はてなキーワード: 病理とは
爆笑問題の田中が2000年に睾丸摘出の手術を受けたが、自分も同じ病気になった。
テレビでは笑いのネタになっているが、この病気は悪性腫瘍(ガン)です。
結構、シャレにならないので男性の人達はこれを読んで認識を深めて頂きたいと思います。
発見は8月上旬。自転車に乗ったら右の玉をサドルにぶつけた時に痛くて
さわってみたらなにか大きくないか?と疑問に思い、左と比べてみたら1.5倍ぐらい大きい。
ただ、痛みはなく、射精もできるので1週間ほどほっておいた。
お盆休みになり、家でゆっくりしているのとジーンと軽い痛み?違和感?が出てくる。
仕事も忙しくなかったので、お盆明けに病院へ行くと、睾丸にできるガンである
可能性が高いと伝えられる。
・この病気は10代後半~30代に多い。
・発症者数は10万人に1~2とめずらしい病気。
・強い痛みがないため、1年以上放置してしまう人もいる。
・超音波検査(エコー)でみると確かに左と比べて右がまだらのため腫瘍であることは確実。
・睾丸は1つになり精巣機能は弱まるが、子供を作ることは可能。
今回は発見が早かったが、この病気は進行が早いので、早急に摘出手術をすることになった。
ガンと言われてショックを受けつつも夜に手術。
実際の手術時間は1時間強。下半身だけの麻酔なので摘出後の部位をその場で
見せてもらったりした。
入院期間は1週間ほど。さらに1週間後に病理検査の結果が出た。
・診断はセミノーマstage1。他に転移はなし。
・生存率はstage1・stage2:ほぼ100%、stage3:60%。
・再発率は10~15%。ただし、抗がん剤の効果が非常に高いので、根治は可能。
・抗がん剤には10%ほどの確率で精巣機能を失う場合があるため、
そのため、定期的な検査で経過観察となり、今に至る。
まとめ
・睾丸が肥大していたら、ほっておかない。
・睾丸の炎症と誤診される場合があるため、性能が高い超音波検査(エコー)が
・結婚している方で子供を作る予定がある人は早く作っておいた方がよいかも。
おまけ
入院期間中は看護師さんに毎日局部を晒すという辱めにあいます。
みんな若い女性だったので、一番そこが辛かった・・・
「真犯人の処罰と,無実の人の処罰を防ぐことの2つの要請の間で,どこでバランスを取るかという問題なのではないか。」
「それはバランスの問題ではないし,価値観の問題でもない。答えは決まっている。刑事司法は後者の役割を果たすことを第一次的に期待されている。」
「理想論ではなく,現実の問題の話をしている。一人の無実の処罰を防ぐために,多くの真犯人の処罰を放棄するのか,それとも,真犯人の適正な処罰のためには多少の無実の人の処罰はやむを得ないと考えるのか。」
「そのような発想は根本的におかしい。無辜の処罰を許容する考え方は採れない。」
「目の前で泣いている被害者を無視できるのか。そんなことで社会の治安を守れるのか。」
「被害者の救済や,社会秩序の維持は,司法だけの役割ではない。司法は無辜の処罰はしない。その場合に被害者や社会に問題が残るのであれば,市民や行政が手当をすべきだ。痴漢を防ぐためにはまず電車会社が努力すべきであり,警察も取り締まりを強化すべきだ。行政は被害者の救済に配慮すべきだ。」
「自分が被害者になったときにも同じことがいえるのか。自分の娘が強姦されても。」
「確かに悪質な性犯罪には憤りを感じるし,自分がいつでもその被害者になりうることも自覚している。しかし,同時に,誰もが「被疑者」にもなりうる。」
「それで市民が納得するか。」
「道路の速度制限の問題なら,交通の安全と迅速輸送の要請の間でバランスをとればいいだろう。そして,そのバランスは政策の問題であり,国民の合意が得られる立法をすればいいだろう。しかし,刑事罰は国民の恣意で左右させることは本来的にできない。無辜の処罰をしないことは近代刑事司法の大原則だ。」
「それは理想論だ。現にえん罪事件は起きている。それは,一定の場合には無辜の処罰を許容しつつ,犯罪者の適切な処罰を図っていると言うことなのではないか。」
「実際にえん罪がありうるとしても,それを刑事司法は許容していない。えん罪は刑事司法の病理現象であり,それをいかに防ぐかが課題だ。そして今は,刑事司法の生理現象の話をしているはずだ。」
「裁判員はそれで納得するだろうか」
「むしろ裁判員は,自らが『無辜の処罰』をすることを決して望まないだろう。評議はこれまでの裁判官の合議よりも慎重になると思う。」
「目の前で泣いている多くの被害者を見てきた立場からすれば,多少疑わしい程度で処罰を回避することはできないように思う。」
「警察の立場で,被害者の立場を重視する考えが強いのはよくわかる。警察・検察は被害者や治安の維持のために努力し,弁護人は被告人のために努力し,その上で,裁判所はどのように判断すべきか,という話だ。裁判所は被害者の立場のみを過度に強調することはできない。」
「当然のことだが,警察と裁判所とでは考え方が違うと言うことはよくわかった。」
「それはかなり健全なことだと思う。三者が努力し合うことで,刑事司法がより適切なものになると信じる。」
(注)「バランスの問題だ」と言ったのは財務官僚であり,被害者の立場を強調しているのは警察官僚であり,「無辜の処罰をしない」建前を強調しているのは刑事裁判官及び弁護士である。
…というのを高校のころから続けているわけだが。
毎年誕生日の前の数日、生まれてきたことが本当に辛くなるようで、
毎年この時期1度は空元気が切れてはスイッチが入ったように朝までぐずっている。
自分にはFランでも大卒の弟1(家業の跡取り)と今国立院生の弟2がいる。
幼いころ仕事の忙しい父とは滅多に遊んでもらえず、母親中心の育児を受けていた。
厳しく、そして本人は三女で下に長男という構成の姉弟関係に生まれた母には長子の気持ちなど理解できない部分が多いようで、
どちらかといえば男男女の一番上の父ならそれなりのシンパシーを感じられるのは父だが
母が嫁いだ時点ですでに病んでいた叔父(後述)の病理を一切説明していなかったらしい等が後ろめたかったのか
聞くべき愚痴すらもまだ小学校の高学年くらいだった娘に父は丸投げしていた。
わたしは母にとって「娘」で有り「弟たちの姉」で有り「家族の愚痴などを話す為の夫」だった。
流石に耐えきれなくなった時、父に「お父さんが聞けばいいことまでわたしが聞いている」と泣いたら
「娘一人なんだから聞いてあげなさい」と返されてわたしは一体何なのか解らなくなった。
母が怖かった。
集団生活が怖かった。
鬱屈していた。
無気力だった。
多分行き遅れて居候し続けていた大叔母や
精神を病んで居て入退院を繰り返し居候していた行動が予測できず恐ろしい叔父に
母は子供らを関わらせたくないと必死だったのは解らなくはないし、
子供らがならないようにしたいと思ってたのも解ってる。
人との関わり方も苦手で「苛められっ子」だったと自称するのは実に馬鹿げていてみじめなものだが
自分という人間をカテゴライズされると「苛められっこ」だったのは否定できない。
苛められたとき、「こなくそ!」と反抗的になるのには幾つかパターンがあって、
わかりやすいのは反抗を反抗で示すパターンでだと思う。
ならわたしの場合はどうだったのかといえば
「苛められるならならば自ら「苛められっこ」になってやる」
といった後ろ向きな反抗をしていた。
反抗することで更にいじめられるよりも、
いじめられっ子というポジションを維持することで何とか自分を保っていた。
他人との関わり合いが凄く苦手で、苛められっこを演じることで
「疎ましがられる者」というポジションを得て、それからどうかしようという余力が無かった。
居場所がないことより「疎ましい存在」という位置づけでも居場所を得たかったんだといまだとそう思う。
今となってはそのころに演じすぎた「苛められっ子」の意識が抜けきれず、
「どれが一体自分なのか」「自分は一体どういう人間だったのか」それがほとんど思い出せないし、どうしたらいいのか解らない。
母には「一番上でしょう」と言われ
父には「お母さんの話を聞いてやれ」と言われ
弟たちには軽蔑され
学校ではただでさえ少ない友達にも話せる内容でもなく
教師にはただただ失望感を覚え
それでも休ませて貰えることはなく
泣くことも一人でしか出来ず
笑うのも叫ぶのも億劫で
親は多分何も期待してないというのはもう何年も前から自覚していて、
おまけに不倫ばかりをし続けた挙句50近くまで居候し続け、結局死ぬまで独身だった大叔母のことや
長女だということもあって追い出しがかかってこのところ結婚しろ結婚しろとうるさい。
結婚はしたい気もする。でも相手はいない。
仮に夫になるかもしれない人が出来たとしても、こんな自分を受け入れてもらう自信がない。
自分に自信がない。
せめて自分の子供(いつできるのか・作るのかどうかは解らないが)が出来たなら一番上の子に
「お兄ちゃんだから」「お姉ちゃんでしょ」というような言葉は言わないようにしたい。
それが元で歪ませたり折らせたりするのが厭だ。
ここまで書いてきてこんな自分よりも大変な人など幾らでも居るだろうに
「自分が可哀想」というのか「自分が辛く感じている」と思うことが厭で仕方ない。
そう思うことすら、優越感の表れなんだろうか。
自分が何をしたくて何ができてどう考えてるのかどうしたいのかどうすればいいのかわからない。
とりあえず発作を鎮める薬は飲んで今はちょっとだけ楽になってはいる。
よくこういうことを言うとさ自分がそこから出る努力しろとか環境を変える努力をしろとか
それ系のことを言われるんだけど、そういう努力する気力すら沸かせる事が出来ないのが一番つらいのに、
そういうことを言う人はいとも簡単にぽっと言ってしまうけど、無責任な言葉だなぁと感じるよ。
だから人と話しているときにそういうことを言わないようにしてる。
人様の悩みや苦しみなんかを聞いて聖人面してどうこういったり
人の言動を断罪するようなそういう資格なんて多分ないのだから
ガラパゴスって出羽の守のための言葉だよな。外国と比較することでしか製品とか制度とかを語れない人って一度も外国出たことないから幻想持ってるということなんかな。あるいは観光地に旅行とか有名大学に留学とか外国の上澄みしか味わってないまま、外国の上流と日本の中流を比べてるとか。日本で犯罪とか事件とか何か社会問題があるとすぐさま現代日本特有の病理であるかのように語りたがるのも歴史や諸外国の事情に無知なだけに見えてしまう。実際無知ではあるんだろうけど。外国人の一部のいいところ見れば日本をけなし、日本人の一部の悪い人がいれば日本人全部が悪人だと決め付ける。これってどう考えても民族差別だろうに。差別や人権に敏感な人でも日本のことになると突然レイシストになる。アイヌの文化が廃れた、マイノリティ差別だとか嘆くくせに北海道以外の日本列島各地の文化も明治維新以降激変してることはスルー。九州弁や関西弁を学校で教えないこととか着物を制服にしないことを嘆きつつ、アイヌ文化には全然触れないようなアイヌ人がいてもこういう人らは不自然には思わんのだろうな。
Do you ever question about yourself?
Do you ever question about what you are doing?
あなたは、ご自分が何をしているのか、疑問になったことはありませんか?
鬱に薬を処方するだけが、あなたのお仕事ですか?
話を聞く、だけが、あなたのお仕事ですか?
米国では、きちんとした、psychotherapyが行えるようなプロフェッショナルとして教育されているのに、あなた方は、何をしているのでしょうか?
たかが、5分「患者」と会っただけで、臨床心理士から話を聞いただけで、「患者」に対して処方すべき薬が分かるのでしょうか?
ご自分が、カウンセリングを受けた事もないのに、なぜ、カウンセリングを行っているのでしょうか?
なぜ、カウンセリングを行える、と、自分で言えるのでしょうか?
なぜ、薬を処方できる、と、言えるのでしょうか?
世の平均、と言われている、1日30錠の薬が、多いと思いませんか?
でも、その特殊な部分を、きちんと説明できますか?
単に、「特殊」という言葉で、本来、自分が勉強しなければ対応できないような部分から逃げていないでしょうか?
少なくとも、私には、あなた方が、逃げているようにしか、見えません。
欧米の心理学を輸入しているだけなのに、カリキュラムや制度だけは、日本独自な物で通そうとしているようにしか、見えません。
カウンセリングを受けなければ、カウンセリングなど出来るはずもないのに、
実際に、自分が、どういう事をしているのか、という事を目の当たりにしなければ、事の本質が分かるはずもないのに、
それらが、面倒だったり・したくない、という理由だけで、カリキュラムに入れず、自分にも学生にも促さず、
単に、学問としての心理学や病理だけを勉強しているようにしか、見えません。
まともなカウンセリングも出来ないくせに、お金をもらっている、というのは、詐欺ではありませんか?
きちんと、目を見開いて、ください。
あなた方によって、より深い心の傷を負っている人間が、ここにいます。
しかし、日本には、あなた方を訴える手段すら用意されていません。
あなた方が、自分の現在の無法地帯で、ぬくぬくと過ごしている様子を見ると、吐き気がします。
クライアントの状態が良くならなければ、薬を変え、カウンセリング技法をテキトウに変え、または、(本当のトレーニングを受けずに)自分で即席で勉強した物で、なんとか、対応しようとしている。
あなた方のプロフェッショナルとして意識がなんなのか、私には、疑問です。
あなた方には、15人以上の人々に会ってきました。
まともな事ができるような人々(米国でトレーニングを受け、きちんとカウンセリングを受けた、カウンセラ達)に出会えた、今、あなた方が、心底、憎い。
あなた方は、詐欺師なのでしょう。
それも、ご自分では、「患者のために、仕事をしている」と思い込んでいる、もっとも、たちが悪い詐欺師。
あなた方の棲んでいる業界の制度が、崩れ落ち、あなた方が職を失う事を、願います。
Do you ever question about yourself?
Do you ever question about what you are doing?
元増田です。あの記事は以下の記事の続き。
「うつ病が「移る」というのは、こういう当事者の実態を無視する安易で失礼な表現だと思うよ。」ってのはそう思う。
でも、「うつになる要因はかなり個人的な部分が多い」ってのは実証されてないんじゃないかな。
「うつ状態」になることはよくあるけど「うつ病」あるいは「躁鬱病」であると判断するには一定の基準があるというか、気分障害だけどほとんど体の問題が多いと思うんだよね。で、「うつ病」が完治するって本当にまれなケースなんだよね。殆どの人が再発する。で、一生この病気と付き合って行かなきゃ行けない。
親子とか男女とか親密な関係だと共依存とか発生しやすいし、それこそ普通の人間関係の壁を取っ払った極みだからそこには普通に病理が発生するのだとは思うよ。「うつ状態」や「うつ病」だけじゃなくてもね。
おまえらビジネス脳とかスイーツ脳とかゲーム脳とか、「病理といえるほど毒された脳」に粘着しすぎ。お前ら全員脳村の住民かっつーの。脳脳じゃねーの?
あと、スルー力とかスツーカとか力脳のやつも多いから気をつけろ。
あなたに漠然とした質問をひとつします。
深く考えずにとりあえず答えてみてください。
「答えはどこにあると思いますか?」
本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。
でも、答えてください。
反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。
何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。
答えましたか?
これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。
「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。
このテストは、速水健朗「自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し病患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。
「自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。
でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。
娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。
「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。
しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。
では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。
そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。
現在の子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。
「自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探しを社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。
我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。
私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質は恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。
私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組は時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。
「ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。
「高身長・高学歴・高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。
私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せな社会人になれると刷り込まれ続けてきました。
というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事=自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。
自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。
常に本当の自分とやらを見つめ続け、
「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。
問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探し病キーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。
罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。
その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。
(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育」
をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、
「個性重視教育」
になってしまったのです。
ファンタジーが現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。
だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉のキャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。
相当に丁寧な言葉のキャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。
このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。
50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、
「へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。
問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。
だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。
「自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。
たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。
しかし、まさに「ブーム」でした。
「ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。
自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。
しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。
自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。
そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html
Baldanders.info
「『自分探しが止まらない』を眺める」
http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml
どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。
自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。
妻のおかげです。
私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。
私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。
あくまで事実を書いただけですw
より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。
キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙な空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。
要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。
就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。
一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。
なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社に就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。
要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教が憂鬱で仕方なかったとのこと。
相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。
まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。
実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。
私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。
「あなたは私を幸せに出来るの?」
「俺には輝かしい学歴があるからね。」
「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。
だけど、俺は違うよ。就きたい職業のイメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」
「仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」
「本当に?」
「たぶん…。」
「私を幸せに出来るの?」
「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」
真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。
私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。
輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女に幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。
三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップ・ステップ・ジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。
走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。
更に言えば、ホップ・ステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史の教科書ではむしろ多数派です。
そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界で内定をもらいました。
しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。
跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。
その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。
三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードとタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。
内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。
そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。
「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。
だって、就職留年して別の会社に内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」
彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。
そして、私は無事に大学を卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。
助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。
たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。
足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。
だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。
でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。
「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。
ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。
でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」
「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。
閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験の競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。
でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。
私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。
学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。
大規模リストラのニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。
そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。
かといって官僚も、天下りありきの賃金構造でモチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。
そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。
確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。
でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。
だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。
「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」
「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」
「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」
「ある!…はず。」
「食べていけるの?」
「…いけると思う。」
「子どもの学費もあるんだよ。」
「いける…ん…じゃないかな…」
「厳しいんじゃない?」
「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」
それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。
そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。
というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通の人生以上の修羅の道です。
要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。
でも、なにか確かなものが欲しい!
そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。
私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。
私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。
そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。
「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」
妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。
一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。
今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。
「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。
一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw
もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。
自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。
そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。
結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。
不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。
私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。
そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。
かといって、「キミとボクの関係が世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。
そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。
「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」
という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。
後編へのリンクを忘れていました。
初増田なもので、すみません。
わが子を自分探し病から守る 後編
何が言いたいのかよくわからないけど、あなたがそれでいいと思ってるならそれでいいんじゃないの?
あなたもその友人も、自分の行きたい道を歩んでいるだけ。それに不満はお互いないんでしょ。だったらそれ以上何も言う必要ないじゃない。
それとも、あなたは自分の努力を褒めてもらいたいわけ?言っておくけどそれは期待はずれだよ。世の中はあなたのためにある訳じゃないから。
彼が学生身分を謳歌して旅行を重ね、或いは遊び呆けていた時、私はビジネス系のセミナーに通ったり、インターンをしていた。卒業寸前の3月も続けていたので海外なんてとても行けたものではなかった。
それはご苦労なことだが、それを「すごいな」とか「偉いな」とか「自分も見習いたい」って思う人はそういないと思うよ。かく言う俺も、「あー、そうなの、頑張ってね」ぐらいしか思わない。
俺の乏しい経験からすると、そういう自己啓発系の活動が仕事で実を結んで当然ということは全くあり得ない。そういうのが合う人もいるのかもしれない。でも、合わない人もいる。人によっては、そういうセミナーに行くことよりも、旅行を重ね「遊び呆ける」ことのほうが仕事のスキル向上に有益であることさえある。たとえば、暇があれば本にかじりついてるタイプの人間が営業職なんかに就いた場合はそうだ。そういう人間がビジネス系のセミナーなんかに行くのは有害でさえある。人が相手の仕事まで、「お勉強」でクリアできてしまうと思ったりするからだ。逆に、メーカーの研究所なんかに勤めてる人間は、「自己啓発だのなんだのと下らんことに時間を使ってる暇があったら勉強でもしろ」と考えるのもごく当然。
セクショナリズムや名ばかり管理職などの大企業病や100人以上いる同期を目の当たりにして、出世できるのか不安なのではないかと。
悪いけど、そういう本の聞きかじり知識で偉そうに言う奴ほど役に立たないよ。もしそんな奴がコンサルだったら全く使えないと考える。確かに大企業にはそういう病理もあるところにはあるが、ないところにはない。だいたい、入社当初から「出世したい」なんて野望を持ってる奴ばかりではないよ、大企業は。田中耕一さんなんて、あの人は出世を自分から拒否してた人だぜ。表で祭り上げられちゃったから役員待遇になったけれど、そんなのは最初から期待してたことじゃないはず。
大企業の強みというのは、そういう風に「いろんな奴」がいて、いろんな生き方が許容されることなんだ。ベンチャーみたいに、野心に燃える粒ぞろいの精鋭を抱えている組織とは全然違う。組織の目標自体が違うんだ。だから、君の価値観でその友人を割り切ることはかなり無意味。
将来を悲観視していて、その箇所を突かれて怒っちゃったのではないだろうか。
言っちゃ悪いけど、なんでそんなに傲慢なの?
その友達は大企業なんでしょ。確かにど派手な成功は望めないかもしれない。社長でも年収1億ない超有名企業なんて結構ざらだ。だけど普通の人間は、年収1000万を手に入れられれば大満足、1500万なら大金持ち、そう考えるものだぜ。そういう価値観の人間にとっては、普通の大企業はリスクとリターンが見合った環境なんだよ。君みたいに誰もがハイリターンを目指してハイリスクに賭けるのが正解ではない。価値観が違うんだから。君の価値観で全部を割り切っちゃいけないよ。