はてなキーワード: 奇妙とは
あー、ここは楽しいなあ。
なんかギスギスしつつも、このユルさ。
はじっこで大富豪でも始めそうな。
俺はフィルタリング機能とか無しで、このまんま仕様に手を加えないでおいて欲しいなあ、
なんとか一度に全部を見渡すことのできる今の感じがすっげえ好き。
巨大化してくのはともかく細分化の方向はつまんない。
このまんま、ほかっておいたら、この奇妙な同居的コミュニティが、
どうなっていくのか見ていたい。
とりあえず俺の一番好きなこのユルさ加減はいつまで持つかな。
こういうのは、できたばかりの、若いコミュニティ特有の事だと思う、
そんな楽しさは今のうちだから、みんな叫べるうちに叫んどけ。
あと、「俺はお前の身内じゃない。」ってここで言うのは、
まあそのとおりなんだけど、なんか可笑しかった。
松本「だいたい創作家になるにはどの分野でもそうでしょうが、最初は模倣からはじまりますね。」
記者「ええ。」
松本「ちっちゃいころ、模倣、応用、改良、発展。そして発展まででだいたい仕事をしている。しかし創作という恐ろしい壁がその前にたっている。創作という概念は世界で一人という個性の確立。そこにたどり着いたものだけがかろうじて生き残る。その創作の壁の前では若者たちの死屍累々とした屍がおりかさなるわけです。で、その創作の壁を乗り越えたのは創作家として、自立した創作家として名乗れる。そして自分ひとりのものを確立していく。それが創作の世界。そこまでたどり着くまでがどれほどすさまじいものか。何の保障もないんですよ。孤独で、ある意味で悲惨な戦いが続くわけです。」
記者「ええ。」
松本「それを乗り越えてはじめて自立した創作家という立場に自然になっていくわけですね。それをどうか理解してください。人間(?)だけの問題じゃない。」
記者「ええ。」
松本「で、今でもですよ。我々でも、キャリアとか過去のものにすがって生きるというわけにはいかないんですよ。全員対等です。」
記者「うーん。」
松本「きのう、登場したばっかりの若者と我々とも立場上はすべて対等なんです。序列なんてものは何もないですよ。なんにもないです。ですからいつ目の前に奈落が開いても、あのう、覚悟のうえなんですね。」
記者「うん。」
松本「そこをわかって下さいというのが我々の願いなんですね。創作に携わる者の。生みの苦しみというんですか。苦しみという生易しいもんじゃないです。いかに凄まじいものかですね。」
質問のテロップ「著作権の保護期間を50年から70年に延長するよう提唱していることについて」
松本「何のために書くかというのが創作の原点ですからね。その思いを貫いたまま、あのー、恩をしていただきたいわけですね。」
記者「うーん。」
松本「何のためにこれを書くか、それは全員が、絵でも音楽でも、あのう、マンガでも、何のためにっていうのが基本に必ずあるはずです。で、それが、あのー、薄れて奇妙な解釈の部分が出る可能性がありますよね、切れた場合に。
日本の、日本の作品の中で50年であれば、もう、切れるものがもの凄いたくさん出てきます。特に、私らの直接的のマンガ家という立場の。あのー、(聞き取りできない。)赤字にしたのいますから。石ノ森章太郎とは、同年、同月、同日生まれですよね。」
記者「ええ。」
松本「もう9年経っているんですよ。そしたら、あと47年でしょ。」
記者「うーん。」
松本「それが、どんなに恐ろしいことか。その息子さんや、その他これから長寿化の世界ですからね。」
記者「ええ。」
松本「あの、90歳、100歳になるころに元気だったとしたら。その前に切れたときが来たらどんな思い。オヤジ、一所懸命がんばったのに。そう思うと、なるわけですよ。」
記者「奥さんの存命中に切れる可能性もありますね。」
松本「場合によってはありますね。あります。女性のほうが長生きする長寿の例が多いですからね。だから、そういう場合もある。
やはり、それは何のために働くかというと、まずは自分の作品を創作物として読んでもらいたいから、必死に書くわけです。」
記者「ええ。」
松本「さらに生活をかけているわけです。一家の生活。」
記者「ええ。」
松本「家族の生活。あのー、それは利害関係とは違うわけです。」
記者「ええ。」
松本「みんな一所懸命、何のために働くんですか。その家族を養うためでしょ、まもるためでしょ。プライドを賭けた創作のために働くんですよ。その結果として生まれた副産物としての収入は、家族を養うために、その家を保つためにあるわけでしょ。物見さや、遊びに使うわけではない。
それが必要最低限、守られるように。その時間は長ければ長いほどハッピー。安心して、あの世へ旅立てるわけですよ。だから、そこら辺の精神的なものを少し考えてくれませんか。」
記者「気持ちの部分とか、そういう。」
松本「だから、賛否両論あるのも百も承知。で、否定する側の論理にも意味があるのはわかってる。わかっていますけど、物をかく人間としては、長くしてくださいというのが、切なる、切なるお願いなんです。願望なんです。
ただ、まだ過渡期でね、世界中が混乱している状況なんです。」
記者「はい。」
松本「徐々に徐々に落ち着いていくと思います。そんとき日本だけが50年だったらどうなると思います。もう、手も足も出ない。で、そういうこともあるので、とにかく70年にしといてくださいとね。
それでですね、うちはですね、そういう相談というか、ご本人の自由裁量に委ねられる部分を法的にきちんと残しといてもらえば、それにのっとって自分の自由意志で決めればいい。その、日本だけできちんと作っておけば。
で、なんにも言わない人は基本的に70年。それでいいと思う。
自分で書いたことのある人間は、まずほとんど99.99パーセント、70年と言うと。自分で書いたことある人間は。
それから、見る側だけの人間は、へえしゅつ(?)しただけのものは見たくないでしょ。後世の者でもね」
記者「ええ。」
松本「だから、なるべく原型を保てるままに。原作を逸脱しないために、70年というのはひとつの糧になるわけですね。その場合。防壁ですね。そういう創作の防御策としても70年というのは有効に作動する。だから、あのー、微妙な問題ですけどね。
あのー、生涯をかけて、なんというか全くの頼るものもない、孤独な作業を続けていく創作家の身にもなってくださいねと。その想いね。各人がその生涯をかけた想いというのをね、せめて70年残して欲しいというのがお願いなんです。」
■「お嬢さんが亡くなったそうで」目次
(1)1/29|(2)1/30昨日書いた動機について|(3)2/1K宅訪問にあたり|(4)2/6豆まきで初対面|(5)2/9Kからのメール|(6)三連休の出来事
■移転のお知らせ■
というわけで普通のブログに移転します。こちらは目次ページとして残しておきたいと思います。
[番外編]4/1 恵比寿のはてな匿名ダイアリーオフに行ってきました
⇒(24)約束(終)
さっきスレで見つけてタブを開きっぱなしにしておいたら dat 落ちしたので転載しておく。
本当かなこれ。
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984 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 07:23:34 ID:Jw84+fk
彼は二人兄妹の長男で、妹が殺害されてテレビやネットでその報道は流れたらしい。
別に特段有名な事件でもないしバラバラでもないよ。
テレビとかで流れると被害者の家ってやっぱわかるひとにはわかるじゃん?
だから報道が一段落した後は様々なDMが来るらしいのだが、ある日ある若者が訪ねてきたんだって。
「お嬢さんが亡くなったそうで」と。
その女の子は23才。昨日日テレのドキュメントでやってたようにネットカフェ暮らしをしているらしい。
何でも、ネットでニュースを見て、娘さんが同じような歳ということでショックを受けた。
特に用はないんだけど、ご焼香させて欲しいと。
まぁ断る理由もないので焼香していただいてお茶出してたら、「娘さんの部屋が見たい」とのこと。
両親も同じ年頃、同じ背丈の女の子ということでお部屋見せてまたいろいろしゃべってたんだと。
そしたらポツリと、
「私、今帰る場所がないんです。家のお手伝いさせてくれませんか?」
と言ったらしい。
娘の死という不幸から心が落ち着いていた親だが、娘の影を見たのかどうか知らないが、
なんとなくまぁいいか程度の気持ちで住んでもらったと。
ただ強盗かもしれないので寝室にカギ閉めたりはしてたみたいだけど。
986 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 07:37:50 ID:Jw84+fk
友人はその時は彼女と海外で家を空けていたらしく、
今年の正月に帰宅したら知らない娘が家事の手伝いしてて、
両親もまんざらでもないような顔をしていたので驚いたらしい。
親に聞いたら「家も仕事もないって言うし、放り出すわけにはいかないだろう」とのこと。
知人はその娘に聞いて身分証明とかを確認。実家の住所も知っていると。
でも実家には帰りたくないとか親は親で生活が大変とかで
そこで追い出すのもなんかなぁと思い、ずっと家にいるわけじゃないから
ただ二次被害にあったらシャレにならないので、金目のものは銀行に預け、
その娘の目の前で親戚に電話で事情を話し、こうやって俺にも事情を話すことは
その娘には伝えてあると。
「俺たちも身の安全を図らなくちゃいけないから。
ある日帰ったら男たちが荒らしていって親も殺され金もなくなってたじゃ困るから。
それにうち金ないからね」とか。すると、
「大袈裟ですね(笑)」とケラケラ笑ってたらしい。
それ聞いてそいつに「なんか映画みたいだな」といったら、
「ホントそうだよ、映画になるよなこれ。現実感が湧かないんだよ」とのこと。
今も両親、そいつ、娘の代わりの少女という奇妙な四人生活は今も続いているんだとか。
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まだ続きはあるけどこれから会議。
■追記 01-29 16:30
帰社。うわっ! ブクマ付いててビックリです。月曜で多忙ゆえちょっと待っててください。続きは夜。
■追記 01-29 19:55
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987 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 07:42:51 ID:ah9dZCH
つか、なんで暮らせるわけ?よく暮らせるな・・
988 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 07:51:16 ID:Jw84+fk
続き。
そんなわけで週末は一応その会話をICレコーダーに録っておいた。
俺も先週「それでもボクはやってない」見てきたから正義感満々でさ、
このICレコーダーがちゃんと本人が自主的に吹き込んでいるっていう
証拠になるよう、本人しか知らないこと、例えば
免許証の番号言わせたり、小学校の文集や先生の名前言わせたりとかしてた。
「付き合ってた女のほくろの位置って決定的な証拠になるかな?」
とかお互いネタ感覚で笑いながら吹き込んだり。
そんで録音用にいろいろ聞き出すわけ。
でも「どんな事件の兄です」って言わなくちゃいけないってのがあるから
妹?ができてけっこう楽しそうな感じもするし途中で飽きてやめた。
「そういやその子はよく家を突き止めたね」って言うと、
彼がボソッと
「映画といえば、こういう娘には大抵謎があるんだよな」
って言い出してさ。
「妹さんの生まれ変わりだったとか?」って聞くと
「ベタだな(笑)」って笑われた。「映画で生まれ変わるなら次は子供だろ」とか。
そうじゃなかった。
992 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 08:09:04 ID:Jw84+fk
その謎って何よ?って俺も野次馬根性でなんとかして聞きたかったけど、
結局言ってくれなかった。ただひとつ、
「モラルとして言うべきじゃない」って。
今の俺の気持ちわかる?もやもやしっ放しだよ!(笑)
これは絶対に聞き出そうと思ってる。
「そんなに興味あるなら家に来るか?」とも言われてるし。
まぁこんな場末のスレにこういうことを書き込むのはいいもんだね。
今俺は「王様の耳はロバの耳」的な快感を得てるよ(笑)
どうしようかな、彼もたまに2ch見てるから書くよう勧めようかな。
ただ、2chやYahoo!の掲示板じゃメジャーすぎるってのもある。
質問に答えていくうちに個人情報バレたりとかする流れがあるからそれが怖い。
俺らがふざけたお陰で身元特定されたら嫌だし。
996 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 08:10:11 ID:Jw84+fk
あれ、もう終わり?次スレは?
999 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/01/29(月) 08:10:33 ID:9FVhabo
>>996
> どっかいい場所ないもんかね
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というわけで2chからこちらにやってきました。
「○○男」みたいに指示されるのは嫌なので一方的に書いていきたいと思います。
でも匿名ダイアリーは初めて使うからこういう「追記」でいいのか「(2)」とかで別にした方がいいのかどうなんだろ?
その点で意見あったら教えてください。ってコメント欄はないか。
■追記 01-30 9:35
ブクマ数に卒倒しそうです。自分のダイアリーに書けばよかった?(笑)いや匿名ダイアリーだからいいんでしょうね。
ご意見どうも。ここに追記していくと見るの面倒なので、冒頭に目次を追加しました。これ以降の更新は新規エントリーに書くということで。
見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快な生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやりと発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブな信仰・呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんのレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味で死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味がほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティストの実験用人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオンは社会的だ。カブトムシは社会的だ。カカオは社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲや保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫と野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタのメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄の存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。
会議室のテーブルに捨て置かれた週刊誌をめくったら最近の女はハメ撮りを嫌がらないという話があった。そんな映像を見てもエロでもないだろうと思いながら、メディアの仕事をしているのに若い子のメディア感覚に付いて行けない自分を苦笑した。携帯電話も禄に使いこなせない。受けるか掛けるかだけだ。電子メールの操作もわからない。デジタルカメラ機能も使ったことがないが性交の記念写真を撮る気もない。
ハメ撮りではないが、ヴァギナの奥までペニスを差し入れて女を固定し、半身を起こして眼前の乳房を嬲る時の、女ごとに姿態の差を観察するのは嫌いではない。開放された女の手が面白い。手を伸ばして男の腰にしがみ付こうとする女。シーツを掴む女。拳を握って硬直する女。恥ずかしそうに顔を覆う女。髪に手を入れて頭痛に堪えるように苦悶する女。捌かれた魚のように両手を上げて宗教的な救いを求める女。縛められる快感を知った女は頭上に手を揃え手首を絞ってねだる。その要求には応えない。女が快感のなかに沈んで行くことを許したくない。
怒張したペニスを嵌められたまま乳房と乳首を嬲られ、苦悶と喘ぎに手の置きようもなく惑う女の痴態は映像になるだろうか。撮れば撮れるかもしれないが出産シーンと変わりあるまい。女の肉体だけが映し出されペニスと繋がりが見えない絵を想像してぞっとするのは、ペニスを包み込む女の性に結局甘えを求めてしまうからだろう。
女たちはどう絶頂を迎えるのか。巷には絶頂に至る経緯を株価の推移のように描いた図もあるが、女の絶頂に個性と意思はあっても法則性はなさそうだ。男の射精のように一気に萎える女もいるし、糸を吐く芋虫のように静かに快感の涎を流し続ける女もいる。しかし女たちに愛情や男への執着が目覚めるころになれば、女は悦楽に浸りながらも男の射精の、その哀れな最後を優しく待つようになる。三十代に数年関係の続いた女だったが久しぶりの再会で、飢えたように性交したら五分も経たず射精してしまった。不覚と自己嫌悪に沈みそうになったその瞬間まだ十分に快感のヴォルテージを上げていないはずの女が私の背に爪を立てきつく抱き返して絶頂らしい呻き声を上げた。演技かと反射的に思ったが膣の中には絶頂の自然な蠕動があった。これが女の愛か。そうしたことはその後も幾度か経験した。愛とは奇妙なものだ。
性の技巧など腐るほど語られているがそれでも性交にはあまり語られない技巧がある。例えばペニスを嵌めて固定した女の乳房を嬲る時、性の技巧と言えるのは女の意識の流れとの駆け引きだなのだ。女を愛しているか愛していないか。愛してるならどこで快感の幻想に男が屈して死んでいくべきか。男の意識の砕き方とペニスの応答の間合いは難しい。
ぼんやりとした思いを断ち切るように携帯電話が鳴った。いやなものだ。
F子だった。「夕食は魚よ。あと一時間したらできるわ」と言ってフランス語の料理名を言ったがわからない。
「フランス料理なんて食いたくない。魚は塩焼きにしてくれ」と告げると、F子は「美味しいわよ。白ワイン買ってきてね」と言う。上機嫌な感じだけが伝わってくる。
「わかったよ」と携帯電話を切った。
E子が念入りなフェラチオの後「瞬間湯沸かしケトル、ラジオ体操第二」と明るい声で言い、騎乗位になってベニスを垂直にヴァギナに差し込み変なラジオ体操を始めたのには困った。たーんたたたんたんと口ずさみ腕を振り上げダンベルを握るようにガッツポーズになり、腕をぐんぐんと曲げて重力を掛ける度、ペニスと下腹部にぎんぎん来た。止めてとE子に懇願した。高校、大学と体操選手だったE子の引き締まった身体に消化器ランプのように固定されていた乳房も揺れた。ひどい。下腹が痛いやら快感に堪え切れないやらでじゅっじゅっと射精した。それからコンドーム付けてないことに気が付いた。E子は沸きましたと言って僕の胸に乳房を押しつけてのしかかり笑いながらキスした。ひどいよ。ぐったりした。E子はしばらく身体を僕にぴったりと押しつけているのかと思ったら突然半身を起こして、ワッフルも上がりましたと言ってた。この女どういう頭しているのだろう。
先月夕立の中ショッピングバックを抱えて渋谷の古ぼけたラブホテルに入ったときもそうだった。エアコンを切って汗まみれのセックスをした。裸になるとE子の恥毛が全部剃られていたのでどうしたのと聞いてみた。浮気女の罰に剃る男がいることを思い出したが、E子は水着でマン毛がはみ出ないようにしているだけ、体操やった頃はいつもパイパンだったと言う。頬を擦り寄せるとざらざらとした感触がある。性器は広がった感じで奥まで見えた。酸っぱい果実のような匂いがした。汗と性器の出す粘液でシーツを汚した。悪いことをしたような気もした。そろそろ時間だとも思った。雨止んだみたいだよと僕が言うとE子は今日は子供の迎えは母に頼んであるから大丈夫と言って僕にのし掛かった。体力は僕の二倍くらいありそうだし、そのセックスに僕一人では耐えられない。萎えていると彼女は僕から降りてこんなのそそられる?と言って仰向けになり自分の右足首を手で持って引き上げ足先を頭の後ろに回して首に引っかけた。柔軟体操というよりヨガみたいだった。E子は両足やると完成と言って左足首も首の後ろに回しその両足首を結ぶように組んだ。脚が長く身体が柔らかいからそんなこともできるのだろうけど、完成した物は無毛の女性器を殊更に押し広げた淫猥な女の肉体だった。興奮した。そのまま僕はべちゃべちゃとE子の性器を舐め回し第二ラウンドに向けてペニスが勃った。でもE子が脚を解いてからは普通のセックス。というより何かの運動かもしれないけど。
瞬間湯沸かしケトル、ラジオ第二体操で結局中出してしまったので妊娠するんじゃないかとそれから数日気になっていた。妊娠したらしたでいいけど子供は僕の子供だろうか。考える内に奇妙な体操を思い出して笑った。
次の週まだ暑さの引かない夕方E子と代々木公園を散歩した。ミニスカートの上から尻に触るとリアルな感じがしてノーパンであるのがわかった。僕もE子もいい加減発情して木陰に潜んだ。傍からはただ抱き合っているだけに見えただろうけどセックスしていた。僕はジーンズとトランクスを降ろして硬直したペニスを出し座位でE子に差し込んだ。性器の感触に浸りながらキスした。またコンドームを忘れた。もうどうでもいいや。E子は自分の意思で性器の中を動かせるのだろう。ペニスが吸い込まれるような閉めつけるような刺激があって十分もしない内に射精した。ペニスを抜くと少し血が付いていてた。E子は平然と生理と言った。ハンカチで拭いて立ち上がるとE子は鞄のなから生理用具と専用のパンツを取り出して履いた。子供は産まれない。
E子との関係はそう長く続かなかった。一緒にいると高校生気分で楽しかった。E子は僕より年上だろうけどまだ三十代前半だろう。秋になり連絡が途絶え自然に関係は終わってしまったみたいだし、僕は僕で区の図書館の司書の子と付き合い始めていた。セックスが上手な子ではないけどいろんな本を読んでいて話が楽しい。クリスマスは今年はこの子と過ごすのだろう。
Bunkamuraでその子と映画を見終え東急の前で信号待ちしていると小学生六年生くらいの娘を連れたE子に会った。娘はE子のミニチュアみたいにくりっとした感じだった。E子が僕に気付いた。E子は帽子を被っていので僕は一瞬誰だろうと思った。あらK君とおばさんぽく呼びかけ、僕といる女の子を見た。体操クラブのコーチが新入部員の身体を吟味する目だ。元気だった?とE子は聞いた。元気だよ、E子さんは元気? 引っ越して買い物中なのよ。家が片づいたらまた電話するわねと言い残して娘とデパートに入って行った。司書の女の子は僕らの関係には気が付かないだろう。説明するとしてもどうしていいかわからない。
みなさんは、「無断リンク禁止」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
これは、見かけはリンク禁止のようだけれども、実は、リンク禁止になっているとはとても言えないもののことで、「似非アクセス制御」や「サイバーノーガード」などとも呼ばれます。
『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、「最高裁が電話してというので」や、「うちは警察へリンクさせてもらっている」や、「文書で申し出よ」などのフレーズを挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。
例えば、皆さんもよくご存知のように、『リンク許諾制はトラブル回避にいい』と一部で信じられ、ひところは大手官公庁もこぞってリンクポリシーを掲げるほどのブームになりました。無断リンク禁止ポリシーがよく書かれたのは、もちろん、リンク許諾制のトラブル回避効果に裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。新聞社や日弁連などでも書かれましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。
しかし、実は、リンク許諾制がトラブル回避に良いという根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。最高裁判所までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
いまは、都道府県警察本部で人気が出てきているようです。しかし、実のところ、リンク許諾制を主張したところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。
いま、このような、無断リンク禁止のようで禁止ではない、「ニセリンクポリシー」が蔓延しています。
こういった「ニセリンクポリシー」のなかに、公正中立性や悪質業者に関わるものがあります。その話をしたいと思います。
よく知られている例の一つは、『無断リンク禁止にしないと、悪質業者に信用を悪用される』といういわゆる栃木岡山県警説です。しかし、この説に、信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセリンクポリシー」です。
もちろん、どんなにインターネットの普及が進んでもそれなりの初心利用者がいますから、悪質業者の言いなりに影響されることはあるでしょう。しかし、それだけなら、名前の無断使用や紙のチラシなどでも同じです。ハイパーリンクのあるなしとはまったく別の話なのです。
ところが、この説は、広報業務関係者に広く受け入れられています。全国各地で、広報現場によるポリシーのコピペが行われているようです。
もちろん、気味の悪い業者がうちと関係があるかのようなことを書くので困っているという広報担当者は多いでしょうし、広報室長もそういうのを何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「無断リンク禁止」が一見、福音に思えたことは分かりますが、効果のないものに飛びついても、仕方がありません。
そもそも、信用の悪用を何とかしたいというのは、リンクの問題ではなく、表現の問題だったはずです。うちと関係があるかのように書かれて困ると考えるなら、やめるようにきちんと主張するべきでしょう。表現を変えさせる根拠をリンクに求めようとしてはいけません。
もう一つ、今度は、リンクにまつわる奇妙な説を紹介しましょう。
リンク先をトップページにすると、きれいなウェブページになり、個別のページにリンクすると、きれいなウェブページにならないというのです。
ページというのはHTMLのことですから、これは、リンク先のURLがページの良し悪しに影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。
この説が、いくつもの大手企業や地方公共団体で、利用規約に使われていることが問題になっています。ページデザインを改善しない自らの怠慢を正当化するのに、格好の材料と思われたようです。
しかし、本当にそうでしょうか。
この説は、たくさんの問題をはらんでいます。
まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れや学力低下が言われる今、道徳だからといって、ここまで非科学的な話を、事実であるかのように言っていいはずがありません。
しかし、それ以上に問題なのは、ページが汚くなる原因を、リンク元の責任に求めようとしていることです。
ウェブページは、ハイパーテキストの手段ですから、その使い方は、あくまでも、ページを作る人間が自分の頭で考えなくてはならないはずです。トップページ以外へのリンクはどんな状況下でも駄目なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。
栃木岡山県警説が他者の表現を制限する根拠をリンクに求めるものだったのと同様、ここでは、ページデザインの崩れの原因をリンク元に求めようとしています。それは他人に対して多くを求め過ぎです。
ページデザインの維持も信用の確保も、リンクされる側が自分の頭で考えなくてはならないことであって、リンク許諾制でお茶を濁せるものではないはずです。
「ぱにぽにだっしゅ」というアニメを勧められたので、第一話と第二話を見てみた。以下、箇条書きにて感想。
奇妙にハイテンションな部分があって、これはついていけないと思う場面もいくつかあったけど、全体的な雰囲気としては癒される感じというか、ほのぼのとできて見ていて楽しかった。今まで「萌え」という単語がよく理解できなかったのだけど、例えばこのアニメでベッキーを見て「母性本能がくすぐられるような、奇妙にくすぐったい感じ」を受けるのは、「萌え」と関係があるのだろうか。
みなさんは、「ニセブクマ」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
これは、見かけはブックマークのようだけれども、実は、ブックマークとはとても言えないもののことで、「疑似ブクマ」や「似非ブクマ」などとも呼ばれます。
『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、「無断リンク禁止」や、「これはひどい」などのタグを挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。
例えば、皆さんもよくご存知のように、『無断リンク禁止は間違い』と盛んに言われ、ひところは大手ブックマーカーもこぞってブクマするほどのブームになりました。無断リンク禁止関連のエントリーがブクマされたのは、もちろん、無断リンク禁止は間違いということに確かな裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。はてな界隈でも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。
しかし、実は、無断リンク禁止は間違いという確かな根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大手ブックマーカーまでが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
いまは、無断リンク禁止を訴える個人サイトに、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、無断リンク禁止を訴える個人サイトにブックマークをしたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。
いま、このような、ブクマのようでブクマではない、「ニセブクマ」が蔓延しています。
こういった「ニセブクマ」のなかに、個人攻撃や晒し上げに関わるものがあります。その話をしたいと思います。
よく知られている例の一つは、『無断リンクは禁止します』とくりかえすいわゆる「tinycafe=Yoko」へのブクマです。しかし、このブクマに、科学的に信頼しうる有益性はないのです。その意味で、これもまた「ニセブクマ」です。
もちろん、tinycafe=Yokoの行動にもそれなりの問題性がありますから、ネットマナー形成に影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら、はてブの一部のブックマーカーや2ちゃんねるの利用者などでも同じです。その行動をブクマすることとは、まったく別の話なのです。
ところが、このブクマは、はてブ関係者に広く受け入れられています。全国各地で、有力ブックマーカーや小規模ブックマーカーのブクマがなされているようです。
もちろん、tinycafeがはてなを訴えるとか消し去るとかいうので困っているというはてなユーザーは多いでしょうし、はてなブックマーカーもそういう風潮を何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、tinycafeへのブクマが一見、福音に思えたことは分かりますが、効果のないものに飛びついても、仕方がありません。
そもそも、無断リンク禁止などtinycafeの問題行動を何とかしたいというのは、ブクマの問題ではなく、tinycafeとの対話の問題だったはずです。tinycafeが四六時中問題行動をして困ると考えるなら、やめるようにきちんと対話するべきでしょう。問題の処理をブクマに求めようとしてはいけません。
エントリーに「これはすごい」とタグをつけると、質の高いブログができ、「これはひどい」とタグをつけると、質の高いブログができないというのです。
ブログというのは個人サイトの一種ですから、これは、タグの良し悪しがサイトの内容に影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。
ブロガーは、ただの人間です。ブクマをいちいちチェックする暇もなければ、はてブコメントの意味を確認する手立てありません。『ブログがブクマのタグに影響される』など、いい大人が信じるような話ではなかったはずです。ところが、これが広く信じられています。『「これはすごい」はリファラーのないブログにも伝わるほど良いタグだ』といわれると、それだけで、『便利な機能』だと思い込んでしまう人は、意外に多いらしいのです。
これらのタグが、いくつものブックマーカーによって、当然のように使われていることが問題になっています。すばらしいエントリを広めるのに、格好のタグと思われたようです。
しかし、本当にそうでしょうか。
このタグは、たくさんの問題をはらんでいます。
まず第一に、明らかに科学的に誤っています。ブログのコメント欄炎上が言われる今、アクセス解析が常識だからといって、ここまではてブ内部のタグを、外部にも伝わるタグであるかのように考えていいはずがありません。
しかし、それ以上に問題なのは、ブログへのコメントの代わりを、ブクマのタグというまったく別のものに求めようとしていることです。
タグは、ブックマークの分類の手段ですし、ブックマーカー同士のコミュニケーションの手段ですから、その使い方は、あくまでも、ブックマーカーが自分の頭で考えなくてはならないはずです。「これはすごい」はどんな状況下でもいい言葉なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。
「tinycafe」が対話の手段をブクマに求めるものだったのと同様、ここでは、コメントの代わりをブクマに求めようとしています。それはブクマに対して多くを求め過ぎです。
対話もコメントも、人間が自分の頭で考えなくてはならないことであって、ブクマに教わるものではないはずです。
さて、「ニセブクマ」が受け入れられるのは、ブクマに見えるからです。つまり、ニセブクマを信じる人たちは、ブクマが嫌いなのでも、ブクマに不審を抱いているのでもない、むしろ、ブクマを信頼しているからこそ、信じるわけです。
たとえば、無断リンク禁止がブームになったのは、『無断リンク禁止は悪く、無断リンク禁止への非難は良い』という説明を多くの人が「ブクマからの知識」として受け入れたからです。
しかし、仮に、ネットの有識者に、『無断リンク禁止は間違いなのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。
『ウェブサイトといってもいろいろあるので、中には無断リンクを禁止すべきでないものも、閲覧制限したいものもあるでしょうし、自由にリンクをしていいといってもリンクされすぎればサーバーに負担も起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。
それがインターネット的な誠実さだからしょうがないのです。
ところが「ニセブクマ」は断言してくれます。
『無断リンク禁止は間違いといったら間違いだし、tinycafeはおかしいといったらおかしいのです。
また、無断リンク禁止を見逃すとなぜ良くないのかといえば、それが正しくなるからです。
これはすごいは、もらったブログがいいエントリーをたくさん作るから、良いタグなのです。』
このように、「ニセブクマ」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当のブクマには決して期待できないものです。
しかし、パブリックイメージとしてのブクマは、むしろ、こちらなのかもしれません。『ブクマとは、インターネット上の様々な情報に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』ブクマにはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。
そうだとすると、「ニセブクマ」はブクマよりもブクマらしく見えているのかもしれません。
たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「科学的思考」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。
「ニセブクマ」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。
http://megalodon.jp/?url=http://d.hatena.ne.jp/keyword/Plagger&date=20070104074416
まずは証拠が隠蔽されることの無いようにWeb魚拓のURLを記載しておく。
そして、上記のリンク先(改ざんされていなければ元ページでも構わないが)にアクセスして欲しい。
そして「Plaggerを含むキーワード」の部分に注目していただきたい。
キーワードの頭文字をあらわす平仮名の部分を縦読みすると「かさはら」になっていることに気がつくことだろう。
かさはら=mixi代表の笠原氏と見て間違いない。
Plaggerと笠原氏の間には何か因縁めいたものがあるのだろうか。
見つけてしまったこのエントリ、そして自分は消されはしないだろうかとビクビクしながらもここに記すことにする。
ジョージアのテレビCMを見て,あるフレーズに興味をひかれた.
「このろくでもない素晴らしき世界に」
なんだこれ?
"ろくでもない"と"素晴らしき"が奇妙に馴染んでいる.
相反するとまでは言わないが,方向性の異なる形容詞たちがぴったりと結び付いている.
"ツンデレ"とかも似た表現なのかな?
しかも,"ろくでもない"と"素晴らしき"が,1+1=2的な関係に収まってねぇー.
しかかも,この表現が持つニュアンスを,他のいい方で表現できるのか?
言い換えることが困難,交換不可能,その人にしかできない仕事…
なんかこのフレーズが輝いて見えてきた.
でも,落ち着いて考えてみると,
「なんだかんだ言って,世の中って素晴らしいよねぇ」とか「ろくでもねぇ世の中だよ.今の世界は」みたいに,
「世界」ついて言いたいときって,いい性質とあんまよくない性質の両方から言及されるからね.
だから,さっきのフレーズは当り前って言ったら,当り前だな.
他にも,「いつもひどい扱いをされるんだけど,たまに優しさを見せてくれるの.そんなところが好きなのかなー」のように,
裏と表のどちらも内在している物事に,惹かれることがよくある.
やっぱり,普通のこと?
でも,それを越えた何かが,あのフレーズにはあるような気がしてならないわ.
じっとあのフレーズを眺めてみると,ただの紋切型の表現とは思えん.
It is dense, is not slowly, it comes splendidly, in the world
To the wonderful world that is not either
In this worthless splendid world
googleは論外だけど,他はぱっとみ,意味が通じているように思える.
と同時に,字句を辞書みたいな1対1対応で,ただ羅列しただけのようにも思える.
nativeはどんな感覚をもつんだろう?
ていうか,計算機と人間のどっちでもいいんだけど,
英語でどう表現できるんだろう?