「そういう人は生きている価値がないと思います」とのたまう輩がいる。
鈍感なのだ。鈍感だから人を見ただけで、人と話しただけで人を決めつけられるのである。侮れるのである。
そういう輩は命の尊さを見ようとしない。人の魂の輝きを、人の可能性を、その誇り高さを理解していない。
ある者は見せかけだけの美醜に拘泥し、ある者は自らの尊厳を貶め、皆輝く道を自ら閉ざしてしまう。
断言しよう。「生きている価値がない」などということは断じてないのである。
弱い君は、君の立ち位置から、君の才能に合わせて、他ならぬ君自身が着実に成長できる道を思い描いて、少しずつでも前に進む。生きる努力をする。それだけである。
それを他人が貶めることなどできはしないのである。君の可能性を否定することなどできないのである。
君はそんな妄言に惑わされてはいけない。たとえそれがいかに強烈なマインドコントロールをはらんでいてもである。
生きてさえいれば、何にだってなれる。その道はいつだって見つけることができるのだ。生きてさえいれば。
いかに絶望的な状況に思われても死んではいけない。自らの意志によらず、卑劣な連中に追い込まれて命を散らすことなどあってはならない。
なぜ、平然と人を傷つけられるのだろう?なぜ、人を絶望の底に叩き落とすことになんの躊躇もないのだろう?
自らの卑劣さを恥もせず、あまつさえ自分たちに正義があると思っているのである。仕草が気にくわないとか、そんな些細な理由で殺すのである。
私は悲しい。人の気持ちがわかるのなら、それを機敏に察知できるのなら、それを踏みにじるのではなく寄り添うこともできたはずではないか?
それは彼らの選択なのである。彼らはそれを望んだのである。そんな悲しいことはないではないか!
きれいごとなのは百も承知であるが、「だから貴様らは永遠に争いを止められないのだ」と皮肉を言いたくもなる。
人はなぜ争うのか?お互いを憎み、血を流すことが嵯峨だとでもいうのか?
絶望に突き落とされて、人の卑劣さ・狡猾さを骨の髄まで思い知って、その果てにそんなことばかり考える。そこはまさに地獄であった。
そんな私は、「文学」に当てられた、正義に燃えた異常者なのである。
アニメや漫画、あの世界はいい。美しい。その一言に尽きる。そこに理想の世界がある。
しかし、あれらは「宝石のような毒」なのだと思う。宝石のように輝かしい。涙を流しながら感動すらする。
心が洗われ、清められるようである。しかし、同時に生きる力をもがれているような気がする。
その高潔さに憧れるほど、その気高さを追い求めるほど、現実を、理不尽な世界を生き抜く冷徹な心を失ってゆく。
毒なのだ。
思うに私はこの絶望を味わい尽くさなければならないのではないか?絶望を見つめ、理解しなければならない。たとえそれで自らが崩れ落ちれしまうのだとしても。
イタイ