小さい頃から「嘘は言ってはいけない」と思っていたし、人の言うことはまず「信じて」理解するべきだと考えてきた。
人の言葉を疑わないと言う意味ではなくて、疑うのはいくら疑ってもいいんだけど、相手が嘘だと認めない以上は、どんなに疑わしくても、とりあえず「相手のいうことは正しい」とみなすと言うこと。
この態度がどうやって身についたのかよくわからない。小さい時から冗談を真に受けたりして「どうしてそうやってすぐ信じちゃうの?」なんて言われることがあった。別に本気で信じているわけではなくて、冗談のように信じたがいことであっても、そう言うのだからそうなのだろうとみなして理解するのが礼儀というか、当然そうするべきだと思っていた。多分、礼儀という概念はわかっていなかったけど、「人の話を無視してはいけない」みたいな感じで、当然、人の言うことを嘘だとみなすなんてことはしてはならない、みたいな。
そういえば、「人の話を無視してはいけない」は、多分小学校とか幼稚園で大人に言われてそのまま受け入れていて、中学くらいまで正しいと信じていて、高校生くらいの時に法学の勉強をするようになってから、「人の話を無視してはいけないと要求してはいけない」と認識を修正して、これは大変なショックだった。自分は今まで間違ったことを教えられてきて、それを今までずっと正しいと思い込んでいた、と言うことを受け入れるのが大変だった。
「人の話を無視してはいけない」って子供には一般的に教えていることだと思うし、みんな大人になるに従ってこれが世の中では通用しないことは肌で感じるはずなのに、どうやって折り合いをつけてるんだろう。
それと同じような感じで、「相手のいうことは正しいとみなすべき」って言うずっと受け入れていた正しさが、対人経験を重ねるにつれて、現実と整合できないと感じること。
相手の言っていることがある程度疑わしいとき、一応自分は確認をするようにしてきたつもり。「それは本当なの?」「本当だとするとこれおかしくない?」みたいに、それが信じがたいと感じる理由を説明して、相手が「実は嘘でした」と認めるか「それはこういうことだから不自然じゃないし疑うことないんだよ」って説明してくれるのを期待していた。
納得できる説明が得られなくても、相手が間違いを認めなければ、やはり信頼しなければいけないと思っていた。それが相互に信頼するために必要な態度だと思っていた。
でも、世の中では、信頼っていうのはそういうことじゃないんだってことを、最近強く感じる。言葉では認めないのに、やはり本音は自分が疑っているようなことで、そして自分がそれを疑う理由は全く正しく、そのような疑う理由が明らかにあるから、相手もこちらが察することを期待していたり。
自分では察することはできているつもりだ。察しているからわざわざ念押しの確認質問をしたり疑問を表明したりするんだ。それでも認めなければ、「疑わしいけど、本人がそういう以上信じるしかない」というのがこちらの結論になってしまう。
それが後になって、最初から疑いの方がただしかったということを告白されて、ものすごく悔しく裏切られたような気持ちになったりする。わかっていたのに、無理やり信じさせたのはそっちじゃないか、と思ってしまう。
言葉への信頼を裏切られるというのはものすごく辛く悲しい。でも世の中の人は、言葉を重視していないみたいだ。行動とか態度の方が重要なんだ。
逆に、立場をひっくり返したらいいのか。言葉ではなく行動と態度を聞いて、言葉ではなく行動と態度を信頼したらいいのか。どこかにそういう慣用句のようなものがあった気もする。でもそれって、相手の誠実さをはなから信頼しないってことじゃないのか。そんなことしていいのか。
こういうことを考えることが、度々ある。
俺は勝手に信憑性を%で認識している。 相手はこう言っている。真実である可能性30%とか、本気度60%とかそんな感じ。 嘘じゃないけどそんなにガチでもない時とかあるし、期待値を下げ...
30%信じるって、70%信じてないってことじゃないですか。 それは「相手の誠実さを信頼していない」ことのような気がして、ものすごく辛いんです。 これも何かズレた認識なんで...
相手の信頼できる誠実さを感じれるなら100%信じたらいい。 なんか嘘くせーなって思う時って変に追求してもこじれる場合あるじゃん?そういう時に30%だけ信じたりする。 増田がめちゃ...
わかります。 ありがとうございます。
あ~、私と似ているような似ていないような。私も人の言葉をそのまま額面どおりに受け取ってしまうことが多くて、実際ならあり得ないことも「へぇ~、そうなんだ」とか納得して周...