「シン・ゴジラ」に「ステレオタイプな人型」しか見つけられない(多くの観客の)死んだ感性こそが、元増田の一番批判したい点だろう。
「過剰演技」こそが気持ちの悪い誇張に過ぎないものではないのか。そんなのが「ステレオタイプではない人間性の発露」だと思っているのだろうか。そういうリアリティの欠如をなんとかしたくて、庵野は、過剰演技を避け「お涙頂戴の家族・恋人系ハートフル脚本」を避けて、「ごく普通の人たちのいる普通の社会にゴジラがくる話」を描いたんだよ。「シン・ゴジラ」はむしろ元増田の理想の一つの現れた形だろう。
「シン・ゴジラ」における「人間性」は、過剰演技でなく徹底的にディテールとして表現されていた。深夜の掃除夫であるとか、おにぎりおばさんであるとか、崩れていく家の中で避難準備する家族であるとか、逃げ遅れた老夫婦だとか、汚れたシャツだとか、ラーメンどんぶりであったりとか…etc。中心人物の矢口自体、スーパーヒーロー(過剰なキャラ)ではなく、目の上のたんこぶ的な閣僚たちがゴジラに一掃されたらあっさり錯乱して一晩中歩きづめで無口でヒステリックになったりする「ただの青二才」(普通の人)で、非常事態だから中心にいるけど当然そんな彼に全部を任せられないので仕事人らが周りを固める体制になってる、そこに(フィクションなりの)リアリティが生まれているわけで、カヨコや泉はもとより、里見(後継総理)、財前(「仕事ですから」の自衛隊の人)みんなが「それぞれの思惑で」矢口に協力していることは、普通に映画を見てたら十分感じ取れるように描かれていたと思うよ。何より、ラスト近くで尾頭が「よかった…」と漏らす笑みに、「ステレオタイプではない人間性」を感じ取れないとしたら、相当どうかしてる。それらの演出が「肌に合わない」というならまあ好みの問題で済むが、こういった演出をまるで無視して「全員が指導者の命令に従って機械のように動く」というのは、それこそ味の濃い「過剰演技」に慣らされたあまりに底の浅い物の見方ではないかと思う。
増田は、まず自分の感性自体がどうかしてる可能性をもう少し疑った方がいいのではないかと思う。「普遍化された演出」によって駄目になったのは、新作映画の方ではなく増田の感性の方ではないか。
まずシン・ゴジラに言えよ 役人も自衛隊も全部がステレオタイプな人型で生きてる人間がいない 戦国自衛隊で和子と叫びながら落ち武者がりの農民と戦って死んだ隊員やコイツらの兄ち...
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自衛隊の出る映画は当人の葛藤や家族との関係が一切かかれてないパターンが多いんだ 対外結婚してるか恋人イルカいなくても親や友達はいるだろ 俺戦争行くんだの話題のシーンがなん...