非現実的に分裂する。この3人は向かうあう問題と行動が異なるだけで、いつでも他の東浩紀と交換可能であり別の性質的な差異は感じられない。つまりキャラが立っていない。北田暁大にしても香山リカにしてもその他の人物にしても、凶行の被害者に実在する人物の名前を与えただけではないか。これもキャラが立っていない。
キャラクターとは本来、記号的で類型的なものである。また、実在する何かを写し取ったものではなく虚構の世界に独立して存在するものだ。漫画にネズミを登場させることとミッキーマウスを書くことは違う。前者は実在するネズミと対応させることができるが、後者に実在を求めることはできない。
そもそもキャラクターとしての「私」は可能なのだろうか。しばしば現実の世界では「キャラを演じる」「キャラが被る」という言葉が使われるように、私とキャラクターの問題は「私」と他者との関係における記号的類型的な役割の問題である。文章の大半を「私」の愚直な内省独白が占めるこの作品はこの点においても私小説の延長線上にある単なる「私」の虚構話であり、キャラクター小説であるとは言い難い。
桜坂洋は文学に媚びたりせずにラノベの流儀を貫くべきだった。この作品を書くにあたっては東の自分語りに流されず、ラノベを書く時のように、キャラクターの造形からしっかりおこなって欲しかった。論壇やオタクが東に求める役割=キャラクターは最大限に利用または逆用するべきだし、キモオタ、ロリコン、ガリ勉という類型化された属性ももっと強調したっていい。例えば男性の登場人物全員になんらかの腐女子好みの属性を割り当て東×鈴木、柄谷×桜坂…手当たり次第にヤリまくったほうが朝日新聞社を爆破するよりもまだ破壊力があるというものだ。この小説は「私」に対して愚直すぎる。
あるいは東は桜坂よりもイラストレータと組むべきだったのかもしれない。そして二次創作や便乗グッズ販売が生まれるくらいのクオリティで東をはじめとするキャラクターを作ってみれば面白い。そんな魅力的なキャラ絵を含む小説が新潮に載ったら痛快ではないか。それで掲載を拒否されてたら新潮社と徹底的に戦え。それこそラノベと文学との戦いそのものじゃないか。
日本において哲学は「純粋な学問」として独立していない、というハナシがあった。
日本において哲学は、○○についての「道」という形で、必ず具体的なものとの連関で語られるということ。そう考えると日本にはあまりにもユニークな哲学者が多すぎるとも言える。柔道剣道武士道合気道茶道華道書道漫画道オタク道……全部その中には「哲学」が一体のものとして内包されている。
だから「日本には『代表的な哲学者』はいない」というのが答えになると思うけど、それは「哲学がない」というのとはちょっと違う。うちの町内には「おにぎり屋」がない、というのと、うちの町内には「おにぎり」が売っていない、というのはイコールではない。コンビニがあるじゃん、みたいな。あまりいい喩えじゃないけどな。
なんでそうなのかというと、日本の思想は伝統的に一元論的な思考法を取るから、たとえば「現実と理想」をわけて理想のみを語るということをしてこなかったんだよ。必ず現実『のなかに』理想がある、という思想法をしてきたわけ。だから、理想を語る『ために』現実を語るという方法でしか理想を語ってこなかった、ということ。だから、上のたとえを見て「コンビニのおにぎりはおにぎり屋のおにぎりに劣るじゃん」という風に考えるのでなく、両者は別物と考えた方がいいと思うんだ。