2024-07-21

「ひとり街宣」

左派政治参加純粋な形みたいに手放しで持ち上げる。

左派批判的な人間シール貼りや演説妨害と同一視して叩く。まあ同じ人がやってる例もあるかもしれないが行為としては別物である

あるいはそんなもん毒にも薬にもならない自己満足しかないという冷笑的な受け取り方もある。まあその通りではあるだろう。

やりがいを与える・周りと断絶させるカルト手法だとかいうのはさすがに言いがかりである

さて有志による一人辻立ちに左派がプリミティブな政治参加の芽生えを見出し称揚するのは感覚的にはわからんことはない。

安野候補テクノロジー選挙のやり方をアップデートするとブチ上げていくらか実際に形にして示した、そういう取り組みはそれはそれで大事だが、どこまで行っても選挙本質的泥臭さみたいなものはなくならないと思う。

ふと辻立ちを思い立った人は、しかし結局SNSでのネタになる・褒めてもらえるという頭があったのだろうか。べつにあってもいいんだが、それだといずれその人はシールとか踊りとかの「映え」方向に、ANTIFA的なカッコつけカルチャーに合流してしまうだろう。

そもそも、なぜ個人でやるのか?ぜひとも推したい候補がいてそのために時間と労力を費やす意思があるのなら選挙ボランティアとして馳せ参じたほうが自分の供出し得るリソース有効に使えるのではないか

組織されることへのアレルギー」がおそらくそこにはある。別に選挙終わればそれっきりでもいいのに。

裏金だとかカルトインベージョンの背景には現場マンパワー不足がある。

そういうルートをあえて選ばずなお「一人街宣」に価値を見出すとすれば、結局一周してロマン問題になってくるのか。

そこには確かに「何か」があるような気はするがうまくそエッセンスを掬い上げることができない。

一つ思ったのはせっかくならなんか言えやということだ。そこで通りがかりの酔っぱらいとでもいい、問答が生じるならばそれは意味のあることではないか。誰が言ったか選挙対話の機会でもある。ネットくそみたいなやり取りとはまた別のチャンネルがそこに開かれないだろうか。

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