2022-04-19

anond:20220418190253

(続き)教育に悪いと思うのはまさしく偏った価値観に基づく考えだ。

100万年前とかにまれていたら裸でほっつき歩いていても何も感じるものはないはずだからだ。

その教育に悪いという考えで子供に性に関するあらゆることを隠すことが、子供に性に関することへの後ろめたさを植えつけることになるのだ。

そもそも法律撤廃されると言う前提ならその未来撤廃された世の中で裸で歩いていても全く反社会的な行動ということにはならないので、裸を見て育つことが将来裸になって歩く因子になっているのだとしても、教育に悪いということには全くならないはずである

法改正直後には街やテレビ映像として裸が視界に入ってくることになり、それに不快感を示す人も一定数出て来ることだろう。

しか社会の移行期には誰かしら不都合を被る層が出てきてしまうことは当然なのである

産業が変わるときだって失業者は出て来るものだ。

一切の不都合を被る層が出て来ることを恐れてはより理想的な方向への変革もままならないのである

LGBTに対する多様性を確保した次には、このような法改正をすることでより大きな多様性を確保していくべきである

いずれネイティブに性に後ろめたさを感じる人はいなくなっていって、裸に不快感を示すことなど「お気持ち」に過ぎなくなるだろう。

ある意味原始時代に戻るわけである原始時代においてそんなことに不快感を感じる人など奇異な存在というものである

どんなときでも服を着なければならないということではなくなることによって、社会はより合理的に回るようになるだろう。

それだけではなく、同意の無い他人を巻き込まない限りは街中でオナニーすることや野外セックスだって可能である

こんなことを言えば、また教育に悪いとか言う人が出て来るだろうか。

極端な話だが目の前で殺人が起こったからといってただちにの子供の将来が殺人犯ということになっていくのだろうか。

そこらへんもひっくるめてリアルタイム子供矯正していくのが親の務めだと思う。

しろ自己完結的なあるいは納得ずくの性行為同意なき人を巻き込んだ性行為との峻別を絶えず親は教えていくべきである

街中で他人の納得づくの二者間のセックスを見たからといって、その子供の将来がただちに強姦魔に決するというのは、殺人の一部始終を見た子供殺人をするようになる以上の飛躍というものである

普通に教育すればこれほどの飛躍が発生することはまずないはずである

現代面前DVの定義には性行為を見せることというのがあるそうだが、個人的には嫌なことを強要し続けた段階で何事もDVであると思う。

逆に、嫌なそぶりを見せたらすぐひっこめればDVには当たらないと思う。

教育用のひらがなを教えるようなビデオを見せても関心を示さな子供の首を無理やり固定してするようなことはむしろ虐待であるから勉強かに興味がないとわかったら、ただちにボール遊びとか、次の将来につがなるなかで子供が興味を示すようなことを模索するものである

それと同じ感覚で性行為を見せるのには問題はないと思う。

興味を示したらもっと見せればよく、将来AV俳優として大成するかもしれない。

興味を示さなかった以後ら見せなくすればいいだけの話である

性に関することについて何が処罰される社会に変わるのか少しわかりづらいかもしれない。

簡単に言えば現代でも強要罪にあてはまるもの処罰対象限定されるようになるということである

たとえば今で言う露出狂基本的強要罪の対象ではない。

見たくなければその場から立ち去れば済むからである

しかし立ち去った相手にわざと近づいてその眼前で性器をぶらさげながらとおせんぼするようなことは、公然わいせつなどが廃止されても強要罪にあたるだろう。

こういうことに処罰限定されていく社会になるのである

そういうことがしたかったなら、もし既に裸であるなら一定の離れたところから(具体的な距離はここで考えることではない)同意を求めるべきである

事後承諾に期待するのは勝手だが、あとで同意がなかったと被害届を出されても事後承諾を図っていたことが発覚した時点で情状酌量余地はないことに留意するべきである

ゆるくするところはゆるくなら、きつくするところはきつくというものである

基本的には強要罪に一元化されるが、性に関することについては厳罰化検討されるというのは前にも書いたとおりだ。

基本的に同じ行為に対する罰則理由なく厳罰化するということには不公平感を感じられるものだと思う。

しか煽り運転厳罰化したように、悪質な犯罪が増えた場合にはそのようなことになるという例はある。

悪質な犯罪が増えることが予期された場合には厳罰化検討ということも普通に考えられるわけである

もっともとそれが性に関する法律を一部ゆるくするという法改正によるものならば、最初からそんなことしなければ厳罰化しなくても済むじゃないかという反論もありえよう。

しかしこれはより高度な自由享受するための改正なのである

なので結局改正のほうを否定するのではなく、改正したのちの未来犯罪の動向についてどう対処すればよいかという話に帰結するべきだということになるわけである

性に関する法律がこのように緩和されて性に対する余計な後ろめたさがなくなれば、今はわいせつとかされているものに対する不快感もなくなっていくだろう。

ゾーニング必要特になくなる。

そのように性に対する価値観が変革した社会においては表現規制存在も真に疑問視され、なくなっていくかもしれない。

まりオタクのためにもなるわけである

親展の手紙を送るのは、法改正までのつなぎとして行うべきと思ったこである

記事への反応 -
  • 強姦罪は同意のないセックスに成立するのが基本だが、公然わいせつ等は同意の有無に関わらず成立する。 これを公然と裸になった程度では周りの同意の有無に関わらず犯罪として成立...

    • (続き)教育に悪いと思うのはまさしく偏った価値観に基づく考えだ。 100万年前とかに生まれていたら裸でほっつき歩いていても何も感じるものはないはずだからだ。 その教育に悪いとい...

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