最近私はvtuberを見るのにハマっており、特ににじさんじ、ホロライブのvtuberの動画を見ている。
これらのvtuberはゲーム実況や雑談配信などのライブ中心であり、対極的なvtuberはおそらく動画中心のvtuberであると思う。
自分語りをつづけると、以前某ゲーム実況&演劇をするvtuber集団をかなりの頻度で追っていた。
といっても入れ込んでいたわけではないのであの一件以降も特に精神的障壁を感じることなく動向を追っていたし、むしろ彼らの問題自体にとても興味があった。
問題は公式が”Ctuber”という言葉で皮肉にも的確に表現してしまった概念についてのものだったように思える。
これらは対比されて某SNS上で大いに取り上げられたように思う。
簡単に言えば“ガワ(キャラクター設定)”と“前世(中の人)“の問題である。
ライブ中心のvtuberは”中の人”の特徴が支配的になるのに対して、動画中心のvtuberは極端な話が”ガワ“があれば中の人は代替可能であると、そういう話だったと思う。後者のあり方を公式は”Ctuber”と呼んだのだと自分は解釈している。
そしてこれも個人的な観測に基づくものだが”Ctuber”という概念は視聴者層、とくに”信者”層にあまり受け入れられなかったように思う。ライブが中心でない彼らでさえそうだった。
彼らに対する印象をSNSや某掲示板で見ているときに上の一件を思い出して面白いことに気がついた。
俗にいう”信者”と“アンチ”のやりとりを見ていた時のことである。(心象への影響が面倒なので肯定派、否定派と呼ぶ)
否定派があるvtuberの“前世”がした倫理的にはあまり許されることではない過去を取り上げて攻撃していた。
上の一件をもとにして考えるならば、ライブ中心のvtuberは“前世”にも大いに依存した存在であり、そこを擁護するべきのだと私は予想した。
肯定派の意見は、”ガワ”と”前世”は完全に分離されて然るべきだ、と言っているという意味でvtuberとは”Ctuber“であると言っているのと変わらない。
むしろ”前世”が中心的なライブ中心vtuberにおいて、その肯定派に”Ctuber”理論を主張するものが多いというのはどういうことなのだろうか?
また、一つ穿った見方をすると、”ガワ”を守るために”前世”を切り捨てて見ないフリをするというのはいかがなものか、ましてや活動が”前世”の力量に大いによっているvtuberにおいてはどうなのか?