https://anond.hatelabo.jp/20230207033104
上記の文章に対してブコメで定型発達の人の見ている世界はそうじゃないとか、定型発達の人の上辺だけ見て的外れとか意見がついていたので、
同じ発達障害者として、なぜ発達障害者は「発達障害と定型発達の違い」を言語化したがるのか、
そしてそれがなぜ的外れと言われがちか、
結論としては、発達障害者が「発達障害と定型発達の違い」を言語化するのは、
主に当人自身が、自分の生来抱えてきた不条理を分析・理解するための行為であって、
その分析の途上の文章がインターネットに公開されがちなため、傍から見て分析が不正確に見える場合があるのだと思う。
だいたいの発達障害者は、物心のついた頃から不条理を一身に抱えて生きてきている。
他人と同じことが自分だけうまくできなかったり、当人にとってわけの分からない理由でいじめを受けたり、
それは大人になってからも続き、就職や結婚といった人生の重要なイベントにも深刻な影響をもたらす。
そこで発達障害者は、なぜ自分は他人と同じことができないのか、思いつめることになる。
発達障害という概念は、上記のような不条理の原因の多くを説明してくれる画期的なものだ。
何十年も生きてきて、初めて分かった!
発達障害の概念を知った当人は、その概念が自分の人生の悩みの多くを説明してくれると思い、
そしてその言葉を使って、自分と他者の違いの分析を始めるのだ。
発達障害者の語る言葉が、「発達障害と定型発達の違い」という二分法に偏りがちなのは、ここに由来する。
発達障害という概念だけでは、実は自分の悩みを説明しきることはできない。
しかし当人がそれに気づくのは、もう少し分析を進めてからの話だ。
特に分析の初期においては、障害の有無という切り口から分析をスタートするため、二分法に偏りがちなのである。
そのような分析は、物事を言語化するのがある程度得意な発達障害者であれば、
発達障害者は自分の抱える不条理を、感覚的に理解することが困難で、
そのような行為を通じて、発達障害者は自分と他者を理解していくのだ。
そのような分析には何年、何十年もかかったり、あるいは一生かかったりする。
もし分析を十分に満足に行えたとしたら、悩みにも区切りがついて(悩み自体は解決はしないが)
発達障害者の文章が的外れに見えても、それは当人がもがきながら自己理解をしていく上で必要な行為なのだ。
ではなぜ、その自己理解のための文章をインターネットにわざわざ公開するのだという話になるが、
それは発達障害者にもやはり、他者に自分を理解してもらいたいという気持ちがあるからだと思う。
自分の分析結果を公開することで、自分が理解されるようになるかもしれないと、心のどこかで思ってしまうのだ。