2017-10-26

夢を捨てたわたし反省

本当は後悔文だけど、敢えて反省文、と書こうと思う。ある日夢を捨てた。それからのまだ短い人生について書く。

何のために大学に入ったのか。最近よく考える。何のためだったんだろう。今更レールから外れて生きていこうとは思わないけど、そうしたら全然違う将来みたいなのがあったのかな。そんな風に。

努力は嫌いだった。嫌いだったけど、全くしないわけではなかった。できるだけ最小の努力で得られる中で、世間的に一番いい未来を選び取ってきた。

夢がないわけではなかったけど、いつの間にかこっちを選んでいた。大切な家族わたしの夢を嫌っていたし、わたしは夢よりも家族を選んだ。その程度の夢だったんだと思う。

18の春に、田舎高校から都内国立大に進学した。一般入試は面倒だったから、公募推薦で入った。昔から小論文は得意だった。自由に述べる文章は苦手だったけれど、テーマを与えられるものはそうだった。何故だかいつも、求められている答えがぼんやりと分かった。課題文や、設問の言葉の選び方や、注の入れ方で、いつも何となくこう書けばいいんだなと分かった。その時も、生まれてこのかた考えたこともないような"自分の考え"を、誰かの本で読んだことのある言葉を、自分言葉に言い換えて目の前の紙に書き連ねた。志望理由書でも面接でも自分本心には一つも触れなかったけれど、滞りなく合格通知が届いた。

努力は嫌いだった。嫌いだったけど、努力の使い所みたいなものは分かっていたつもりだ。海流を捕まえることができたときにはただ流されて、いつの間にかそこから外れてしまったときにだけ、ほんの少し自分の力で泳いだりした。そうしてまた流れを捕まえた。その繰り返しで生きてきた。その海流が、自分をどこに連れていくのかなんて誰にも分からなかったし、わたしにも分からなかったのに。今考えると馬鹿っぽい。

大学で学びたいことなんて、多分一つもなかった。学ぶことが嫌いだったとは言わない。学ぶという行為が好きだった時期も多分あったし、ずっと好きだった分野も、多分あった。でもわたし大学に行って手に入れたかったのは、世間的に良いなと思われるような人生への海流だけだったと思う。そういう意味ではわたしは行き着く先を分かっていたし、実際その流れは、確かにわたし目的地まで運んでくれたんだろう。

ゴールデンウィークの前、早々に内定が出た。何個か落ちて、何個か受かった。受かった中から選んだのは、かつての夢とは程遠い位置にある少しお堅い大企業だ。来年春になったらわたしはあの企業で働く。かつて夢を思い描いていた自分には、きっと考えられなかったことだと思う。それでもこれは、リクルートスーツを纏って精一杯背伸びしたわたしが掴んだ一つの未来だった。それは本当だった。わたしが本当に辿り着きたかった場所だったかどうかは別として。旅というのは、案外そういうものだ。目的地なんてない方が上手くいく。少なくとも、到着して辺りを見回したとき、「こんなショボいところだったんだ?」なんて思うことはないだろうから

一昨日、卒論を書く手を止めて、ふと、何のためにこの大学に入ったんだろうなと考えていた。窓の外に、台風でぐちゃぐちゃになった道が見えた。校内にイチョウを植えるなんてどうかしている。銀杏を潰した女の子が、隣の友人ときゃあきゃあはしゃいでいる。悩みなんてない風に見える。彼女たちも、いつか思ったりするのだろうか。何のためにここにいるのだろうと、考えたりするのだろうか。そうだとしても、わたしとは違って夢を持ってこの大学に入ってきたんだろうな。そう思ったら、少しだけ羨ましいような気がした。

羨ましい、というのは少し違う。わたしは何も捨てられなくて、何も得られなかった。そんな自分が少し恨めしかっただけ。それでもわたしはこれからもそうやって生きていくんだろうな。

今朝、窓を開け放して鼻から思い切り息を吸い込んだら、鼻の奥がツーンとした。台風が去れば気温は上がる。暖かい日はしばらく続くのだろう。それでもわたしは、もうすぐ冬がくるんだなぁと、そう思った。わたしペンを握る。この論文が書き上がったらわたしは新しい海流を見つけて、もうあの頃の夢を思い出すこともなくなるのかもしれないと、そんなことを考えながら。

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