はてなキーワード: 国民性とは
今までは自意識過剰な人が多かったが、それを否定するあまり、逆に今度は必要以上に自意識というものが悪者にされているような気がする。脂肪と同じで、ありすぎるとよくないけど、だからといって過剰にダイエットして減らすとそれはそれでまたよくない、脂肪自体が悪いわけじゃない、って感じで、別に自意識自体が悪いわけじゃないし、そんなちょっとくらい過剰に持ってたって俺はいいとおもうんだけどね。そんなに自意識よくないよくないなんてやってると他人に迷惑はかからないかもしれないけどその代わり自分を切り詰めていくことになるよ。自意識なんてちょっと過剰なくらいでいいと思うけどね。「皆と違うオレ・ワタシ」をちょっとアピールするくらいいいんちゃう?そのくらいが健全な自意識なんじゃん?生きていく上で自信や自意識は不可欠だし、寧ろ平凡な人こそ意識的にそういうものを持たないといけないと思う。もともと目立つ人はそんなことしなくても自然と周りが持ち上げてくれるが平凡な人はそれがないから自分でアピールポイントを作って訴えていかなきゃならんわけでね。
なんていうか、こういうの見ると思うんだけどさ。異常に「恥ずかしさ」を意識しすぎなんじゃねえかと。徹底的に「恥」を排除しすぎ、っつーかね。さすが恥の文化の国だけあってさ。まあそういう国民性だから仕方ないっちゃ仕方ないけどね。
そりゃまー、恥ずかしいのは誰だって嫌だけどさ。何よりも恥を排除するのを優先させすぎてるような。恥ずかしい余り死んだりすらするでしょ。救急車呼ぶの恥ずかしいとかで倒れちゃったり。警察呼ぶの恥ずかしいつって色々起きちゃったり。そりゃ本末転倒だろ、って感じで。
恥ずかしいけどやる、みたいな、ある種恥に立ち向かう勇気が無さすぎじゃないかね。恥が嫌なあまり無難無難に走って、皆と同じ同じに走ってさ。個人がそういう人生を送るのは勝手だけども、他人にまでそれを強要するのはどうなのかと。
まあ要するに、
そんなに「恥」が怖いか?自意識過剰だと思われて笑われるのがそんなに怖いか?
と思っちゃうんだよな。うん。勿論「怖くてたまらない。何よりも怖い」人はそうすりゃいいけど、それを基準にして他人をどうこういったりそれが常識だといわんばかりなのはどうなのかね。そんなに恥を気にする人ってのは、ある種単なる「弱虫」な面を抱えてるだけだっつーことも(勿論それだけじゃないよ、恥をかきすぎてる人もそれはそれでどうかってのは勿論別の面から言えばある)肝に銘じておいたほうがいい。「恥」から逃げるのを正当化させすぎではないかな。逃げるのが悪いといってるんじゃないよ。ただ「逃げている」ことは自覚したらどうかと思う。
先日、社内報が回ってきたのだが、その中に書かれていた社長からのメッセージに強烈な内容が含まれていたので、社内の人間だけに読ませるには勿体ないほどの含蓄があると感じ、テキスト起こしをさせてもらった。なお、特定の名称に関しては伏字とさせていただくことを、あらかじめお許しいただきたい。
さて今月、私は中国湖南省の長沙へ行く機会がありまして、じつに15年ぶりの中国旅行をしてきました。15年前にも北京や桂林へ行った事があるのですが、その時との変貌ぶりには目を疑います。まず、空港から街までは高速道路が完成しておりまして、街中に入ると車やバイクの大群が流れています。訪中するまではかつて見た自転車の大群が頭に浮かんでいたのですが、現在は違いました。高級外車の姿が目につく一方で、昔いた牛車の姿は何処にも見かけません。
ばい煙あるいは排ガスや黄砂によるものなのか、くすんだ街の光景は見通しが悪く、太陽の形を見ることもありません。昔と大きく違うのは観光地のトイレで、ちゃんと扉もあるうえに水洗化までされていました。また、レストランで出てくるビールも冷えていて、笑顔での対応も少しずつ見られます。
しかし交通モラルは低く、車の量も人の数も多過ぎるため、横断歩道を渡るにも決死の覚悟がないと永遠に渡れません。世界中の産業の生産拠点が一気に集まり、急成長を遂げた中国のごく一部を見ただけですが、その姿はまるで30-40年前の日本にも似て、人のことなどなりふり構わないといった自分本位の国民性を見る思いがします。事実、公害を撒き散らし森林を伐採し続け、緑地が減少し黄砂の舞う砂漠の拡大が深刻な状況な事に気づくこと無く、現在の中国は拡大成長だけをしてきています。北京五輪を機に、なんらかの変化が起こる事を期待するしかないですが、こういった感覚の国民がたくさん日本に観光に来ていて、日本の観光業に対し影響を及ぼしていると考えると、我々としても知らん顔はできません。
特に今回、当県を中心に展開しているスーパーマーケット業界の中堅企業の『×××』が10年前から長沙に進出し、このたびさらに数店舗を開業することを機に、話を伺いました。しかし驚いたのは店長の話で、開業当時に多くのお客様が来店されたにもかかわらず、商品は棚から無くなる一方で、売り上げがいっこうに増えないという現象が起きた。多くのケースでは、従業員がリーダーの目を盗み、商品を勝手に持って帰っていたそうです。また、家族が来店した際に同様の方法で商品を持ち帰らせるなどして、店側に多くの損害を出したと聞きました。でも、根気よく「なぜ持って帰るとダメなのか」を教え理解させた結果、10年で素晴らしい社員に教育されたそうです。実際に店内で買い物をしてみましたが、日本の百貨店方式の接客や精算が実によく行き届いていました。
古くから万里の長城での団体観光写真撮影を日本から教えに行き、拠点にしていた奈良県の写真屋さんも、社長が見ていないと店員たちがすぐに売り上げを誤魔化し、ポケットに入れてしまうと嘆いておられましたが、国民性とは本当に怖いものです。でも経済成長と共に、笑顔で「ありがとう」が言える国民に成長して来ている事を考えると、中国という国が日本にとってますます驚異的な存在になることは疑いありません。今回の旅行は、本当にいろんな意味で勉強になりました。
追記:「長沙 日系スーパー」で検索すると、せんだっての「日貨排斥暴動」の対象になった事が分かる。その時にこのスーパーはどれだけの痛手を蒙ったのかと考えると、複雑な思いになる。
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/functions.aspx?n=MMITel000003102007
いくら初音ミクが凄くて、ニコ動と連動して誰でも音楽製作&アイドルプロデュースだ??とかいっても、結局は作る奴の絶対数が少なくて廃れるんじゃないの?
受身が好きで、出る杭になる事を恐れる国民性はそうそう変わらないし、DTMの未来形だ!とか、これからはCGMがTVを駆逐する!とかって論理は(少なくとも俺にとっては)ドットコムとかWeb2.0なんかと同じくらい虚しく響くんですが。
つーか、まだ黎明期の製品なのに買いかぶりすぎだろ。
セリフにセリフが被る演出ってほとんど見たことがいないんだけど
何でやらないの?やれないの?伝統?
エヴァンゲリオンの発令所のシーンで、ゲンドウのセリフの後ろでオペレーターの声が聞こえる、みたいに全く関係ないセリフがバックに流ることは少なくありませんが、確かに、相手を遮るような形でセリフを重ねて言い合いをするような演出は、あまり見られません。
これは、海外ドラマなどではよくある演出なのですが、日本人の国民性なのかなんなのか、どうも台本にしてしまうと相手の発言が終わるのを、行儀よくまっているようなやり取りが多い気がします。
最近の作品では、海外ドラマの演出を意識して作られているGONZOの『RED GARDEN』で、4人のヒロインが好き勝手に喋ったり、言い争ったりとセリフが交錯する演習が取り入れられていました。絵にセリフをあわせるアフレコではなく、セリフを先に収録するプレスコという方式で制作されたこのアニメは、ヒット作とはいえませんが、演出の可能性を提示した隠れた意欲作といえるでしょう。
続編となるOVA『デッドガールズ』もでているので、興味がある方はぜひ。
似たような状況なので、自分がやった打開策を提示
・同ジャンルの個人サイトとはっきり宣言したページを用意(但し管理人が同じ事は明言)
・ジャンルで大手になったページは管理人の素性が追及される傾向にある(ゴシップ好きな国民性?)ので、どちらのページもユニークアクセスがほぼ同じになる。
・個人サイトの方で私信なりなんなりを書く(ただし口出しされないだけで、見られているレベルは変わらない事を肝に銘じる)
・アンケートなど、おおやけに問いかけるようなものはメインのページでやる。(これに関する苦情はやっかみ以外のなにものでもないため気にする必要が無い)
日本が平和というよりは、銃や刃物が流通しずらい体制のおかげで、なかなか事件にまで発展しないだけの話で、この間の立てこもり事件みたいなのがおきたら、警察は犯人が投降するまで、警官は撃たれるわ、それをまともに救出もできないわで話にもならない。それに警察沙汰にしたがらない国民性もあって、一見平和に見えるだけに過ぎないんじゃないか。年間3万人自殺する社会が世界で一番治安が良くて平和な国なわけがないだろう。
個人的にこの記事には同意するんだけど、
(おそらく誰かが既に言っているであろう)「大学名言ったり芥川賞カンタンとか言ったりするのも自由なら批判も自由じゃね?」という反論に、自分はなかなか反論できん。
いや、なんかそれは違うんじゃないかっていう気はすんだけど。でもそのモヤモヤをいまだ言語化できない。
俺は、なんつーのかな、ちょっと若者が(別に若者じゃなくてもいいんだけど)いきがったことを言ったり、自信満々に野望を語ったりすることに、日本人ってちょっと厳しすぎると思うんだよね。他人が「大きなことを言う」ことを嫌うよね。で「図々しい」「お前なんかにできるわけがない」「もうちょっと現実見たら?」的に返したりする。でもそういうやり取り、俺は凄く嫌いだ。そんな事言って、何になる?と思うから。野望に燃えてる奴らの芽を、ただ刈り取るだけの行為。というとすぐに出てくる、「そんなんで刈り取られるくらいなら最初から花なんか咲くか」という論も嫌いだ。あまりに無根拠で、無責任すぎて。天才でも、ケチをつけられてスランプなんてザラにある。それでやめちゃうこともざらにある。これから力が伸びるかどうかと、ナイーブさは無関係なんだよね。ちょっと考えてみれば分かると思うけど。プロだってなんだって能力あってもネガティブでナイーブで人の意見にすぐ左右されちゃうなんて人はざらにいるわけで。そりゃ、誰に何を言われても、無視して、ぐんぐん力を伸ばしていくっていう構図は、美しいよ。モロ、日本人が好みそうな理想だよ。でもそりゃあくまで理想であって、リアルな人間はもっと泥臭いわけで。
勿論、敢えて批判することで伸ばす、ってのもアリだけど、ほとんどの場合、まるっきりそんな意図は見受けられない。ただムカつくから、攻撃する、という感情だけ。だから嫌なんだ。嫉妬に近い感情。「俺らより上に行くんじゃねー」「俺ができないのに、お前なんかにpgr」的感情。そういうので叩いてる。だから嫌なんだ。
なぜ、他人が大きなことを言うのをそんなに嫌がるんだ。
いいじゃないか。もっとおおらかな目で見てやろうよ。いちいちムカついて、彼らのせっかく生えてきた芽を刈り取るなよ。そんな暇があるなら、自分の芽を育てればいい。そうやって皆で足をひっぱりあって、皆で「どうせできるわけがない」とネガティブになって……いいことなんてまるでない。日本全体が小さくなっていくだけだ。
他人が大きなことを言うのを許すという土壌を築いていけば、つまり自分も大きなことがいえるようになる。「どうせ無理だし、恥ずかしいからこんな事言えない……モジモジ」てな心を解放してやれる。すばらしいことだ。ちなみに夢を実現させるためには、そうやって恥ずかしくても他人に言ってしまうことが成功のコツだ。今の日本のこのねちっこい足ひっぱりあい社会、皆好きか?嫌だ嫌だといってるだろ?その社会が現れている一端がこれなんだよ。他人が背伸びしようとするのを必死になって足をひっぱる社会は生き苦しい。もう皆分かっていることだ。悪しき恥の文化を消し去ろうや。日本人。今の時代、恥の文化なんて持ってたってなんにもならん。湿っぽくねちっこいいやらしい国民性はもうまっぴらだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070709143810
http://anond.hatelabo.jp/20070709151552
『2ちゃんねる』を利用する人間が増えれば『2ちゃんねらー』というカテゴリーが生まれ、
なにかが起こると2ちゃんねらーがまたなんかやったぞ 2ちゃんねる閉鎖しろ これだから2ちゃんねるは。。。
とかいってる人も多い感じだけど、そもそもそのカテゴライズに意味はあるのかって感じる。
『2ちゃんねらー』がどうとか議論されてるけどそもそも匿名の場である以上、本来ならそこで起こる問題は参加可能な人間すべてを内包しているはず。
まるで外側から『2ちゃんねる』というものについて語っているつもりな人が多いけど、本当にそこに危惧を抱いているなら2ちゃんねるを通して現れている国民性や人間の根本的な醜さに目を向けるべきだと思う。
『私たちは言葉の力を信じている(朝日新聞)』などというのは馬鹿けてる。金のためにやってるだけにも関わらず大きなメディアは自分たちは聖人でありすべての外側にいるフリをよくする。
人間の醜さは世が荒めば表層に現れてくる。
そうしたら人間は不安になってくる。不安を作り出して(問題を提起して)売るメディアを通して人は不安を定型に当てはめて安心する。ああこれは国が悪いんだ・自民党が悪いんだ・安倍政権が悪いんだ・創価学会が悪いんだ・特定アジアが悪いんだ・2ちゃんねらーが悪いんだ、と。
だけど元をたどれば同じ民族の人同士だったり・民主の多数派が選んだ政権だったり・いままで築き上げた文化の一部だったり・自分の利用しているネットそのものだったりするわけで、うまく表現できてる気がしないけどそれがどうだから何が悪いとかいえないはずだと思う。
レッテルを貼って『女』だから仕方ないとか『在日』だから仕方ないとか本来なら簡単にはいえないことである。
いままであったいろいろな問題や事件を元にこういう性質のやつが多いというカテゴライズは確かに予備知識や集合知としては役立つかもしれないけど、本当にそれらについて語るときはそれらはあくまでその程度の情報なんだということを念頭におくべきだと思う。
恋愛指南・マニュアル通りにことが進まないことの方が多いし、知り合いのオタクや在日や中国人や学会員(は自分にとってきわどいが)がすべてちまたで書かれている通りであることはまずない。
(私の周りにはひとりぐらいしかいないが)学会員だって人助けをしたいと純粋に思ってる分、政治的な話やいってることはハナにつくことが多いけど根本的にはいい人が多いはず。オウム真理教の事件後に教団に残った人らもどれも純朴で信じやすい人なんだろうなあって感じのする人ばかりにみえた。(ドキュメンタリー映画・A/A2参照 - 森達也作品)
信者やアニメオタクや腐女子やバンギャルや在日コミュニティは自分でものごとを進められない主体性のない人たちが自分の信じたものを元に一本筋を通して安定を得ている人が多いと思うけど、そこにそれ以上のカテゴライズは不可能だと思う。
筋が通った結果どういう人かというところは彼らが信じているものとは切り離して評価するべきだと思う。
知り合いの人たちの話をしてみる。
まず創価学会の幹部が知り合いにいるけど、この人の話は民族性がどうちゃらとかいう話はとてもうざいし3ヶ月に一度は入会を勧められるが、この人の煎れるコーヒーはだいぶ美味いし趣味の美術関係の話などはとても好きだ。近所の面倒見のいいお兄さんといった感じで他の学会員からの信望も厚い。
知り合いの腐女子はとあるオフ会に友達に連れて行かれ、なぜかその会の幹部が1次会途中で腹痛で帰ってしまい一番関係ないといってもいい私が自然と取り仕切ってしまったときに知り合った。カラオケにいってアニソンを歌うという企画だったが、私はよくわからないのでとなりでカメラ係りを担当しながら笑ってみていた。彼らの情熱は微笑ましかった。どこか世間ズレした感性は世に疲れた人を癒す側面も時にあるようにみえたし、なによりアニメを作った人たちもこれだけ愛されてもらってとても嬉しいし次につながるやりがいが生まれると思う。文化の発展に貢献する熱心な受け手にみえた。
在日韓国人コミュニティは各地域に点在するので、地元に根付いて住んでいる人は係わり合いが多いと思う。私は母の実家がそのような地域なのだけど、母の偏見はとても強い。母はネットなどみないが、父の仕事の関係や近所づきあいの中で在日や韓国人や部落は迷惑千万といった結論に至ったらしくそういう話になるととても酷い言葉がでることもある。
かばう気はさらさらないので彼らがずうずうしく人のものを借りて壊して返してきたり、逆切れしたり、店のツケを10分の1ぐらいだと開き直ったりしたという事実はここに書いておく。中国政府は貿易する相手としては本当に最悪の相手というのも分かる。それも事実だと思う。体験したことがないので彼らのいいエピソードを書くことはできないのだが、ここまで読んでくれた方には何がいいたいのかは察してほしい。そういう人もいるしいい人もいるということだ。
方向性を決めなくては商売にならない・読まれる文章にならないという気持ちは重々分かるし私もこれからそういった文章を提出しなくてはいけないわけだけど、ようは表面的にならず裏側をつねに読むようなリテラシーぐらいは持っておくと勘違い人間になりにくいとという話でした。レッテル貼りで思考停止しないでね。
某大手国立大学卒業、25才、大手IT系企業に勤める優秀な社員が
絵に描いたような生き方をしたら
絵に描いたような悩みを持ったんだ
それはこんなカンジだ
「あ、はい」
「できます」
「大丈夫です」
「頑張ります」
一人が無理をすれば、他の人に無理がかかるんだ
会社なんてその最たるもんだ
べらぼうな目標に向けて無理を宣言すれば
もちろん、中間層まで全て、
一番のシワ寄せを喰らうのは実務者だ
なのに、困ったことに、なぜか、どうしてか
実務者も徹夜をして勤しむ
上の人間の無理を喜んで喰って、
無理なものを無理して吸収する
そしてたまに「頑張ったな」と言われて、喜んでる
みんな頑張れ?
みんな苦しいから俺もがんばろう?
みんなが頑張ってるから俺もがんばらなきゃ?
人が死にそうなぐらい働いてるから自分死にそうなぐらい働こう?
俺も含めて、おまえら正気か?
小さなプライドは捨てるんだ
無理なものは無理と言え
目の前の「はい」は本当にそれでいいのか?
そこで「やりたくないよ」と言えない事情がある
そんなことを言ったら生産性が低下する
「はい」と言い続けてべらぼうに働く社員を持って、低コストで高い生産性を確保してる他の企業と競争したら負ける
潰れる
食えない
みんなでいっぺんに変わらないと無理なんだ
けれどみんなそれぞれが閉塞してる
何も変わらない
そりゃ少子化になるよ
誰も結婚しねーよ
べらぼうな「はい」が閉塞を生んでる
もしこれが、
この国のNoと言えない国民性に起因するなら、
流し流され自分を消して他人に合わせて得た繁栄だとしたら、
俺はこんな国はデタラメだといいたい
こんなのは虚栄だ
こんな国に未来はない
これを見ている学生、リーマン、ニート、主婦、管理職、役員、天皇でもいい
先生の言うことに全て「はい」
親の言うことに全て「はい」
偉い人が言うことに全て「はい」
恋人が言うことに全て「はい」
読んだ教科書に全て「はい」
目で見たものに全て「はい」
自分自身の思考をしないで、価値観を消して、自分の考えを卑下して
自分以外を全肯定、鵜呑み、疑いなし
「しょうがないから」
「みんな言ってるから」
「教えられたから」
「あるある大辞典が言ってたから」
「あの人に褒められればいい」
「あの人に好きになってもらえればいい」
まず自分を持て、自分を出せ、好きにやっていい、自由でいい
疑問をぶつけて、怒鳴られ、白い目で見られて、恥をかけ
これは、この社会に対して、誰でもいいから手当たり次第に言うべきだと思った
けれど上司には言えなかった
だから、ここで言う
誰か、聞いてくれ
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http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50841971.html
>私は見栄っ張りなので、NoはYesと言えるときでないと言いたくない。
Googleの地元サンフランシスコではGoogle提供無線LANが街全体で使用可能という話は有名だ
なんでもGoogleはどの無線LANに繋がってるかで位置情報を把握し、それに基づいたターゲット広告を飛ばすというシステムを確立したいらしい
そのため、「FON」という無線LANネットワーク構築企業に多額の投資を行っている
ネット内の行動だけでなく、リアルの行動もGoogle先生にはバレバレになるということだ
というわけで、もしこのシステムが機能し始めたらどうなるかを授業中にシュミレーションしてみた
通話はskypeやGTalkで無料になるだろうし、メールもネットも無料でやりたい放題になる
しかし無線LANが行き届かない地域が出てくるために既存の携帯キャリアとの提携で、今までの携帯のシステムと併用になるだろう
そうなったとき、Googleは家で無料通話などができることを餌に、「FON」のシステムを家に置くように勧める
このシステムは自分の位置情報から近くにある店などの広告を受け取るという仕組みだ
店ごとの無線LANでその店の前を通ると、その店の広告がGPhoneのチラシボックスのようなものにはいってるというのも面白いかもしれない
広告にはタグがあり、【服】【雑貨】などのタグで街をぶらついてるだけで好きな店の情報が手に入るというわけだ
会社で暇つぶしに広告を見て、「クーポンもついてるし帰りに買って帰るか」ということになる
「服を買いたいんだけど行きつけにあまり欲しい服がなかったな」
「この近くにこんなに服屋あったんだ、いってみるか」ということになる
広告フィードが受信されてどんな会社か知り、会社の地域密着性が高くなる
…こんな感じで位置情報を操るだけでいろいろと可能性が生まれる
ビラもティッシュも配る必要がなくなる
その地域でしか手に入らないご当地アイテムや
まあなあ
肯定否定どっちもソースが怪しいんだけど
俺も虐殺は無かったと思っては居る。
強いて言うなら、南方戦線で人肉食ったくらいでビビッちゃうような
ナイーブな国民性を持つ日本人が非戦闘員を大量虐殺してケロッとしてるというのは
ちょっと考えにくい。論拠としては薄弱だけど。
中国みたいに「人肉は刺身もいける!」みたいな国民性ならあるいは。
妊婦の腹を割って赤子を突き刺したみたいな、虐殺にまつわる与太話も発想自体が大陸的。
日本人ってそういう突き抜けたところはあんまりない気がするんだよね。
考えにくいとか気がするとか、全部推量だけど。
あんたが一番解決策を志向する気がなさそうだけどな。
反省汁って、何を?
これからは痴話喧嘩であろうと他人同士のやりとりに積極的に介入しましょう、と言うのかと思えばそうでもない。
私も怖い、で逃げているから。何の責任も取る気はない。
でも社会を糾弾する権利だけはあると思っている。
結局
っていう自説を補強するためだけのダシにしているに過ぎない。
ひとつ言えることは、車内の人々があんた程のダメ人間だと決めつけない方がいいってことだ。
やたらに被害者の落ち度を探す奴いるけど
それを「今後の反省」に生かすために議論してる奴どれだけいるんだろ?
ほとんどがただいたずらに落ち度をあげつらってるだけな気がする。
結局、怖いからさ。嫌過ぎる事件を、直視できないから、
被害者にも何らかの落ち度があったことにして、
そして「自分及び自分の身内は、そんな落ち度は犯さないから、大丈夫だ」
と思いたいんだよね。でもそれって危険だよね。
正直、「助けて」って一言いったら、その30人の乗客が助けてくれたかっていうと
それはすっごく怪しいっしょ。なんか、「助けて」って言わなかったからだ
みたいになってるけどじゃあ助けてって言えば本当に上手く言ったのかな
勿論言った方が可能性は上がるからいった方がいいけど
そういう問題じゃなくてさ。余りに「助けて」って言わなかったからダメだったんだ
ってとこに、必死にもっていこうとしてる感が、なんだか不安だ。
そこに問題を落としこんで、「そうだ助けてって言わなかった(あるいはいえなかったでも同じ事)
からな。そうだそうだ。だからこうなっちゃったんだ」って安心してる感じが怖い。
助けてといえば「助かる可能性はあがった」だろうけど
そうすれば100パー問題なかったとかそこだけに問題があったとかじゃないっしょ。
今後の反省として検討する意味はあるけど、ただ安心する為だけに
論うなら、寧ろ逆効果なんじゃないのかね。
助けてって言わなかったこと以外に、もっと問題はあるだろうよ。
結局怖いんだろうな。自分も怖いし。わかるけど。
怖いから事件直視できないんだよな
悲惨な事件ほど被害者の落ち度を探そうとする奴多い気がする。
そうして「被害者にも落ち度があったから起きちゃったんだな」って安心したいのさ
俺僕私はそんな落ち度しないから大丈夫だって安心したいのさ
助けられないのも、ある面で無理はないけど
だからといって「そんなん無理だ。寧ろ助けないのが当たり前だ」
って開き直るのも違うだろ。
なかなか助けられなくても反省すべきだろ、そこは。
何で開き直るのかわからない。
結局みんな怖くて直視できない。
事件を受け止められない。臆病なんだ。怖がりなんだ。
でもそんなことしても一時の平穏だけしか得られんぜ
怖くても受け止めないと。目をそらして自分の今一時の平穏だけ
追いかけてたら、結局周りまわって大損だ
逃げてばかりで、そのまま人生80年逃げ切る、そう思ってる人ばっかりなんだろうな。
でもさ果たして何人が逃げ切れるんだろうな
皆が逃げれば逃げるほどますます状況は酷くなる。
結局皆少しの勇気が出せないまま、皆で潰れちゃったりするのかもな。
日本って結局、そういう国民性なんだよな。そう言うところが最高に情けないな。
その情けなさすら、認めようとしない奴ばかりで。
弱さを直視する所から強さは生まれるのだが
直視することすらできない弱虫の集まりだ。